投稿者「dipex-j」のアーカイブ

乳がんの語り

左足に骨転移が見つかり、骨折したかと思うほど痛みがあり、放射線治療を行ったところ、治療が始まって3日ほどで痛みが楽になった

9月になってから、今度は、もともと左足の骨の検査をしてたんですけど、6月に1回骨シンチをしたときも、「やっぱり、ちょっとこう骨の、これ骨転移なのかどうなのか分からないけれども、まず、ゾメタというその骨の骨転移の治療をする点滴をしよう」ということで、その骨の周りをこう強くする点滴を毎月やっていたんですね。で、それでも、6月に検査したときは、その変わっていなかったんですよ、がんの範囲が。で、「もう1回じゃあ9月にMRIを撮ろう」っていうことで、MRIを撮ってみたらば、「やっぱり、まあ、その大きさ自体は変わっていないから、これは骨転移でしょう」っていうことで。で、8月あたりから痛みが強くなってきたんですよね。で、1回入院、抗がん剤で入院しているときに、ズキーンとこう骨の中が、すごい痛みがきて、車いすのときもあったんですよ。1回、去年の8月かな? すごい痛くて、でも、1日経ったら治っちゃったんですけど。そんときだけは、ほんとに、何かこう骨の中が、こう骨折するようなというか、ほんとに折れちゃうんじゃないかっていうぐらい、ズキっという痛みで。座薬を使ったような気がするな、あのときは。で、何かその痛みが気になるっていうことを言ったらば、「じゃ、放射線をあてて、痛みをとりましょう」ということで、10月からまた25クールで放射線を当てました。足の骨に。で、「これで、消えるかもしれないし、もしかしたら、消えないかもしれないけども、がんの活動性は抑えられるから大丈夫だし、痛みも取れるし」っていうことで、かけはじめたら、もう3日目ぐらい。
3回ぐらいかけたときに、もうすでに痛みがなくなってきて、今はもうほとんど痛くないですね。ただ、雨が…雨が降る前の日とかに、こう、骨の中がこううずくような感じはするんですけど。あの去年の8月のようなこうズキンズキンという痛みはないです。

乳がんの語り

副作用で気持ちが萎えて、闘う意欲がなくなるのは嫌なので、抗がん剤治療を一旦止める決意をした

何が、私は、抗がん剤で嫌だったかというと、気持ちが落ち込んじゃうのがいやなんですね。副作用はそんなにタキソテールの場合は、まあ、白血球が落ちるとか肝機能(の値)が上がるとかいろいろあったんですけど。吐き気がなかったから、だいぶ楽かなあっていうふうに思っていたんですけど。でも、やっぱり抗がん剤の治療をやっているうちは、気持ちがどうしてもこう落ち込んじゃうんですよ。で、抗うつ剤のお世話になりながら、パニックを起こしながら、こうやって、あと1年ぐらい抗がん剤の治療を続けていけるのかって、またそこで自問自答して。まあ、一旦止めて、自分の自己治癒力にかけてみたいなという気持ちになってきたんですね。で、自分の中では、やっぱり戦う意欲とか、前に進もうっていう力が、何か気持ちが、こう萎えてしまうのが、すごく恐ろしいことだと思うので、「一旦ここで止めたいんです」って、主治医のK先生にお話ししたらば、K先生は、「まだ、若いしね、体力もあるし、1年ぐらいは抗がん剤をやったほうがいいと思う、僕は」って最初言われたんですけど。でも、私が、「もう、頑張れないです」って。「一旦ここで止めてみたいんです。お願いします」っていうことで、私がお願いしたら、「あなたがそういうふうに決めたんだったら、応援しましょう」っていうことで、理解してくださったので。

乳がんの語り

つらい思いをして抗がん剤治療をしているのと、やりたいことをやって過ごすのと、同じ時間でも全然違うと気づいて、この先どうするか考えた(次のクリップに続く)

