投稿者「dipex-j」のアーカイブ

乳がんの語り

会社に初めてマンモグラフィ検診車が来て検診を受けた

まず、検査は、えっと、会社の健康保険組合が初めて、会社の事業所にマンモグラフィの検診車を横付けして検診しようという1回目の取り組みのときでした。で、私自身は、30歳のときに線維腺腫が見つかって、それから5~6年は半年に一遍ぐらいずつ通ってたんですね、お医者さんに。でも、まあ、大きくなることもなかったので、そのまま。その後は40歳のときに1回受けて、そのまま忙しくなってずっと行ってなかったと。
というのが、40歳のときに受けたときに、あの、大きくはなっていないんだけれども、これが良性か悪性かを確認するためにはやっぱり針生検をしなければいけないというふうに言われて、ちょっと怖かったんですね(笑)。で、そういうものもあって、当時はまだマンモ(グラフィ)はあまりやってませんでしたので、で、今回、マンモグラフィだということで、受けてみようということで受けました。多分、線維腺種があるので、絶対最初に引っ掛かるだろうというのは覚悟してたんですね。だけども、今度はまあちゃんと最後まで受けようというふうに思って行きました。
ところが、結果を見たらば、線維腺種はもちろんあって、そこのところは写っているんですが、それ以外に石灰化の細かいものが両方に見つかったという状態でした。それも、あの、そうですね、そんなに多く映ってるわけではないんですけども、両方とも同じようなぐらい、出ていて、ちょっと先生にも珍しいと言われたような状態でした。
で、会社で受けてますので、大体病院を紹介してくれて、幾つかこう書いてありましたので、まず一番近いところに行ってみたんですけれども、そこは普通のクリニックでしたので、えっと、針による生検まではできたんですけれども、石灰化の部分が悪性かどうかというのは判断できないと、それでやっぱり大きな病院行ってくださいということで。で、そのときに、マンモトーム生検というので調べたんですけども、そこで初めて、私のがんのあれはどういうもんなんだろう、もしがんとしたらどんなもんだろうというのをインターネットで調べてみて、あ、こういう形のものなのかと。で、確かにそれほど進んでいるとか、大きいとか、そういうことではなさそうだし、ある意味、今すぐ命にかかわることではないんだなというとこまでは、あの、納得して。で、そのときの先生は、まず3~4割の確率かなというふうにおっしゃったんですけど、自分としては何となく、多分、がんなんじゃないかなという感じは何となくありました。

乳がんの語り

再発は最初の告知より、死を意識してとてもショックだった。なぜ男性の乳がんになったかわからないが、考えても仕方ない。何とか治したいが、治らなくても笑って死にたい

やっぱり、がんっていうのは、完治っていうのはないわけですな。取り残しっていうのは、やっぱし…その場合、やっぱりね、一番初めは、年も若かったんか、2回目の(再発のときに)、その確かに「がんや」言われたときには、ものすごいショックやったですな。「わあー、死ぬんかなー」ほんで、お母さんがおれへんかったら、僕、ほんまに気が変になっとったかわからん。「ここにできた、こっちへできたもん取って。こうできて骨へ移ったら、骨の治療したらいい」と。ものを単純に、ものを考えたら、そういうことですわ。それであかんかったら、死ななしゃないですよ。それは、甘んじて受けんのはどうするかということは…ですな(笑)。それだけやと思う。
何でこうなったんやろうと思うたことね。そんなもん、どう考えてもわかりません。しかも、2万人に1人ぐらいの男性の乳がんになったということ、僕、宝くじみたいなもんやなぁと思って。何でなるんかと思うたら、そりゃストレス起こりまっせ。そやけど、そんなもん、考えたかて、どうしても、結論のつかんもんは…どないしょうもないですな。現実的に、僕、がんになっとんのやから。それを、どないかして治すし、治さん…治らなかったら治らんで、ような生き方をしたいと思います。そやから、笑って死ねたらええなとそれだけです(笑)。

