投稿者「dipex-j」のアーカイブ

乳がんの語り

母の介護があり、家の近くで専門医のいる病院を選んだ

で、最終的に、行ったのは、8月の末ぐらいですか。もう、これで限界だなって、その頃には、やはり、1月に自分で、くりくりを感じたときよりも、もう、明らかに大きくなっていました。で、これ以上大きくすると、こう初期ではなくなるということで、もう限界だと思って、何が何でも、行こうと思って、9月の最初に病院へ行きました。
で、病院を、選ぶときですね、母がやはり、まあ、その頃には、認知症が少しずつ、進んできまして、で、食事の支度をしておくだけではなくて、やはり、こう、ちゃんとお膳に、整えて、で、「さあ、食べなさい」ってこう、箸をつけて、目の前に持っていかないと、自分で冷蔵庫にあるから取り出して食べるっていうこともできなくなっていました。で、そんな状況だったので、できるだけ、家に近い病院で、で、しかも、乳がんの専門医がいらっしゃる、ということで、病院を選びました。

乳がんの語り

自分でしこりが大きくなっているのを感じ、がんだと確信していたので、告知されたときやっぱりそうかとただそれだけだった。むしろ治療で生活がどうなるか気になった

で、私の場合は、半年以上も自分で、「あ、そうかな? きっとそうだな」というふうに、ずっと思ってきましたので、で、ほとんど、自分では確信的に、こう思っていました。全く、その、痛みも何もないしこりが、徐々に大きくなっているっていう、それを、自分で、ずっとお風呂に入るたんびに、「ああ、行かなくちゃ、ああ、少し大きくなったな、ああ、3ヶ月前に比べると、これは明らかに大きくなっているな、きっとそうに違いない」と、そういうことはずっと思い続けてきていましたので(笑)、先生から、「がんですね」というふうに、聞いたときには、「ああ、やっぱり、そうか」というただそれだけでした。で、その後の、むしろ治療することによって、日常生活が、どれくらい、ダメージを受けるのか。何とか、今のその日常生活ですね。仕事その他のことを、続けながら、ちゃんとやっていけるだろうか。そのことが気になりました。

乳がんの語り

しこりを見つけたが、仕事の区切りを待って受診しようと思っているうちに大きくなってきた

やっぱり、手術をしたり、それから治療のために、現在、やっている、その仕事とか活動とかを、そのストップさせなきゃいけない。その、何かね、こう好機をちょっと見計らっていきましょうという気持ちが一番強かったですね。で、次から次と、割と、NPO活動の、リーダー的立場になってやってきていたので、次々に、その計画が持ち上がってきたり、それから、私自身が外せないという状況にあって。それで、一つ終わってから、これが終わってからと思っていると、また次が、「あ、じゃ、これが終わってから」という、次のその区切り区切りを、こう思い計っているうちに、1カ月2カ月があっという間に過ぎてしまったっていう感じでした。で、まあ、自分の気持ちの中にも、一番、最初発見したときは、ほんとに、多分、その時点で検査に行っても、分かるか分からないかぐらいの、ほんとに小さな、小豆よりも小さいくらいの小さな、くりっとした玉を、こう意識した状態だったので、それが、まあ、「まだ大丈夫、小豆大」、「ああ、お豆くらいになってきたかな」と、「大豆ぐらいになってきたかな」というので(笑)。で、それを、超えた時点で、大豆を超えた時点で、「あ、これはもう、これ以上は、もうほんとに命とりになる」と、「リンパから、その他へ転移する可能性がある。そこまで、いったらおしまいだ」っていう思いで、「これは何がなんでも」っていうことで、行ったということです、はい。

乳がんの語り

腹直筋皮弁による再建術の後は、お腹から胸にかけて全体がしびれているようで、寒さにとても敏感になった(音声のみ)

お腹から結局胸に至る左胸のその、空間ですね。えー、胃、胃のあたりですね。胃のあたりは、全部しびれてますね。それは、あの、先生から言われました。これは、ずっと、まあ、痺れていると、ずっと、ついてきますという感じで。で、あの、40代は、わからない、その、今後どうなるかっちゅうのは、まあ、わかんない、想像もつかなかったんですけど。これが、まあ、あと、5年前からですね。あるときから、今度、寒さ、暑さはいいんですけど、寒さが日ごとに、きつくなりました。あ、これが、想像もしていない、また、分かんなかったことだと思いますね。
あの、5年前からですね、あるとき、やっぱり、胸の痛みと、こう普通のほんとに一度の、ちょっとした、寒さでも、もう、寒気がくるんですね。で、実際に、じゃ、何度ぐらいかというと、まあ、ほとんど、30何度でも、真夏でも、しっかりと、保温ですね、しないと、汗がほかのところで、山ほど、出ていましても、痺れがあるときからガクンと、感じ方が、やっぱり年とともに、違いがあるなというのは、ここ5年のうちのひしひしと感じています。

