投稿者「dipex-j」のアーカイブ

英国人の喪失体験の語り

ウィリアムは大きな事故があり道路が通行止めになったことをラジオで知った。家に電話を入れると、そこに居た警察官から病院に向かうよう言われた。病院に着くと、ローレンが亡くなったことを知らされた。

ロレンは演劇に秀でていて、演劇、歌謡、ダンスなどパーフォーマンス全体を楽しんでいました。2005年には選考審査に通って、“シェイクスピアの夕べ”という特別なイベントに向けて準備をしていました。事故の起こったのは2005年の6月21日でしたが、ロレンの通っていた学校の教師の引率のもと、彼女を街で行われていた“シェイクスピアの夕べ”のリハーサルに連れて行ってくれていました。リハーサルは一日中行われ、また予定よりも1時間半ほど長引いたので、私が思うには、ロレンは乗り継ぎのバスに乗り遅れるのではないかと心配して、引率の先生にあそこで降ろしてもらえるように頼んだのでしょう。あそこからなら予定の場所で降りるよりは少し早く家に着いたでしょうから。そして、その場所はハイウェイの閉鎖された側にありました。引率の先生がバスの運転手にロレンの途中下車の旨を伝え、運転手とロレンの間に何かしらの会話があったと思うのですが、バスは道路脇に停車し、ロレンはバスを降りたんです。そしてバスは発車し、ロレンは、片側4車線だったと思いますが、ハイウェイを反対側へ横切り、4車線目を渡ろうとしていたところを時速50から60マイルで走ってきた大型トラックにはねられました。その後の検視報告によれば、ロレンは瞬時に意識不明となり、その直後に死に至っただろうということでした。
私はその日の午後6時頃、給油するために職場の近くのガソリンスタンドへ乗り入れたところ、ラジオで、ハイウェイがロレンの家の近くで大きな事故のために閉鎖されていると聞いたんです。娘が事故の前に無事帰宅したかどうか確かめるために家へ電話をいれました。するとロレンの母親が電話に出て、家に警察官が来ているのだけれど、そのうちの一人が私と話をしたいと言っていると言いました。それでその警察官が電話にでて、ロレンが事故に巻き込まれたので、速やかにしかも安全に病院へ向かうように言いました。私が、“わかりました。今すぐ家へ向かいます。”と言いますと、“病院へ向かってください。ロレンは病院にいるでしょうから。”と言ったんです。そうですね、病院へは20分くらい運転して行ったのですが、そのときにはもっと長くかかったように思いました。

お辛かったでしょうね。

ええ、つらかったですね。その間、アドレナリンが体中を巡っているのを感じました。
私はかなり速い速度で運転していたと思ったのですが、病院について駐車し、救急治療室の方へ走って行った時に、私の父親と息子がもう先に来ていて、ドアのところに立っているのに気がつきました。私が、どうなっているのか聞こうと二人の方へ行きかけると、警察官の一人が私を脇に引き寄せて、こう言いました。“こうお伝えしなければならないのはとてもつらいのですが。” それで私はとっさに、これは最悪の事態だろうと判断して、“ロレンは死んだのですか。”と問い返したんです。警察官は、“ええ、そうなんです。”と答えました。覚えているのは、私がこの時最初に思ったのは、父がこのことを知ったら、死んでしまうのではないかと言うことでした。高齢でしたから。でも既に知らされていたのでしょう、この時父はロレンが死亡したことをもうわかっていました。

英国人の喪失体験の語り

ディーンは警察からの電話により息子が交通事故に遭ったことを知らされ、深いショックを受けました。彼は病院に行きアンドリューの遺体と対面しました。

2006年5月24日水曜日の午後2時45分頃でした、息子が自動車事故にあったという知らせを警察からもらったのです。警察は、私の職場へ立ち寄って車で一緒に病院に連れて行ってくれたのです。道が混んでいたので、病院についたのは、4時45分から5時頃でした。待合室でしばらく待つように言われ、待っていると、やがて医師が出てきて会いました。その時点で、息子は亡くなったと分かったのです。ひどいショックでした。

もちろん、そうでしょうね。

心が受け付けなくて、何が起きたのか理解できませんでした。

誰がそのことを説明してくれたのですか?お医者さんですか?