乳がんの語り

抗がん剤の副作用でがさっと髪が抜けた時は、いい感じはしなかった。丸坊主で眉毛もなくなったが、そのままの姿でパーティーに行き、社交ダンスを踊っていた

あー、僕はね、男やからかもわかりませんが、ただ、あの、風呂場でね、こうやってやったら、がさっと抜けたときには、やっぱ、あんまりええ感じしませんでしたな。そやけど、丸坊主で眉毛ないのに、あの、そこらのパーティなんか行って、そんまま踊っていました。4時間ぐらいは。そやから、髪の毛がなくなったということについて。ただ、心配したんは、あの、白血球が減るということが心配しましたね。それが一番気つけましたね。それと、風邪引きだけを用心しました。そやから、頭の髪の毛には、何も対処しません。ほなら散髪屋へ行きますと、マッサージやってね、リハビリやってくれるわけ。で、いつも、丸刈り。ほんな、丸刈りっていうのは、清々しいて、風呂は入っても洗うの簡単やしね。

乳がんの語り

髪の毛は抜け、しびれもあったが、食欲はあったし、よく運動した。長年、社交ダンスが趣味で、治療中でも4時間も踊って、みんなに鉄人と言われた

それと、僕が一番ね、助かるのは、抗がん剤を16クールもやりました。その前にももういっぱいやっていますが、あの、副作用が10クールぐらいまで、全然ないんですわ。ただ、頭が全部禿げてしまうのと、眉毛が抜けてまうのと、全部ありましたが。ただ、ま、乳がんやからもわかりませんが、食欲はすごく旺盛なのと、それとやっぱり、運動をよくやっておりました。あの、恥ずかしい話ですが、社交ダンスをやっておりました。もう、10何年間かやっておりますよってに。ほんで、やっぱり、そのときに、友達が言いますが、姿勢を伸ばして横隔膜を伸ばしておりました。ま、そういうものを全部加味してやりますと、何か…、抗がん剤打っている途中でも、パーティーに行っても、4時間ぐらい踊っても疲れなかったです。もう、自分で(笑)、そやから、僕のことを鉄人やってみんな言いましたが。けっして、鉄人じゃないです、のは、16クールぐらいから2クールぐらいかな、手がびりびりしびれてきまして、今なんかすごいしびれてきているわけです。で、足もしびれているわけです。で、歩行がちょっと困難なんです。

乳がんの語り

セルフケアの方法は、腹式呼吸から始まり、さすりながら全身のリンパを流す。ちゃんとやると40分はかかるが、自分の場合は風呂上がりに30分くらいしている

――リハビリっていう、言ってらっしゃることを、もう少し具体的に、何かマッサージみたいなことをするんですか?

あのね、あの、例えば、このリンパがありまっしゃろ、まず、腹式呼吸はじめるわけ。それから、おへそに向かって全部こうずうーっと、あの、水分持っていくわけ。で、今度は、ここを脇の下をずうっとこっち下に流すわけ。で、ここ(脇のリンパ)がないもんですからね、こっからこうここへ(手の先から脇、脇からお腹へ)全部流すわけ。で、今度は、あと、指を一個ずつこうやって(さすりながら)ずうっと流すわけですね。で、こう(指から腕へ)流して、で、ここへ(腕から肩へ)ずうっと流して、また、(肩へ)ずうっと上あがって、また、(脇からお腹へ)こっちのほういってここまでずうっと。こりゃあね、40分かかりますわ。風呂あがって、りょう、両方ともやったらね。そやけど、僕は、30分ぐらいで(笑)、しとるわけ。そやけど、やろうという意思があるからやっています。うん、苦になりません。ここ、あの、風呂からあがったら必ずやっています。それと、足踏みを一生懸命やって。そや、自分のやれることだけ、やっぱり、一生懸命やらなあきまへんな。せっかく先生が一生懸命治そうと思って努力してはるのに、今度は、患者のほうが、やっぱり、自分でやれる、最大限のやっぱり努力は…すべきですよ。と思います。僕の場合ですよ。

乳がんの語り

専門施設で手で行なうリンパドレナージの治療を受けているが、それだけに頼らずセルフケアも毎日している

――今ね、このしびれというとこから、始まったと言っていたんですけど、腕は両方とも結構腫れていますか?その…

両腕何?

――腕は、腫れているんですか?