 ちょうど7月だったかに、テレビで「余命1ヶ月の花嫁」を見たんですよね。自分と同じ、まあ彼女はすごく若い20代の方ですけど、若年性乳がんの方で、ほんとに1ヶ月でこんなに元気そうな人が亡くなるはずはないって、自分も見ていて思ったんですけど。やっぱり亡くなってしまったという現実が信じられないのと同時に、何か自分もそうなってしまうんじゃないかというすごい不安があって。で、抗がん剤を、こんなにつらい思いをして打っている間だって、自分は生きているんだし、抗がん剤を打って1年生き延びたとしても、何かこう死んだように生きている1年と、抗がん剤をやめて、やりたいことをやって生き生き過ごしている1年って、同じようでいて全然違うんだなっていうことに気づいたんですね。「乳がんの場合は、いろんな抗がん剤が使えるから、この先の治療をどうするか、自分で選んでいかないといけないんだよね」ってその乳がんの認定看護師さんに言われて。「ああ、確かにそうだなあ」って。「自分でこれが合うかどうか分からないけど、やってみたいというのをこうどんどん消去法でこうやっていくしかないけれども、何か終わりの見えないゴールの見えない治療だな」っていうふうに思って。

乳がんの語り

CTで肝臓に影があり、MRI検査を受けたところ、悪性の可能性があると言われ、なぜ肝転移・・・と泣き崩れてしまった。母や友人の励ましで生きる希望が湧いて落ち着いた

ほんとに、何か軽い気持ちでMRIも良性だっていうことを確かめるために自分としては、やろうという感じで行って。ちょうど、MRIが終わったあとに、N先生に、外来でお会いして。「ちょっと診てみましょうか?」って言われて、診てくださったんですけど「造影剤を入れると、のう胞の場合は、白く光るんだけど、これは白く光ってないから、悪いできものかもしれませんね」っていうふうに言われて。もう、その場で、ちょっと、私は、こう…崖っぷちに立たされたというか、何かハンマーか何かで頭を殴られたような感覚というか。最初の告知のときよりもすごくショックでしたね。で、外科外来でも、やっぱり泣き崩れてしまって。そこの看護婦さんが、ティッシュをこう差し出してくれて、涙が止まらなかったなというのは覚えていますね。で、全くノーマークだったので、肝臓っていうところは。あんまり、そんなにお酒もいっぱい飲むほうではないし、何も思い当たるところがないんですよ。肝臓に転移するって。何でだろうなって思うぐらい。で、自分も良性だとばかり思っていたので、誰も、連れていかなかったんですね。家族も、友達も、でも、もうすっごい泣いて泣いて、車に戻ってお母さんにまず電話して、そしたら何か「代わってあげたいね」って母が言ってくれて。「でも、まず、負げねぇで頑張っぺぇし」って、訛りなんですけど、言ってくれて。で、そのあとに、その一諸に告知のときに来てくれた、Rちゃんっていう子が消化器内科の病棟で働いているんですね、私の同じ職場で。そこで、肝臓のラジオ波治療をやっているすごく上手な先生がいるんですけど、うちの病院に。で、その先生のことを言って、「転移性肝がんでいっぱいそのラジオ波でよくなっている人いっぱいいるよ」って。「だから、諦めなくていいんだよ」って。ああ、何か、こう生きる希望がまだあったんだっていうふうに、自分でちょっとこう落ち着いて。だんだんそのRちゃんと話をしていたら落ち着けましたね。

乳がんの語り

毎日車を運転して放射線治療を受けに通うのが苦痛で、副作用のやけどや胸につけられた照射位置の印(マーキング)も気になり、うつっぽくなった時期があった

えー、抗がん剤を終えて、5月から放射線治療ですね、温存した乳房に放射線を当てるっていうことで、別の病院に紹介になって、マーキングをしたりとか結構時間かかかったんですけど、5月半ばぐらいから放射線に通っていました。で、25クールっていうので、結局5週間かかるので、その間、仕事に出ようかなとも思ったんですけど、白血球もやっぱり下がることもあるので、感染に対して抵抗力もなくなるから、ちょっと休んだほうがいいって師長さんにも言われて、結局まず、お休みすることにして。
で、1ヶ月半病院に、毎朝同じ9時からだったんですけど、毎朝通って。でも、やっている時間ってほんとにすぐなんですよね、2分もかからないかな。ピーピーってやって「はい、終わりですよ」っていうので、たった2分のために車を20分くらい運転して行くっていうのも、毎日行くっていうのもすごい、何かちょっと苦痛になってきちゃって。で、白血球も下がってきたんですね、私、放射線を当てて。で、最初のころは何ともなかったのに、やっぱり、2週間ぐらいたってから、もう火傷みたいにこうバーンと黒ずんじゃって、ほんとに日焼けですね。で、こう皮はむけるし、水ぶくれができてひりひり痛くて、破けちゃったりして、で、よく冷やしていましたね。あの、アイスノンとかで。こう冷やしたりしていましたし。
結構、そのマーキングがこう大きい、赤いペンとか青いペンとかでくっきり書かれるので、夏場だったので、こう胸の開いた服とかを着るともう刺青のように見えちゃって。あと、何か、「お気に入りの下着とかをつけないでください」って言われて、確かに色がついちゃうんですね。だから、こう、安っぽいタンクトップみたいなやつしか(笑)、着れなかったので。
あとは、そうですね。放射線治療中で、結構、精神的にこう、うつっぽくなる人が多いっていうのを聞いていたんですけど、私もちょっと元気がなくなってきた時期だったんですね。何ていうか、こう…、だるいというか、一部分しか放射線をあてていないのに、全身の免疫力が下がっているのが分かるというか。すごいだるくなって、ちょっとうつっぽくなった時期もありました。はい。

