投稿者「dipex-j」のアーカイブ

乳がんの語り

浮腫のケアは一生続くと言われてショックだったが、やれるときにやればいいと思えるようになったら気持ちが軽くなった

あのー、まあ、そのリンパ浮腫っていう病名自体、あのー、初めは知らなくって、まあ、手術の後にむくみますよっていうことしか言われてなかったので、それがリンパ浮腫であるかどうかというのも、まず、まあ分からない状態でした。で、えー、その主治医に、リンパ浮腫かもしれないっていうふうに、えー、言われたときは、もう、お薬とか何か手術とかで治るもんだって自分でこう、勝手、もう思っていたんですよね。ところが、その、ご紹介いただいた患者さんに聞いてみたら、一生治らないですよ、ただ、上手に付き合っていくしかないですよ。で、ケアは一生続きますよっていうようなことを言われて、すっごくショックだったんですよね。で、えーっ、こんなのが一生続くのーって、本当にその、これからやっていかなきゃいけない、自分がケアしていかなきゃいけない、注意していかなきゃいけないっていうことに対して、すごく不安にはなりました。
いろんな患者さんとか、あの、お話を聞かせていただく、お話をさせていただくような機会があって、で、そういったところで「みんな毎日やってるの?」とか、まあいろいろあるんですけれども、そういったところでやっぱり、自分が仕事で疲れているようなときにはドレナージはできない。だけど、やんなきゃいけないって言われたのに、ってこうなってしまうと、すごくこう心が重くなって、その、義務感だけがこう頭に残っちゃって、やらなかったことに対して、すごく、こう、何ていうんでしょうね、えー、不安になるっていうんですか、やらなかったから、1日やらなかったから、すぐに、むくんでしまうとかっていうことではないんですけど、その積み重ね、やらなかったことを積み重ねていくとそういう状態になるっていうようなこと。だから、できるときにセルフケアをしていく、えー、弾性着衣を着けていくというのは、まあ、慣れてくれば日常化になってきますし、できないときには無理してやらなくても、まあ、明日時間を作ってやればいいとか、帰ってから、じゃ、ゆっくり、お風呂に上がった後にゆっくりやるとか、そういったような時間を自分でこう上手に、時間を見つけられるようになってきたんで、うん、そういった面では、はじめ言われたばっかりのころの気持ちとは違ってきてますね。

乳がんの語り

近くにリンパ浮腫の専門家がいなかったので、患者会でリンパドレナージや弾性着衣などのセルフケアについて学んだ 

近くに、あのー、そういった病院がないということを言われて、で、すごくショックは受けたんですけど、ほかの患者さんでいないですかっていうことを先生にお尋ねしましたら、先生のほうで、患者さんを知っているっていうことだったので、じゃ、ぜひその患者さんをご紹介ください、ということでお願いしました。
で、その患者さんから、今のリンパ浮腫患者グループをご紹介いただいて、そこに連絡をしたら、もう講習会が、今月早速あるということだったので、すぐに、東京のほうに講習会を受けに行きまして、リンパ浮腫のケアの仕方を学んできたという状態です。

――具体的に、そのケアの仕方ということについて、どんなふうなことを今なさっているのか、教えていただけますか。

今は、「リンパドレナージ」と言ってまして、マッサージなんですけども、これは、皮膚の下にあるリンパ液を、郭清したリンパ節じゃなく、別な生きている部分の、体の中に何個かあるんですけれども、そちらのほうにそのリンパ液を持っていって、そのむくむのを防止するっていうそのドレナージ、リンパドレナージをやっているのと、あとは、日中ですね、生活する上で、むくまないようにということで、弾性着衣としてスリーブ、弾性スリーブと、ミトンを装着してます。あとは、むくみがひどいようなときには、夜、あの、バンテージというのをやるんですけど、やはりこれも、弾性包帯ですね、弾性包帯で、その、夜寝ている間に、むくみを防止するっていうような、ものをやっています。

乳がんの語り

術後1年ぐらいしたときにピリピリとした痛みと指先のむくみを感じて医師に伝えたら、リンパ浮腫かもしれないと言われた

手術後1年ぐらいしたときに、えー、右手のほうに、何ていったらいいでしょうね、あのー、痛み、ピリピリとした痛みが走ったんです。それで、主治医の先生に、「痛みが走るんです」っていうふうに言ったら、「うーん、肋間神経痛みたいなもんかな」っていうふうにはじめ言われたんですけど、どうも自分ではそうじゃないような気がして、で、また、次回の、あの、定期検診に行ったときに先生にお話ししたら、もしかしたらリンパ浮腫かもしれないっていうようなことを言われたんですよね。で、リンパ浮腫って、手術の説明のときにも、もしかしたら、あの、リンパ節を郭清しているのでむくむかもしれないっていうふうに言われてたんですけど、むくむっていうのはもうはれ上がるっていう状態だと思っていたので、こんな痛みとか、その、ピリピリ感とか、何かあるっていうふうな感じは分からなかったんですね。なので、もしかしたらリンパ浮腫かもしれないというふうに言われたときには、「あらっ、どうしましょう」って本当に思いました。で、先生に、「どうしたらいいんですか」って言ったら、先生も、「そういったことは専門外なので分からないし、リンパ浮腫を治す病院もこの近くにはないよ」っていうことを言われたので、すごくこうショックだったのを覚えてます。

――そのときにはもう腫れが来てたんですか?

