投稿者「dipex-j」のアーカイブ

英国人の喪失体験の語り

スザーナは爆弾テロ事件発生時、弟ダンがバリ島に滞在中であることを知っていた。遺体の身元が確認されるまでの3週間、希望と絶望の繰り返しに苦しんだ。

弟は2002年10月12日にバリ島で爆弾テロにより亡くなりました。彼はその5週間前に結婚したばかりでした。バリ島には多くの友人とラグビーの試合のために滞在していたのです。彼の友人も、少なくとも12人が同時に亡くなりました。そこには、シンガポールでのスタッグパーテイー(注:結婚を控えた男性のために男性友人だけで行なわれるパーテイー)に集まった、弟の友人30人くらいが一緒にいたのです。そのうち少なくとも半分の方が同じように犠牲になり死亡しました。彼らは東南アジア各地からの外国人やイギリス人で、みなラグビーの試合のために、バリ島に集まったのです。弟と香港から来た友人たちは食事を終え、他の友人たちより早く勘定を済ませ、サリナイトクラブに行きました。弟は新婚の妻に何か飲みたいものがあるかと聞き、彼女は数人の友人たちとダンスフロアへ、弟は他の男性陣とバーカウンターに向かったのです。そこで爆発が起こりました。
弟は31 歳でした。素晴らしいスポーツマンで、いまだに彼より速く走れる人など見たことがありません。ケンブリッジ大学を卒業し、香港で弁護士をしていました。人生すべて上手くいっていて、キャリアも順調、結婚したばかり、これから楽しい充実した人生が待っていて、家族を築いて、父親になって、何もかも何もかもすべて上手くいっていたのに、彼は殺されてしまいました。私とパートナーはボンベイのタージホテルにいました。皮肉なことに爆弾のことを知ったのは、(翌朝)携帯の電源を入れてからです。たくさんのテキストメッセージに気づきました。バリ島とボンベイは時差が無いので、テロが起こった11時30分にはもう寝ていたんです。
その時、携帯の電源を入れた時に、別の世界に落ちてしまいました。携帯の電源を入れるまではいつもの生活だったのに。メッセージはこう残っていました。「家に電話を、家に電話を。爆弾テロ。バリ島でテロ、ダン、ダンが行方不明。」
急いで家に電話をしましたが、何の新しい情報もなくて。重傷を負った義理の妹は、爆発が起こった1時間以内に病院に運ばれました。病院に運ばれる前に、見知らぬ人から電話を借りて彼女の実家に電話をしてきたんです。彼女はひどい火傷を負い、見知らぬ親切な人が体についた火を消してくれ、彼女の周りでは人が死んでいったと。ひどい爆発があって、ダンが見つからない、一緒にいた友人もぜんぜん見つからない、自分はひどい火傷を負っていると。(情報は)それだけです。彼女は最初にバリ島の病院に運ばれ、その後オーストラリアで手当てを受けました。手短に言うと、私の弟は行方不明で、3週間後に安置所で遺体の身元が確認されるまで、死亡したものと推定されました。
それに……、体調は最悪でした。頻繁にトイレに行かなくてはならず、身体的ショックにおそわれて。新しい情報はないかと、両親にしょっちゅう電話をしたのですが、もちろん新しい知らせは無い。情報が無いということは、最悪の結果ということ。一縷の希望と絶望の間で揺れて苦しみました。

英国人の喪失体験の語り

ロンドン爆弾テロの後に人々が息子ジェームズを探していた当時のことを振り返り、ローズマリーにとってそれがどれほどつらい時間であったかを語ってくれました。彼女は息子に何かが起こったに違いないと確信したと言います。