病院の研修医でした。ベストを尽くしたのだけれど、蘇生できなかったと言ってました。心残りは、その日の朝、彼は大学にでかけたのですが、彼は既に法律でファースト・クラスの優等学位を取得し、もうすぐ修士課程を修了するところでした。ハーバード大学での職を待っていたところだったのです。彼は全ての時間を自宅で勉学に費やす若者でした。彼にとっては、母親が最高の友人でした。彼は社交的なことや会合は得意なほうではありませんでしたが、その日は、朝刊を読んだ後、ロンドンで何人かの友人に会い、映画をみて、それから食事をするという約束をしていました。外出して街で夜を過ごすなんてことは、ここ5~6年で初めてのことでしたから、母親には「10時から10 時半頃の帰宅でも構わないよね。駅で拾ってくれる?」と尋ね、母親もそれに同意していました。
それは、ごく普通の日で、いつもと同じでした。私は駅で妻のサージットとアンドリューを降ろし、そこで見送って、それから職場に行ったのです。そして、なぜか分からないけど、その日は気分がすぐれませんでした。それが予感だったのか、それともただの気分だったのかわかりませんが、不快感を覚えていました。妻もその日は、保健省の会議に出ていたのですが、会議に集中できず、気分が悪く、お腹の痛みや足のしびれを感じ、説明のつかないむかつきを覚えていました。話があちこち行ってまとまらないで、済みません。

構いませんよ。

私は病院にいました。警察が、私をそこに連れて行ってくれたのです。私の親友も一緒でしたが、そこでアンドリューがでてくるのを暫く待つようにいわれました。初めに見たものは、命絶えて横たわっている私の息子でした。

お一人でですか?

そのときは一人でした。私の妻は後に来るはずでしたから。私の友達で、一緒に働いて医師らが途中で車に乗っけて病院へ連れてきてくれることになっていたのです。

しばらくは息子さんのご遺体と一緒にいることができたのですか?

ええ、しばらくは一緒に居ることが許されました。息子は打撲と傷だらけの死骸になって霊安室に横たわっていました。あんなに陽気で楽しかった若者が、冗談好きで、ひとと話すのが大好きだった子が。

車に撥ねられてですか?

はねられたのです、彼らの住居から4軒くらい先のバス停ではねられたんです。午後の2時45分頃でした、はねた車に乗っていたその3人の若者は、無免許で保険もかけておらず、何もない人たちでしたが、彼らの言によれば、速度は落としたものの、時速30マイルくらいでやってきてアンドリューをはね、ひっくり返って上下逆さまに着地したのです。ひどい事故にもかかわらず、彼ら自身が死ななかったことは驚きです。彼らは運が良かったのです。運転者以外は車から這い出して自由に歩いて行き、運転者は病院に運ばれたけど、足の骨折だけだったそうです。もちろん、病院は彼を治療し、私たちには充分の配慮をしてくれましたけど、大きな喪失感を感じました。

英国人の喪失体験の語り

スティーヴンは事故後に病院で朦朧状態であったときのことを覚えている。家族が彼のベッドを取り囲んでおり、弟が亡くなったことを彼に知らせた。スティーヴンは弟の死が信じられなかった。

以前お話ししたように、運転していたのは19歳の若者でした。警察官は、彼が飲酒運転の制限値の2.5倍以上もの飲酒をしていたと言っていました。あの道路で法定速度(時速30マイル)の2倍以上もスピードを出していたのです。そのとき私たちはちょうど家に向かって歩いていました。よく晴れた1月の夜で、私たちは反対車線の縁石から数歩離れたところにいました。
突然、その車が私たちに向かって突っ込んできました。目撃者の証言によると私の弟は勢い良くはじき飛ばされ地面にたたきつけられたそうです。義理の弟は車と接触したにもかかわらず、幸運なことに軽傷でした。
そして私はボンネットからフロントガラスを突き破り、ルーフに向かって投げ飛ばされました。彼が車のブレーキを掛けたために、私は地面の上に転がり落ちました。
腕に刺さったフロントガラスを抜き取るのに大体1週間かかりました。
その夜、私は2回も蘇生術を受けました。ひどい怪我だったために脚の大部分を失いました。事故から3年も経つのに、今でもあのときのことをはっきりと覚えています。
あのとき思ったのは、今がそうなんだ、これから自分は死んで行くんだ。こういうふうに死んで行くんだなぁと思ったのです。意識は朦朧としていていました。私が覚えているのは病院に向かう救急車の中で、サイレンの音が聞こえていたことでした。
そして次に覚えているのは、廊下を通って運ばれていたことです。自分がどこにいるのかを確認するために、時々目を開けていたのだと思います。CT検査をされ、私を取り囲んでいた医者達が私の脚をまっすぐにするために添え木をつけようとしていました。
彼らは私の脚をまっすぐにしようとしていました。そしてそれから何時間かたって、8時間くらい後だったと思いますが、弟が死んだことを告げられました。