乳がんの語り

退院後1週間ぐらいで腹直筋皮弁法でできたお腹の傷が開いて黄色い汁が出てきて、それから2年近くずっと、毎日ガーゼを当てては取り替える日々が続いた (音声のみ)

退院しまして、退院の、えー、1週間経たなかったと思いますが、ボッコンと開いたんですね、傷が、あらっていう間もなくうわっと.。それから膿が出てきたんですね。で、そもそも、入院のときも、ガーゼ交換っていうのは、何回かね、決まっていたんですけど、そのところの傷口が、あの、とにかく開いて、汁、膿、膿みたいな黄色い汁が、出てきたんです。こういうのは、全く聞いていなかったもので、とにかく、電話をしまして、そして、その前にも少し、まあ、手術のあと、休暇してそこから一泊、ホテルで泊まって、そこから病院へ行って…。だから、早かったと思いますね。あの、退院してから、すぐ、1週間か2週間以内だったと記憶しています。
少しずつ、ひどいときは、何時間ごとにガーゼを変えるんですね、1日に、あ、何か、あ、何かどうかなって。だから、常に状態を見ている。それが、きれいに、全く、傷口がつまりふさがったということではないかと思うんですが。あの、汁も、(ガーゼを)変えなくてもいい。つまり、その状態が、まあ、1日何回かしていたものが、少しずつ、「あ、1回でいい」とか、「あ、よくなった」って、まるまるっていうことで、まあ、そのしっかりと、きっちりと(完治したのがいつか)、っていうのは、よくわからないんですけど。とにかく、汁気(しるけ)の(ために)常に、お腹のとこに(貼る)テープとガーゼと、持っていまして。常に、合間に、今は出ているかどうか(を確認する)という、そういう状態を、あの、何年も(経験)した記憶が思い出されます。

乳がんの語り

乳首の近くの小さながんのために乳房を全摘するのは、女性として割り切れない思いがあり、医師たちの再三の説得にもかかわらず、再建を強く希望した(音声のみ)

再建は、私自身、第一に希望していました。で、あの、自分の場合は、乳首の、1センチ以内ですかね、2センチ以内ですかね、とにかく微妙なところの、…その乳腺のそのちょっとした、このちっちゃい、ほんとの一点の細胞で、全部取るのはすごく、何か、割り切れないじゃないですけど、やっぱり、女性としまして、あの、細胞のそれいかんで、何か全部、取るっていうのは、すごく勿体ないような気がしまして。そして、ぜひ、ぜひ、再建してくれと。それは、もう手術する前から考えて、いましたし、あの、何とかっていうふうに、何回か、ほんとは、そのときの当時の、先生方っていいましょうか、その担当の先生は、まず、年代で見るんですね、一つは。で、私のそのときの状態は、まず、フリーであること、誰も子どももいない。
あの、子どもは生みましたが、当時私の手元には子どもはいない、旦那はいない、40、ま、結婚して、何かあっても、まあ、ね、その年代で、これは、全部、取ったほうがいいっていう、説明は、ほんとに、再三、3回ほど、私、夜になると2人の担当の先生と、顧問の、実際に手術をね、診ていただいたその先生2人から、もう、再三、取れという感じですが、私は、もう3回とも、断固としてもう、いや.。「考えるように」って何回も言われましたが、私は、もう、決めていました。いや、「再建ということで、お願いします」と。そこは、頑張りました。はい。

乳がんの語り

クールに淡々とがんであることが告げられたが、人生が終わりのように感じられて、1週間くらい涙の枯れない眠れない夜を過ごした (音声のみ)

先生のお話が、まず、クールで淡々として、「がんですよ」っていう、結局、「良性ではない」ということで、そのときは、クールだったと思います。「ああっ、ああ、そうかな」って。「えっ?」ていう感じで、信じられないっていうのが、そもそも、痛い、痛いっていうのは、がんじゃないよという、周りの感じもありましたし。変な感じは感じていても、直接言われたときは、「えっ?」っていう感じで、で、あと、やっぱり、帰り道ですね。じわじわと、「うあー、ついに、私の人生も終わりか」と、思ったり。そのあとは、ずっと1週間ぐらい、涙が出なくなるっていうくらいに、でも、涙は枯れないんですよね。涙はずっと1週間ぐらい、夜になると出て、そして、まずはやっぱり、絶望感ですね。もう何もかも終わったという。はい、そこから、そういう感じで、なかなか、もちろん眠れないですし、やっぱり、それががんだと思いますね。

乳がんの語り

市の検診(視触診)では異常がなかったが、胸の痛みが気になり、受診した (音声のみ)