あ、あのね、あの、一番初め測ったときの資料と、全部くれましたけれどね。で、昨日、一昨日行ったら、その前のときに、ひと月前に行ったら、大体、こっち側(左)がもう4センチほど、全体的に、あの、平均でね。こっち側(右)は2センチ、こっち側(右)はもう正常に近いですわ。そやから、あの、静脈の注射したり、血液採るときもここからでもした。今まで、ここで(手の先)やっとったわけです。こうしても出へんからね。こっち(右)は、もう、ほぼ、正常になってんじゃないですか。で、こっち側(左)は、まだちょっと腫れています。硬いとこありますしな。そやから、毎日、こうリハビリ(用手的リンパドレナージ)せなあかん。リハビリのやり方は、もう3時間かかってやってくれるわけ。はあ、あれはね、感心しますわ。申し訳ないと思います。
前は、そんで、それ保険に出な、出ないんですよ、あれ。リンパは。あれで、先生いわくにはね、今、いろいろ陳情しているらしいけどね。4時間ほどかかるわけです。そやからね、2人しかできないわけですわ。木曜日だけでね。で、僕に、やっぱり3時間か、以上かかりますやろ。それは、もう、リハビリの繰り返しですわ。こうやって、ほんで、最後包帯巻いて、それから、包帯巻いたとこに、今度は機械で、あの、こう、どないいうんですか、低周波じゃないですね。何か言うてました。忘れましたけどね。ほんで、そりゃ、手間のかかる、それとね、資格のある人が2人いらっしゃって、こうやってもらってはる。この水が動いてね、ちゃんとリンパに返ってくるような感じしますわ。で、僕らなんかやったら、あの、寒いのとあれで、早いことやりまっしゃろ。で、僕は、こっち両方(両腋窩のリンパ節)ありませんから、足のこのリンパに返さなきゃいかん。うん、そやから、それは、毎日やってます。で、毎日やれへんかったらね、1週間経ったら、やっぱり、また腫れていますわ。それは、やっぱり、患者は、やっぱり、自分の病気が知っとって、自分の病気ならば、やっぱし、手抜きはあってもいいけど、やっぱり、やるべきことはやらなきゃいけまへんな。薬に頼る、先生に頼るんじゃなくて、やはり、自分の免疫力をつけるためには、ものを食べる、おいしくよく噛んで食べる。もう、基本的なものを原点に戻ったほうがええかもわかりまへんな。そう思います。

乳がんの語り

ストレスの多い生活だったので、がんと聞いて当然だと思った。しかし、いまだに男が乳がんになるというのは不思議だ。見舞いの友人たちは「乳がん」と聞き、なるはずないと笑った

そやけど、僕、自体は、男のがん、未だに男のがんってないと思うのと、それから、お母さんの一言、あの、ようはがんというのは、やっぱり、3人に2人もなるし、なって当たり前のことやし、僕がずっと原発巣から考えてみたら、あの、そういう自分の生活習慣においてでもなったんじゃないかと。で、(仕事で求められる)数字も猛烈やから、ストレスがものすごい貯まっとったんじゃないかと思います。で、酒も飲まんくせに、もうそういう雰囲気を楽しむような、あの、で、午前様で帰って、牛乳1本飲んで、そんなんで病気にならんほうが不思議です。そやから、今、甘んじて、がんになって、何だか当然でしたと今思っております。
友達がもういろいろ見舞いに来ますが、もう、「乳がん」言うたら、笑いころげて、僕、(手術後に)血液、やっぱりこう、あの、ドレーン(で)取ってますやん。「あんなもん、乳がんなんてね、男にあるもんか」、あの、男ってみんなそんなもんでっせ。「男の乳がんかなんていうのは、なるはずがない」と。で、僕、未だにね、主治医にときどき聞くんですわ。「先生、とにかく、今、抗がん剤を打ってもろうておりますが、あの、男性と…女性用の治療やってるんですか?」って聞いたらね。組織は同じらしいですね。乳腺が。女の人は乳腺、ほんで、男性も乳腺があるそうですな。だから、ようは、あの、同じ治療でええんやと。ただ、今、どういうんかな、抗がん剤をやらないために、あの、ホルモン剤を飲んでいるわけです、今ね。そのホルモン剤は、少し違うそうです、男と女がね。うん、先生は、そうおっしゃっていました。