恐ろしい瞬間だったのではないですか。

そうですね。実際には超現実的でした。痛み止めのせいで意識が朦朧としていたからだと思います。夢見心地でした。前にもお話したように、私は何が起こったか全て知っていました。ひどい事故に巻き込まれたのだ、と。でも、弟が死んだと言われたことは悪い夢か何かだろうと思っていたのです。

誰があなたに弟さんのことを伝えたのですか?

家族全員です。私が覚醒したのは日曜の朝9時半ごろでした。目を開けると夢を見ているように感じました。足先から頭までぐるりと家族が私を取り囲んでいたからです。私は無言で、皆の顔の中から弟を探しました。
やはり弟はいませんでした。母と甥が私の横に立っていたので、弟のことを尋ねました。母は憔悴しきった顔だったので、悪いことが起こったのだと気づきました。
母は甥に事実を伝えさせました。厳密には弟は地面にたたきつけられた時点で死んでおり、生命維持装置で命をつないでいる、と。
家族が見つけた時には弟は脳死状態だったそうです。

そのことを伝えられたときどのように感じましたか?

信じられませんでした。

英国人の喪失体験の語り

マーティンの妻は制御不能に陥ったバスにはねられて亡くなった。マーティンが事故現場に到着したのは、彼女が亡くなった直後だった。彼は深いショックを受け、自分の人生は永久に変わってしまったと感じた。

私の妻は娘の学校のロリポップレディ(通学路の安全を守るために交通整理などを行う雇員)をやってました。彼女は二つ仕事を持っていて、ロリポップレディの方はほんのお小遣い程度の給料だったのですが、とても楽しんでいました。いくばくかの自由を楽しみながら、家計の支えにもなるちょっとした仕事だったのです。彼女は35歳でした。娘は当時5歳でした。だから、妻にとってロリップレディは好都合だったのです。娘は、私が仕事に行っている間に学校が終わると、交差点で母親と一緒に、ボタン押しなどを手伝いながら仕事が終わるのを待つのが常でしたから。
そして2006年の9月でした、バスがコントロールを失い、中央分離帯を乗り越えて舗道に乗り上げ、そこにいた私の妻、ステフにぶつかったのです。フルサイズの一階建てバスでしたが、即死でした。その週は仕事が休みだったのでその日も娘を迎えに行く途中でした。私はその時、ステフのいた所から100ヤードほど離れた角の向こう側に立っていたんです。だから横断歩道はまだ見えていない時でした。でも、バーンという物凄い衝突音がしたので、走って現場まで駆けつけました。私が一番早く現場にかけつけたと思います。

ひどいですね、本当に心が痛みます。

どんな光景を目にしたかは想像がつきますよね。
私はもうヒステリーを起こして、叫んで、悪態をついて・・、忘れられません、今もちょっとしたフラッシュバックが起きているんです、2年も、2年たった今も、細かなことまで覚えています。その時の太陽の光と、「俺の妻だ!俺の妻だ!」と叫んでいたこと。そして人々の顔に現れた恐怖の表情、毎日のように顔を合わせていた保護者の方々が顔を覆っていたり、叫んだり・・・。私は学校の壁に崩れるようにもたれかかって、ステフの所へ歩み寄ることができませんでした。直感的に分かっていました、説明はしにくいんですが、ただ、もう結果は分かっていたので、できなかったんです。ぼんやりとですが、バスの運転手がバスの下を覗いていたことは覚えています。そして、すぐに警察と救急隊がやってきてくれました。本当にすぐでしたね、みごとなくらい迅速でした。
次の数分間は何が起こったのか覚えていません。ただ、救急隊員の方にステフが大丈夫か尋ねたことだけは覚えています。彼は私を壁にもたれかけるように座らせて、ただそこにじっとしているようにと言い続けました。そのことが、はじめに直感的に感じた妻の死を、さらにまた強く認識させたのです。しばらくして、救急隊員の方に、「ステフはもういないのですか」と聞くと、「えぇ、残念ながら」という答えでした。そして、その瞬間、無数のことが心をよぎりました。そう、その時は泣けませんでした。ショックがあまりにも大きかったことか私の性格だったのかもしれません。今日や明日の心配ではなく、これから漠然とたちはだかる絶望をひしひしと感じていました。 その時になぜ、そんなことを考えたのかは分かりませんが、とにかく俺の人生はもう終わったんだ、と感じました。その時のことは今でも鮮明に記憶に残っています。もうステフはいないんだ、という悲しみと俺の一生が変わってしまったという実感。とても充実した結婚生活だったんですよ。だから、いつまでも続けたかった。でも、本当の悲痛は数時間後に来ました。