乳がんの語り

途中でつらくてやめたいと思ったが、最後の抗がん剤が終わって退院した日、桜が咲いている中、お蕎麦を食べに行けた。生きている幸せを感じて感動した

4月の30日に最後の6回目の抗がん剤を、「もう5回で止めたい」って先生に言ったんですけど、「頑張ってやんなさい」って言われて。頑張ってやって、終わって退院した日は、ものすごく桜が咲いていてきれいだったんですね。で、いつも退院した日に食べに行くお蕎麦屋さんがあって、そこに行って、その日の朝まで、ほんとに食べれなかったので、食べれるかなあと思いながら、でも食べちゃったんですけど。結構食欲がなくても食べれるさっぱりしたお蕎麦で。で、そこのお蕎麦を食べてから、何か、お寺が近くにいっぱいあるんですね、神社とか。で、そこに桜がすごい咲いていて、「何か、ああ、食べれるって何て幸せなんだろう」って、で、「外の風を感じて歩けるって何て幸せなことなんだろう」って。すごい何か感動しちゃって。「何か、生きているってこういうことなんだろうな」って。何か、1人でスキップしていました(笑)。何かこうやりとげたっていうこう充実感があって。

乳がんの語り

術後間もなくは腕が30度くらいしか上がらなかったが、リハビリをして2週間ほどで耳につくまで上がるようになった

まあ、だんだん日にち薬というか、日が経ってくるにつれてそのドレーンも5日目ぐらいで抜けましたし、痛みもだんだんよくなってきて、人間の体ってすごい回復力があるんだなというふうに思いましたし、あの、リンパをやっぱりとっているので、腕がほんとに術後は、ほんとにこう、30度ぐらいしか上がらなかったんですけど、あの、リハビリが始まったのがちょうど3日目か4日目ぐらいだったと思うんですけど、私の入院した病院では、リハビリの先生がついて、ちゃんと指導してくれるんですよね、女性の、リハビリの先生が。
で、その先生に、「はい腕を上げてください」って言われて、「はい」ってこう、30度ぐらい上げたら「私の中のワースト3に入りますね」って言われて(笑)。「えー、でも痛いんですよ」って言ったら。「若い人と看護師さんは痛がりますよね」って言われて。「あ、私、どっちもですよ」って言って笑ったんですけど。でも、日にちによってやっぱりどんどんどんどん上がってきて、最終的にはこう、耳の横に腕がぴたっとくっつくのが理想だと言われたんですけど。もう、2週間で上がるようになりましたし。

乳がんの語り

手術直後は血圧計、点滴などいろいろなものがついているので身動きが取れないのがつらく、地獄の一夜とはこのことかと思った 

で、もうその手術の日は、一晩中、ほんとに動けなくて、だるいのもあるんですけど、まあ、痛みもあったし。で、あの、ドレーンというか、管が、リンパ液を流す管が入っていて、で、血圧計が巻かれてて。サーチュレーションていう、その酸素飽和度を測るやつがついて、点滴はついて、もう、ほんとに右にも左にもどっちにも動けないような。で、もう体を動かせない。腕をこうちょっと伸ばすのもだるいくらい、すごく動けなくて、ほんとに地獄の一夜とはこのこと(笑)って思うぐらい、すごくつらかったですね。でも、まあ、そういうときに、看護師さんが、ちょこちょこやっぱりこう「大丈夫ですか? 痛くないですか?」ってこう声をかけてくださるとか。あと、痛み止めのお注射をしに来てくれたり、氷枕を替えに来てくれたり。ほんとちょこちょこ来て声をかけてくれるのがすごくありがたくて。自分も看護師をしていたんですけど、あー、何かすごい、看護師さんって天使に見えるなってそのときに思いましたし。何か、やっぱり、すばらしい仕事だなって、そのときにこう改めて思いましたね。