乳がんの語り

10年ぐらい前からしこりがあり、徐々に大きくなって乳頭が凹むようになった。男性に乳がんがあるとは思わず、脂肪の塊だと思っていたが、産業医に診てもらい、乳がんと診断された

僕は、男性として、あの、乳がんというものは、みたいなもんは男性にはかからんと思っていました。ですから、乳がんを発見される10年ほど前から小さいしこりがありました。あの、乳頭(にゅうとう)に。で、その乳頭が、一番初めは、1円玉ぐらい、それ、だんだん大きくなって、5円、最後、50円ぐらいなりましたとき、10年かかりました。10年かかりましたら、その乳頭が、初め、乳頭とそれからその、あの、がん細胞ですね。僕は、あの、どうゆんですか、何かほかのもんと思うておりましたけどね、それが付いてきて凹みましたんで。
で、まあ、会社、産業医がありますんで、あの、もういい加減に、あの、専門家に診てもらえということで、あの、会社の病院へ行きましたら、ちょうど、がんセンターから来られた副院長が、あの、転任されて来ておりまして、診てもらいましたら、「それは、もう乳がんや」と。というのは、何でわかったかというと、あの、しこりがありましたんで、僕は、脂肪の塊と思っておりましたが、で、組織をとって検査しますと、悪性腫瘍であると、ようは乳がんであると。僕は、未だにわからんのは、男性の乳がんって何であんのんかと思っております。だけど、2万人に1人ぐらいはおるんやということで、あの、発見しました。
そやから、あの、その乳がんと気づく以前、10年ほど前から、あの、そういうものがだんだんこう大きくなってきて脂肪の塊みたい、え、硬い、硬いなあと思って、自分で触っていましたが、それが、10年ぐらい経ちますと、やっぱり、こりゃ、もう、ひっついてきて、あの、乳首が中へ凹むようになりました。乳頭がね。だから、これはおかしいということで行きました。即、入院で、即、手術しました。

乳がんの語り

術式について女性が乳房を失うことは後から響くから慎重に考えるよう、再三医師に言われた。しかし、手術後にやっとこういうことだったんだとわかった

あの、「この病院では、全摘しないといけない人には、そういうふうに、こちらから言うけれども、こんな初期の部分で、十分に、あの、部分的に手術ができるのに、できる人にしか言わないんだから、大丈夫ですよ」って。で、「女の人が乳房を失うっていうことはね、すごいかなりあとから、響くことだっていうふうに聞いているので、慎重に選んでほしい」って、何度も何度も先生に注意されたんです。ほんとに、何度も、注意してくださったんですよ。ところが、もう思いっきりがいいというか、最初からもうずっとそう思いこんでいまして…。
後悔はしていないというものの、やっぱし…、それほど、自分が女性であるっていうことを意識したことがなかったですのに、あ、考えて考えたうえでやったのに、こういうことなのかっていう受け入れ方を、ができるのは、ずいぶんあとのほうになるまでできなかったです。失った悲しみというのでもなかったですけれども、もう、こういう体なのだっていうのは、受け入れましたけれども。あの、精神的に……、そういう姿であることに慣れるのは、やっぱり、時間かかりましたね。その、片腕がないとか足がないとかっていうような病気ってありますよね。怪我とか病気とか。それと、同じことである。ま、洋服着ているから、あのー、分からないようにね、今はいろんなこう分からないようにできるようになっていますけれども。自分が一番最初に思ったのはね、忙しいときで、遠い病院に行くのも、最初は1~2回車で連れて行ってもらったんです。でも、あんまり、その、仕事に支障をきたすといけないと思ったので、電車で通えるようって思って、電車で行くようになったんですよ。そしたら、雑踏の中歩くんでも、もう、もう、その悪いほうの胸を、こうスルメじゃないですけどスルメ状態みたいにこう意識してしまっているんですね。だから、さっさっと歩いているのにこっち側ばっかり風受けるみたいな感じで、すごく何かこっち側にない、ないっていうのが意識するわけです。「あ、受け入れられていないわ」ってそのとき思いました。「自分で受け入れることができていないからこんなに意識するんやな」って思って。で、傷口は当たると痛いっていうのもありますから、それを避けているっていうのもあるんですけれども。片一方しかないっていうのを、意識したのは、通院するときに意識しました。
だから、ちょっとくり抜いて手術するとかだったら、そういうことなかったわけですよね。そういうの、全然、手術前は考えもしなかったです。だけど、そういう姿になって、「あ、こういうことなんだって、自分の選んだのはこういうことだったんだ」っていうのは、通院するときとか、ま、病院の中で移動するときに、走ってきている人はないんですけど、すごくかばうわけですよ。で、「あ、そういうことなんやな」っていうのが、だいぶ年月経たないと。もう、最近なんかすっかりね、あの、そういう感覚は忘れてしまってますけど、こうやってお話しているとそのときの感覚はより、こう戻ってくるんですけど。そのころは、そういうことばっかりだったですね。