英国人の喪失体験の語り

サリーの母親は火災で亡くなった。煙草の吸殻は火事の元になると、もっと口うるさく母親に注意していればと、サリーは後悔している。

事件が起こった日ですか?確か土曜日だったと思います。

何年でしたか?

2007年9月15日。まだ私が寝ているところに兄が電話をかけてきました。携帯は音が鳴らないようにしてあって、私が電話に出なかったので、兄はそのまま私の寝室に入ってきました。土曜の朝8時だったので、何か悪いことが起きたのだとすぐにわかりました。兄は、「お母さんが亡くなった」と。私はベットから飛び起きて言いました。「信じられない。何が起こったの?どうして?」「火事だ。」と兄が言いました。その時、原因は煙草に違いないと思いました。

お母様はヘビースモーカーでしたか?

いつも吸っていました。私はじゅうたんに落ちる煙草の吸殻や灰に気をつけるようにいつも言っていました。「お願いだからいつも煙草火の始末に気をつけて」って。だから兄が火事だと言った瞬間、「煙草よ、煙草に決まってるわ」って言ったんです。確信していました。どんな気持ちって、最初は罪悪感におそわれました。わかってたのに、どうしてもっとうるさく言わなかったんだろうと。でも煙草は母の唯一の楽しみだったんです。やめるわけないと。それで、とにかくベットから飛び起きて、その時何を思ったか、わかりません。ただ子供たちのことのほうが気がかりでした。私の子供たちは母のことが大好きだったので。自分よりみんなのことが気になりだして。母性本能とでも言うのでしょうか、子供たちを守るために、子供たちが頑張れるように、自分もみんなのために強くならなくてはと。」

英国人の喪失体験の語り

カレンの母親の自宅で火災が起きた。夜中にもかかわらずすぐに駆けつけたが、消防士が母親を助けだせなかったことを知る。

ええ、母は亡くなったわ。火事が起きた時、サマーセットにいた姉から電話があったの。私の姪が姉に電話をして、母の家が火事だと。まだ夜も明けない3時15分ぐらいだったわ。夜は職場からの呼び出しがあるので、必要があれば対応できるようにしていました。だから、あたふたしなかったわ。夫を起こした後、誰かが尋ねてくるかもしれないから、同居していた娘に、「おばあちゃんが大変なのよ。出かけてくるから留守番をお願い。」といって犬と娘を残して母の自宅へ車で向かったの。それほど遠くはないけれど、時間が時間でしょ、まだ暗くてよく見えなかった。途中で道が閉鎖されていたから、車を一旦止めたの。夫が母の自宅の反対側の駐車場に車を停めて、すぐに車から出て、近くにいた若い警察官を見つけたわ。「母親がまだ中にいるのよ」と言うと、警察官は 「あなた誰?」 と言わんばかりの顔。「ここは私の母親の家なのよ。だから私は娘よ!」と言うと、彼は何と言ったらいいのか戸惑っていたわ。そして 「ここで待っていてください。目上の者を呼んできます。」と。すぐに察しがついたわ。もうひとりの警察官が来たんだけど、何にも言わないの。「母は救出できたの?」と問い詰めたわ。なぜって、姉の電話だと、母を助け出すことができなかったと、姪っ子が話してたらしいし、そんな時間帯の出来事に状況がよくわからず混乱していたから。だから、しっかり確かめたかったのよ。でも警察官からの言葉など要らなかったわ。彼の表情がすべてを語っていた。実際、彼は一度も母を救出できなかった事実にうんとも言わなかった。宙ぶらりんに放って置かれた、そんな感じだったわ。