乳がんの語り

クリニックは受診しやすいし、待たされないし、親身になってくれるところがいい。ただ、再発後は検査結果がすぐに出ないということもあり、他の病院に移ることにした

クリニックのいいところって、すごく受診しやすいし、あんまり待たされないし、こう、親身になってくれるっていうところがいいところなんですけど、悪いところも、やっぱり、検査の結果がすぐでないですよ。で、特に小さな病院だと、あの、採血の結果なんかも外注、ほとんど外注なので、もう2日3日後ぐらいにならないと、その、白血球の値が分からないとか。あとは、あの、腫瘍マーカーも1週間とか経たないと分からないとか。CT、MRIとか、その大きな検査になると、自分の病院ではできないから、その大きな病院に、紹介状を書いて、やるっていうことになるので。結局、その、私は、肝臓に再発して、あの、そのクリニックの先生のところに行って、いろいろ相談してたんですけれど。結局、その検査は別の病院にいくために、1ヶ月後とかになっちゃうんですね。検査の予約が。
やっぱり、再発しちゃったりすると、検査が多くなってくるので、大きな病院でないと駄目だなって、自分もその再発したときに、そう思って。クリニックの先生の腕はすごく確かだし、人間性も大好きだったんですけども、やっぱり、その自分の体をこれからこうお任せするにあたり、クリニックではちょっと限界があるんじゃないかっていうふうに。

乳がんの語り

手術を機会に下の子と入浴しなくなったが、もう少しスキンシップしたかった。小学生高学年の上の子には「乳がん」と言ったが、重大なこととは思っていなかったようだ(音声のみ)

子どもがまだ小さくて、当時下の子がいくつだったのかな? 1年生、いや、どうでしったっけ? えーと2年生、かな。2年生の終わりぐらいだったんですね。それまで一緒にお風呂とかへ入ってたのに、もう入れなくなるなっていうのはありましたね。まあ自分で、「お母さんのおっぱいもうなくなったから、ほらこんなふうになくなったのよ」って言って見せることができて、「一緒にお風呂に入ろう」っていうようなことができればですね、自分がそういふうにすることができたらいいんでしょうけど、やっぱり子どもにショックを与えたくないし、どう思うかなっていうので、それっきり、一緒にお風呂に入ることもなくなったので、あの本当はね、もう少しスキンシップをする時間が下の子とはあったほうが良かった、欲しかったなっていうふうに思いますね。お兄ちゃんのほうはあのー、年が4つ離れていてお兄ちゃんはもう6年生になっていたので、でもその頃まで一緒にお風呂とか入っていたんですよね。で、子どもたちにも、一緒にお風呂に入っているときに私言ったんですよ。逆に私のほうから子どもに告知するような感じでですね。「手術して胸をね、切り取らないといけないから」とか言ったら、「へー」とかって言って。ことの重大さがわかってないから、「えー、それ乳がん?」とか普通に言うんですよね。「うん、まあそう」とか言うと、「ふーん」とか言ってるんですね。で、その前にあの、カツラになってても、乳がんだからカツラになっているということが結びついていなくて、子どもたちの中では。今でもなんか思い出したように、「あのときお母さんはカツラにしたっちゃもんね」…したっちゃもんねってこちらのほうでは言うんですけど、「あのときはカツラだったもんね」、みたいなことを言うんですよね。「病気だからカツラだった」、じゃなくて、「あのとき坊主にしたもんね」って感じなんですよね、子どもとしては。いやあ、坊主にしたわけではないんだけどって思って(笑)。何故そういう坊主になったのかっていうのが理解できてなかったんですよね。まあそれは良かったのかなと思いますけど。結果的に「お母さんが病気で髪の毛が抜けて、ぼくのお母さんどうなっちゃうんだろう」とかっていうふうに、変に心配しながら学校に通うよりかは、能天気になんか何も気にしてないっていうほうがですね、助かったかなって思うんですよね。