1年に1回の、定期検診、市のですね。定期検診というのは、昔から、20代のころから、大概、受けていました。それで、28歳のとき出産しまして、で、(乳がんの)その手術を受ける1年くらい前、その前も、まあ、たびたびですね、左胸の、じーんと痛いっていうかね、乳首の、私の場合は、乳首の近く、だったんですね。そこが、じーんととにかく、まあ、毎日のようではないんですが、痛みを感じて。で、市の(検診)を1年に1回は受けていて、それで、そのときの、触診っていうんですかね、定期(検診)のそれは、手で触れ、お医者さんが手で触れる。それがちょっと不安になりまして、触ってみてもわからない、左胸のその、じーんとした痛みが何回かあり、ちょっとこれは変だなということで、手術の1年前に、実際に、大きな、地元っていうより、(県内の)大きなところで、診ていただきました。

乳がんの語り

友人たちが普通に付き合ってくれたのが嬉しかった。患者というのはただ話を聞いてもらえればそれで落ち着くこともある

ちょっとやっぱり負担をかけるかもしれないけども、本当に親しい友だちにはちょっと言わさせてもらおうと思って、少しまあ告知を受けて1カ月ぐらいしてから、少し気持ちも落ち着いてて、私、なぜか沈むことがないんですね。逆に負けるのが腹が立ってたんで、ちょっとパワフルに生きてたんですけども。友だちにも少しずつこう呼んで、話しだしたんですね。で、「本当に申し訳ない、ちょっとこういうこと言って、あなたに負担をかけるかもしれないけど、ちょっと私、がんになってしまったのよ」っていうことで、友だちはやっぱりあ然としてました。で、どう言っていいんかわからないんですよね、友だちも。
で、「あ、そうなの」っていう感じで。「えっ?」って感じでいたので、もう私のほうから何かこう、「大丈夫だから」っていうことで、話していったんですね。で、私の友だちって、本当に私、人に恵まれていたんですけれども、言ったからといって友だち別に逃げることもなく、普通に付き合ってくれたんですね、今までとおんなじ。「じゃあまた、体調のいいときに、また同じように食事しようね」っていうことで、体調的にも何も悪くなかったんで、同じように入院するまで、一緒にずっとこう付き合ってショッピングしたり、食事に行ったりしてたんですね。
で、その間も、患者というものは何か話したいんですよ。で、話せば気持ちが少し落ち着くんですね。で、聞いてもらえればいいんですよ。で、何も意見とか言ってもらわなくていいんですよね。で、それが私の友だちはすごくこう皆できた人が多くて、じーっと私の話を聞いてくれたんですね。で、何も一切言わないんですね。私の病気のことに関しては。「じゃ、がんばって」っていう言葉じゃなくて、「また会おうね」って感じで。で、「しんどくなったら無理せずに、しっかりっていうか、ま、ゆっくり治せばいいから」っていうことで、言ってくれたんですね。

乳がんの語り

まず母親に話して、留守だった父親に伝えてもらった。入院前に両親に会いに行ったら、父親は言葉には出さなかったが、涙を目に浮かべてとても心配していた

告知を受けた本人っていうのは、確かにショックもあります。でも日が経てば受け入れることが必ずできるんですよね。自分のことなんで、自分の気持ちは必ずコントロールできます。でも親にすれば、子どものことだし、やっぱり子が先になったということで、そのショックもあるし、体の状態もわからないんですね。しんどいんだろうか、いや大丈夫なんだろうかと。でもやはり母は先に、母からすればその祖母を亡くしてるんで、多分がん=(イコール)死っていうことがすごく頭をよぎったと思うんですね。おまけに母は父もがんで亡くしてるんですね。なのでもう、親にすれば私のほんとに何万倍もショックを受けていると思ったんですね。とりあえず、なんか私のほうがちょっと早く家に帰りたくなってしまって、ちょっと母1人を残すのもちょっと心配だったんですね。一晩母どうすんだろう、今日…と思いつつ、でも電話するのも、ちょっとなんか家に帰って電話しづらいしなと思って、悪いけどちょっともう、そっとしとこうって思ったんですね。
 で、それから少し経って、家とかにも行ってたんですけども、父はほんとに言葉には何も出さないんですけども、目が、私がいろいろ言っている間に、目が(笑)うっすらこう涙目になってるんですね。男親だし、その、泣けないっていうのもあるんですね。で、母親はもうちょっと涙目になって、涙を半分浮かべてるんですね。でも私自身は気はしっかりしてて、もうそんな泣いてる場合じゃないんで、あの、いろいろ話をしてたんですね。でも父が私の顔を直視できないんですよ。で、ちょっとたまたま父は体調を崩していて寝込んでたんで、私の顔を見ずに、もうちょっとしんどいから寝てるんだよって感じで、でもわかるんですよ。聞くのが辛いから顔をこっちに向けられないんだって。なんか様子からして絶対父泣いているんだって、思ったんですね。