英国人の喪失体験の語り

自動車修理工場の爆発の後、マイケルと彼の妻が病院に駆けつけると、ルイスはひどい火傷を負っており手術を必要としていた。3日後に生命維持装置が外された。

はい、2004年の2月19日でした。妻から電話があって、ルイスが職場で事故に遭ったと聞きました。それも、かなり重傷だと。そのとき私はサウサンプトンで働いていたので、車で向かいました。運転中、ラジオをつけていましたから、それで爆発事故のことを知りました。そのときは、これから自分が一体どんな状況に足を踏み入れようとしているのか、知りもしませんでした。でも、ひどく嫌な気持ちでした。というのも、妻は文字どおり家にこもりっぱなし、障害者だったからです。
妻は家から出られないので、娘が病院に向かいました。妻は、自分の妹に連絡して、病院で娘と落ち合うように伝えました。私は病院に着くと看護婦に迎えられ、病室のほうへ案内されました。看護婦は、これから目にするものを見る覚悟はできているか、と私に尋ねました。「それは、もちろん、私はただ息子に会いたいのです」と答えると、看護婦は、「あと10分か15分ほど待っていただかなければなりません。今は医師が治療をしていますので」と。それで、私は言いました。「あの、息子は生きていますか?」「はい。生きていますとも。ただ、ひどい火傷を負っています」と看護婦は答えました。15分か20分たったころか、そのくらいです。すみません、あのとき私は別室に案内され、娘と義理の妹に会っていました。私たちが座っていると、看護婦が戻ってきて、ルイスに会いに行けると言いました。病室に入ると、ルイスは眠っていました。鎮静剤を飲まされていて、全身が白い毛布のようなもので覆われ、鼻のまわりには煤がついていました。でも、顔は、顔には傷ひとつなく、火傷もまったくありませんでした。

鼻のまわりにあったのは何でした?

煤です。

ああ、煤。

爆発で発生した煤です。ガスと煙を吸い込んだせいです。でも、病院側からは、ルイスの顔を見ることしか許されませんでした。顔を見たら、ルイスはすぐに熱傷の集中治療室に移動しなければなりませんでした。それから、私たちはそのあとはルイスから引き離されたので、自宅に帰りました。
そのとき、病院から、翌日に死体から採った皮膚をくっつける手術をすると言われました。

皮膚の移植?

皮膚の移植です。焼けた組織を取り除き、そこに新しい皮膚をつけるのです。手術は5、6時間の予定でしたから、その日のうちに終わることがわかっていました。だから、翌日、電話をかけるたびにまだ手術中だと聞かされると、だんだん心配になってきました。あまりに長い時間がかかっていましたから。確か、結局10時間か11時間くらいかかったと思います。私たちが病院に戻ると、看護婦から、ルイスは若くて体力があるから、手術を2回に分けてするよりもこの機会にもっと貼り替えておこうと、続けさまに1回の手術ですませたのだ、と聞きました。それを聞いて、大きな希望がわきました。ただ、指が1本、もう使えないほどひどく火傷しているので、切断しなければならないと言われました。私たちは少し悩みました。指を失うことにルイスは耐えられるのだろうかと。それから私たちは病院をあとにして自宅に帰りました。次の日は、すべてが静まり返っていました。夜だったと思います。3日目の晩、病院から電話を受けました。夜中の3時ごろでした。ルイスの症状が悪化したのです。私たちは起きて病院に向かいました。病院に行って、待ちました。4、5時間待って、ようやくルイスと面会しました。医師が来て私たちを見ると、こう話しました。ルイスにはいくつか問題があり、内臓の機能が停止し始め、もう長くは持たないだろう、と。私たちが病室に通されてルイスに面会したちょうどそのとき、私たちが病室にいるあいだに機械が止まって、ルイスの生命兆候は完全に停止しました。医師が口を開きました。「その、我々にできることはこれ以上ありません。生命維持装置を停止する許可をいただかなければなりません」
私には決断を下すことができませんでした。だから、妻がしました。それで、医師たちは、ルイスはもうここにはいないのだと言いました。