乳がんの語り

女性ホルモン薬と抗がん剤を飲んでいた。副作用のせいか霧がかかったようにぼんやりして反応が鈍くなり、医師に勧められ仕事を始めることにした

――そうすると、まあ、5年間、(抗女性)ホルモン剤(タモキシフェン)と抗がん剤の内服薬(UFT)を飲んでいたっていうことなんですね。

はい。はい。

――どんなことがおつらかったり、症状としてあったのか教えてください。

霧がかかっているような、もう、ぼんやりとしてまして。ま、そのころ、あの、目も老眼が進んでいたんだと思うんですけど。通院するのに、駅で、あの、切符の、あの、値段を見よう思っても、何かこう、一点じっと見てても、なかなか焦点が合わなくて、で、裸眼で見えるんですけども、時間がかかるんですよ、すごく、その選ぶまでがね。だから、これって、目にやられ、目に来たみたいっとかって思いまして。眼鏡を買い替えたりとか。とか、ぱって何かこう言われても、反応が鈍くなりまして。何か、「今、何、何か言った?」って、もう一回聞き返したりとか。やっぱし、ほんとに、老化っていいますかね。あの、ぼんやりとろ~んとしているような毎日だったんですよ。それで、駅前で財布落としてとか、ま、結局拾った方が届けてくださるんで、あの、難は逃れてるんですけどもね。失敗ばっかり繰り返すわけですよ。
で、家では、まだそのころ母は家事も手伝ってくれているんで、お炊事なんかもやってくれてましたので。食事したら歩く。食事したら歩くって、で、あとはもう横になる安静にしておくっていう。もう、自分のことしか考えない生活をしてたんですけど。病院に行くっていうときにそういう失敗をするんですね。お財布を落としてしまったりとか。病院に行くのに診察券が入ってなかったりとか。何か、こう、ちょっと、あの、お年寄りが、「あ、忘れたわ」っていうような、ときどき聞いていたようなことが、自分に起こってくるんですよね。で、ああ、もうこれどうなるのかなっていうような。すごく、こう…、時間がたっぷりあるのに、うっとうしいというかぼやけてました。
で、それも、まあ、お薬(のせい)もあるんだろうなと思うから、すぐには先生には相談しなかったんですよ。半年ぐらいしてから、「お薬、先生、お薬でなるんでしょうかね」って、「それもある、ありますけど」って「ま、仕事やめたっていうこともかなりあるかもしれないですから、あの、気楽に、きが…気軽にできるようなのが、もし近所にあれば、行ってみられるのも一つのあれと違いますかね」っていう、おっしゃったので、「仕事してみたい」っと思ったんですよ。それで、全然、前とは違う仕事を選んだんですけれども。
 
結果的には、勤めが始まって無理していたのかもしれませんけれども、家にいてては、あの、ぼうっとした感覚っていうのが、ずっと取れなかったんじゃないかと思います。あの、仕事が終わるとまたぼうっと霞んでくるんですけどもね。あの、行ってるときは、ぼうとしていてはいられないっていうのがありますので、何か、やっぱり、そこに張り合いを見つけていたと思いますので、仕事を持っていてよかったなと思っています。