自分としては、あの、少しむくむ感じ。まあ、指先のほうなんですけど、少しこうむくむ感じはありましたね。

乳がんの語り

他の患者たちがリンパ節郭清を受けなかったので、自分も大丈夫だろうと思っていたのに、センチネル生検で転移が見つかってリンパ節郭清となったのはショックだった

手術する前は、センチネルリンパ節生検というのがありまして、そこに、がんが入っていたら、リンパ節をすべて郭清(かくせい)しますよ、ということを言われてたんですが、先輩患者さんたちは、みんな郭清をしなかったので、自分も絶対に大丈夫だと思っていたんです。ところが、手術をしてみたら、どうも入っていたということで、あの、手術が終わってから、リンパ節郭清しましたよ、ということを言われて、すごくショックだったですね。

乳がんの語り

術後病理検査の結果が出るまでは退院しても心配で何も手につかないと思ったので、そのまま残って、2ヶ月近く入院した

その結果が出るまでにも何かすごく、その、病理のほうが大変混み合っていた状態で、えー、まあ、2週間くらいですかね、ずーっとその結果待ちだったんです。で、その間、退院してもいいよというふうに言われたんですけど、結局退院していっても心配で、結局何も手につかないというふうに思ったので、私は、その、病院に残ってほかの患者さんたちといろんな情報を集めたりするほうがいいっていうふうに思ったので、病院に残ることにしました。

――どのくらい入院されてたんですか?

えーっと、1月に入院して、退院したのは、えー、2月の末でしたから、本当に丸々2ヶ月近く入院してました。

乳がんの語り

子どもが小学生だったので、おっぱいがあった方がいいと思って温存にした

医師の説明では、「乳房温存が可能です」ということだったので、もちろん、躊躇なく、温存にしてもらいました。というのは、子どもがね、まだ、小学生だったんです。で、やっぱり、小学生だと、お母さんの体というか、まだおっぱいがあったほうがいいっていうような考えだったんです。なので、温存手術でお願いをしました。

乳がんの語り

乳腺症だろうと思っていたが、医師の様子でがんだとわかってしまった。一人だったので、看護師に家族を呼ぶか聞かれたが、何とか自力で帰った

告知されたときなんですけれど、半年前に受けたときに、乳腺症だっていうふうに言われてたので、結果は当然乳腺症だと言われると思って、本当に高をくくってたんですね。ところが、お医者さんが、診断結果を言う前に、まず、首をカクンって落としちゃったんです。で、あーっ、もしかしたらっていうのがあって、で、それでもう言われる前に、「あっ、がんなんですね」って言ったときには、「そうです」っていうことで、そのときに初めて告知を受けました。
 で、周りに看護婦さんとかがいまして、「今日は一人で帰れますか。車で来ましたか」っていうようなことで、一人で、告知を受けた後のショックとかっていうのを考えてくださって、「家族の方を呼びますか」とか言われたんですけど、いきなり家族も言われても困ると思ったので、まあ、とりあえず一人で休めば帰れますっていうことで、一人で自力で帰りました。

乳がんの語り

たくさんの友達に連絡して情報を得られたのはよかったが、「がん=死」のイメージが強く、幽霊を見るように見られたり、話してない人に伝わっていて複雑な思いをした

いいこともたくさんあったし、実際、その情報をたくさんみんなくれたので、体験していない友達も一生懸命自分たちのルートでいろんなこと調べてくれて。また、電話なりメールなりで、こういう病院があるんだってよとか、こういう治療があるんだっていうの、みんなほんと教えてくれたので、そういう意味では、すごくありがたかったことのほうが大きかったんですけど。ただ、すごく時間が経ってみたら、この人には言っていないのに、みんな、わたしが乳がんだっていうことを知っているっていうのはあったり(笑)。だから、やっぱり、みんな心配して言ったことなんでしょうけど、同級生とかが、「乳がんだったんだってね」っていうの話してない子たちが知ってるっていうのは、話したなあ、あの人たち…っていうのは(笑)、やっぱりあって。それは、まあ、ちょっと複雑ですよね。話していない相手が知っているのは、うーんって少し考えたところであったんですけど。まあ、でも、トータルすると、いいことのほうが多かったかなと思いますけど、はい。

――話してない方から、「乳がんだったんだって」って聞かれたりとかっていうことは、だいぶ経ったからあったんですか?