お悔やみ申し上げます。

そのときが一番つらかった瞬間です。そのあとは、宙に迷ったような状態になります。すべてのことが、ただただ頭の中を通り過ぎていくだけになるのです。私は死亡証明書を受け取らなければいけないから、待っているように言われました。「死亡証明書のなにがそんなに重要だっていうんだ? 郵送できないのか?」そう思いましたが、当然待たなければいけません。20分くらい待って死亡証明書を受け取りました。それから、私たちは外に出て、抱き合いました。それで、家に帰りました。なんと表現すればいいのでしょう。まるで誰かが自分の内側に手をつっ込み、すべてのものをもぎ取ってしまったかのようです。空っぽで無感覚。妻を見るだけでルイスを思い出してしまうのです。

英国人の喪失体験の語り

ドロシーは、廃棄物再生工場での大爆発により亡くなった息子のマークについて何が起きたのかを語った。事故を知った家族はマークに別れを告げるために病院へ向かった。

息子は、(工場では)労働衛生安全管理が全く行き届いておらず、マネージャーからは安全性に問題がある作業を強いられていると言っていました。2005年4月11日は、実は私の誕生日でもあったのです。誕生日を祝ったのはあの日が最後。あの日、息子は、他に仕事を見つけたから、辞職届を出すんだと電話で話していました。それが最後で、もう二度とあの子と話すことが出来なくなりました。
4月12日、会社のマネージャーは廃棄物処理用の噴霧器4000個を受け取り、梱包機に積載し、それらの噴霧器を梱包するようにマークに指示しました。それにはブタンガスが充満されていました。当時、マークは建物内にただひとり。ものすごい爆発が起こり、火の塊が屋根の一部も窓も吹き飛ばしました。非常口は内側から鍵がかかっていて、その中で火に包まれてしまいました。マークは助けを求め叫びましたが、消火ホースも、消火用毛布も設置されていなく、現場の作業員は火災訓練など一度も受けたことがない。消火器がどこにあるのかさえも知らないような状態でした。消火器をどうにか見つけ出しても、中は空だったのです。つまりあの子は焼け死ぬような状態にとり残されたのです。

お気の毒なことでしたね。

火災が起きた時にも、救急車が着いた時にも、マークはまだ生きていました。実際自分で救急車に乗り込んだのです。最初に連絡を受けたのは嫁からでした。電話があり、「今すぐに着て。爆発があったの。マークは病院にいるけど、もう望みがないの。」と。すぐに夫と私は旅行かばんを車に投げ込み、5時間もかかって病院に着いた時には、もう真夜中でした。2階の集中治療室に連れて行かれました。若くて、とても感じのいい先生が、この先生だけが唯一私たちに親切にしてくれたのですけど、状況を説明してくれました。本当はマークを火傷の病棟に移動させるはずでしたが、救命できる可能性が全くないので、このまま生命維持装置をつけて、私たちが着くまであの子を穏やかに寝かせておこうということにしたそうです。それから私たちは病室に入りましたが、あの子は全く見分けがつかないほどまでに焼けただれていました。
ほんとに黒焦げで。面会が許されたのですが、いいえ、と言うより告別が許されました。息子に別れを告げていた時、隣の部屋からは台所の流しでカチャカチャと音が聞こえていました。真夜中に、誰かがひどく音を立ててお皿を洗っていたのです。なんだか鮮明に頭をよぎりました。私たちの息子の臨終の時に、いったい誰がお皿を洗おうだなんて。
私たちが病室を出た後、生命維持装置がはずされました。病室を出た私たちを例の女性が廊下で待っていて、布巾を手に言うのです。「これでようやく帰れるわね。誰か車に乗っていく?」後で知ったのですが、彼女が警察の家族連絡担当官だったのです。この時初めて家族連絡担当官という人たちと面識を交わしました。息子が死んだ時に遺憾とか残念とかの言葉も一切なく、ただ「これで家に帰れるわ。」と言うのです。そういう人たちなんだと思いました。

お皿を洗って、その人は何をしてたんでしょうか?