そうですね。退院してから、もう治療が終わったころ、出会ったの、ふと街中で会ったりして、「大変だったんだってねえ」とか言われたりっていうのはあって。何で知っているんだろうと思いながらも、「うーん」って言って。でも、やっぱりこう誰にでも、全部を話したわけではなかったので、「まあ、大丈夫だよ」っていう程度で済ませたりとかはしていましたね。
でも、時間が経って会うと、面白いもので、ほんとにみんな幽霊見るような顔で見たりするんですよ。だから、これって若い人たちのたぶん思い込み、自分もそうだったんですけど、がんイコール死んでしまうとか。がんイコール寝たきりになるとか、何かたぶんそういうイメージが強いのかなと思って。だから、20代で、ま、がんをして、周りもみんな20代じゃないですか、同級生とか。そしたら、出会うと、びっくりされるんですよ。「元気、ほんとに元気そうだね」って、ほんとに驚かれるので、ああ、よっぽどがんというイメージがそういうマイナスなイメージ大きいんだろうなっていうのは、すごく感じますね。

乳がんの語り

2,3歳のころは「ワニがお母さんのおっぱいを食べた」と言っていたが、7歳になった今は怖さまではわからないかもしれないが、「乳がん」という言葉は知っている

小さいころは、ほんとに、病気っていうことすら、よく分からなかったので、一緒にすぐお風呂にはずっと入っていて、で、息子なんですけど、こう右のおっぱいがわたしないんですが、ないことが普通だってずっと思っていたみたいで、子どもなりに、ずっとそう思っていたのが、ある日、2歳か3歳のころだったと思うんですけど、うちの母と初めてお風呂に入ったんですね、息子が。そしたら、「お母さん、大変、大変」って言って、「ばあちゃん、おっぱいが二つある」って言うんですよ(笑)。だから、ああって思って。ああ、そうか、息子にとっては、こっちが普通で、おばあちゃんが普通じゃないんだと思って。
で、ああ、これは、ちょっといつか修正してあげなきゃいけないと思って。
で、しみじみとこうまた2人でお風呂に入ったときに、「お母さんのおっぱいのないの、何でか知ってる?」って言ったら、やっぱり、聞いて、耳にしているんですよね。「がんがんでなくなったんでしょ」って言ったんですよ。だから、あ、分かっているんだって思って。で、「お母さんの病気ががんがんだって分かるの?」って言ったら、「うん、がんがんでしょ」って。まあ、その怖さとか分からないんですけど、「がんがんでなくなったんでしょ」って言って、「そうだね」って言って話をして。でも、そのがんがんがよく分かってなかったので、「お母さんのおっぱいは誰が食べたの」って、今度は、そんな話になって(笑)、で、ほんとにこうつい、「ワニさんが食べたんだよ」って言って(笑)。「お母さんは、ワニと闘ってね」とか言って、ちょっと作り話したら、しばらくは、ワニに食べられたって信じていて、ずうっとこう、「お母さんのおっぱいは、ワニさんが食べたんだよ」って、もう武勇伝のように、いろんな人に話しをしていて、まあ、それは、それでいいかと思ってしていたんですけど。
自分の仕事が、乳がんのことだったり、いろんなそういうがんっていう言葉をやっぱり、見聞きする仕事なので、子どもを連れて行くことが多いんですよね、そういう場所に。で、もう、だんだんほんともう分かってきて、今は、もうほんとすっかり分かっていて。乳がんっていう言葉もちゃんと知っていますし、マンモグラフィも言えるし、ほんとに、がんという怖さ、ほんとの怖さは分からないかもしれないんですけど。でも、自分の周りの乳がんの患者さんが亡くなったという話もちゃんと聞かせているので。
だから、がんという病気は、その、つらいこともあるし、悲しいこともあるし、亡くなってしまう人がいるっていうのも、子どもなりに理解はしているので。だから、たまにこう、「お母さんはがんがんで死ぬの?」とか、たまに言ったりするんですよね。けど、「お母さんは、大丈夫だよ、元気そうでしょ」って言って話をすると「そうだよね」って、まあ話をしたりしますけど。何か、自分が、乳がんで、右のおっぱいがないということは、もう、ちゃんと7歳なりに理解はしていますね。

乳がんの語り

夫は悩みを人に話すタイプでないので、つらかっただろうと思う

――何かこうご主人自身のサポートっていうのは、周りからあったんでしょうか?

たぶんですね、ゼロだったと思うんです。友達は多い人なんですけど、ほんとにその自分の心の悩みとかを話す人じゃないんですよね。だから、たぶん、ほんとにつらかったと思います。誰にも、たぶん、わたしが死ぬかもしれないっていう不安、もちろん、主人も持っていたと思うんですけど。そういう不安をどこかに話している気配は全然なかったし、両親にも話していないふうだったので、まあ、強がって「おれは大丈夫、おれは大丈夫」って言っていたので、たぶん、かなり、きつかったんじゃないかなあと思いますね。