さあ、コーヒーか何か入れてたんでしょ。とにかくあの人は私たちが来るのを待っていたのです。その場には、私たち家族がいました。息子の親友もいました。彼は息子の結婚式の付添人だったのですが、奥さんと一緒に来ていて、マークの妻を支えてくれてました。

英国人の喪失体験の語り

ジョスリンは、息子のエドがバリの爆弾テロで殺されたかもしれないと感じ、愕然とした。エドがバリにいることを知っていたし、もし生きているのなら必ず電話をかけてくるはずだと思ったので。

ええ。あの日は、日曜日の朝で、日曜朝刊を買いに出て、サンデータイムスを手にしました。その時に、サイドラインの見出しにバリで爆破テロが起き、多数の死傷者が出たという記事を見つけたのです。
息子のエドがバリにいると解っていたので、私はひどく嫌な予感がしたのです。実際、彼が金曜日に私に電話をかけてきた時は、やっとそこから出発してラグビーのトーナメントに参加する為に仲間達とバリへ向かう事が出来ると、とても興奮して話していたのです。
バリは素敵な場所だし、楽しんで週末をそこで過ごすようにと、私は彼に伝えたのです。彼は旅行に慣れていて、旅の最後にバリに行くという急な計画を立てる不思議ではありませんでした。
だから、私は彼がバリにいると確証していたのです。私は車を運転して家に戻りました。家のドアを開けるとすぐに私の伴侶が、「香港からどなたか の電話が繋がっているわ」と受話器を私に手渡しました。
それはエドの友達でした。(ロンドンと香港の時差は8時間)香港では深夜にもかかわらず、彼は私に連絡を取ろうとしてきたのです。彼は、「沢山の人が殺害されていて、状況はとても深刻です。 香港フットボールチームは全力を尽くして彼らに何が起きているのか探していますが、今の所は何の情報も、エドの情報も把握できていないです。状況は極めて重大だと思います」といったのです。

英国人の喪失体験の語り

マシューは、両親と共にバリにいたときのことを語った。彼は兄のティモシーを探すため病院や遺体安置所をまわり、最終的には、歯科記録により身元が特定された。

そうなんです。兄はシンガポールで事務弁護士をしていました。バリには所属していたシンガポールクリケットクラブのラグビーチームの一員として出かけて行って、爆弾にあい亡くなりました。
テイモシーは僕より15ヶ月年上でしたから、生きていたら今49歳でしたね。タイ人の婚約者はシンガポールに残してバリには自分一人でチームメイトと一緒に行っていました。亡くなる前に、僕は3週間、両親と一緒にシンガポールで過ごしているので、テイモシーの婚約者にも会って知っていましたから、彼女からの電話で、テイモシーが行方不明だと言うことと、バリであった事件を知ったんです。僕自信も連絡を取ろうとしたのですが、できませんでした。それでシンガポールで会ったテイモシーの友達と連絡を取り、いったい何が起こったのかを把握しました。
テイモシーのシンガポールでの雇い主は銀行関係者で、バリの爆弾事件には直接的にも間接的にも大勢の同僚が巻き込まれたため、独自の救助隊を編成していました。僕は銀行と掛け合い、翌日両親をバリへ連れて行く手続きをしました。爆発は土曜日に起こりましたが、僕たちが知ったのは、日曜日の朝でした。月曜日、いや火曜日に僕たちはイギリスを発ったんです。銀行は要請を受けてサポートをしてくれましたが、外務省はほとんど何もしてくれませんでしたね。実際そのときには何が起こったのかを把握できていなかったのでしょう。
僕たちは外務省に連絡し、シンガポールに知り合いが居ること、兄の雇い主とも連絡を取ったこと、そして現地で何が起こっているかということを伝えました。兄は歯形から身元が判明するまで2週間ほど行方不明でした。
バリに到着してみると、自分と母と父だけしかいませんでした。ホテルでチェックイン後すぐに、僕は銀行の警備員と一緒に病院を回りました。そのときは兄が生きているのか死んでいるのか重症なのかそうでないのか、とにかく何の情報もありませんでしたから、あちこちの病院と遺体安置所を回ったんです。いろいろ見て歩きましたが、兄は見つかりませんでした。
僕たちは大きな病院を2、3回りました。インドネシアの人たちは被害者がこのように多数に上るような事故を予想だにしていなかったようで、遺体の収容場所がありませんでした。十分な医薬品も無く、病院や遺体安置所の片隅に氷のブロックが置かれ、遺体が廊下に無造作に放置されていたりしました。

それはひどいですね

それから3、4日して、外務省とインドネシア検死本部は、遺体の腐敗が進んでいるため、肉眼での遺体識別は許可しないと発表したんです。