何が息子に起こったかと言えば、あの日の朝、彼はリンカーンズ・イン・フィールドだったと思うけど、そこで開かれる発表会に行く途中だったのです。イズリントン(ロンドン北部地区)に住んでいたのでいつもなら乗らないはずの地下鉄に乗っていたのです。爆弾はラッセルスクエアで爆発しました。それが7月7日の爆弾のことです。不思議と、今でもとてもよく覚えています。私はロンドン東部のエクセルで開かれるキャリアに関する展示会に行くために、ストラットフォード駅のベンチに座っていました。周りには停電に関する連絡やアナウンスがたくさんあって、とても変な感じでした。だって何が起こっているのか誰も何も知らないようで、私もそのひとり、そのまま展示会へ行きました。ほんとに何かが起こっていたなんてお昼になるまで全く気付きませんでした。
実際には、携帯電話にいろいろな人から大丈夫か?とたくさんのメッセージが入っていました。事件当時、私は職場にはいなかったので。ジェームスがあの日に重要な発表があったことは知っていました。その発表のために彼はわざわざ前日プラハからやって来たのです。でも、私は何も知らず、私たちは彼がどこにいるのかも知らず、携帯のメールからでは何も分からなかったのです。もちろん、午後も夕方も彼の居場所を探すことに必死でした。でも、すぐに何かあったに違いないと思いました。ご存知でしょうけど、ヘルプラインなんかは全く役に立ちません。大勢の人が、本当にものすごい件数の電話をかけていて。でも、本当にすぐに何かあったと思いました。だってあの晩はうちに夕食に来るはずになっていたのに、彼は現れなかったので。全く連絡もつかなかったから、それで、とたんに分かったの、何かあったって。その時が一番辛かったです。あとで知った情報とかでなく、実際本当にすぐに分かったの。でも他の人はそうではありませんでした。もちろん、生きていてほしいという望みもありましたけど。ジェームスの友人たちはどこもかしこも病院を探し回っていました。この状況は本当に辛いものでした。だって、私はそんなことしても役に立たないと分かっていたし、心底無駄なことだと分かっていたのですから。
一連の出来事の中で、それが非常に辛いことのひとつでした。私は息子ととても親密でしたし、あんな時には人には言えないけれど、私には何かあったと分かっていました。特に最初はあの時が最悪でした。普通なら言えない事だと思うから、いらいらするような感じで。息子の妹や友人たちにはとても言えませんでした。はじめから敗北者みたいに聞こえたでしょうから。でも私にははっきり分かっていました。

英国人の喪失体験の語り

息子のデヴィッドがイラクで亡くなったという悲報を受けた日は、レイチェルにとってまさに悲惨な一日だった。当時、デヴィッドは警備会社で働いており、彼のトラックが爆撃に遭った。

ええ、その日は2006年の10月30日でした。私の息子、デヴィッドはパラシュート部隊の第一大隊に以前は属していたの。8年間、第一大隊で働いていたわ。その後、アメリカ資本のロンドンにある警備会社に入ったの。
軍隊にいた時よりも、もっとたくさんのお金を稼げるから、その会社と年間契約で働く事に彼は決めたの。また、彼は飛行機からパラシュートで降下する事に高揚感を感じていたわ。イラクやシエラレオナ共和国やコソボにも行っていたし。だから、彼の経験は豊富だったの。ともかく、その警備会社で働く事になったの。
楽しんでいたわ。8週間働いて、8週間休暇、また8週間働いて、8週間休暇というシフトだったの。最後に家から仕事に出発したのは2006年の9月だったの。実際のところ、何となく仕事に戻るのが嫌な感じに見えましたね。そこらの地域の状況は、明らかにもっともっと危険になっていたので。だけど結局、彼は、彼は、彼は行ってしまったわ。その後は、私たちも彼と数回話しをしたし、とても楽しい時間を過ごしていると言っていたわ。

警備会社だったのですか?

ええ。彼が働いていたのは警備会社です。仕事に行く度、違うタイプの遠征をしていたわ。今回は彼の任務はイラクの国の情勢を建て直すために、あちこちに移動する護衛隊の世話をしていたわ。それが彼がしていた事よ。
そして彼がそこに向かったその日は、私たちはポルトガルで休日を過ごしていたの。その週の間、本当のところ、私はとても嫌な感じがしてたの。そこへ行く前から、変な感じがしていたわ。
やっと金曜日に、デイブに連絡がついて話しが出来たの。彼はとても楽しんでいると言っていたわ。そして、ガールフレンドを新年にラスベガスに連れて行く予定をしていて、1月に家に戻ってくると決めたと言っていたわ。私に帰ってもかまわないって聞いてくれて、もちろん構わないと答えたわ。とても彼は嬉しそうだった。バーベーキューをするのに、11月に家に帰ってくるのも楽しみにしてたわ。
その彼と話したのが金曜日で、私たちは日曜日にイギリスに戻ったの。それから、10月30日の月曜日は休日明けの初日でいつも通りに仕事に行ったわ。 午後に仕事場に帰ってくると、なぜか旦那の車が学校に駐車されていたの。私は「彼の車があるなんて、何か変だわ。」と思ったわ。すると校長が出てきて、「レイチェル。君とオフィスで話しをしなければならない事があるんだ。」と言ったわ。私は何か変な感じはしたけど、はっきりとは解らなかったの。それから、オフィスに行き、校長と旦那がそこに居たわ。私は何を言われるか気づいたから、旦那はほとんど何も言う必要はなかったわ。ええ、それからはもう気が狂ったようだったわ。泣き叫んだり、わめいたり、校長を押しのけたり、小学生のように机の下にかくれたり。本当にどうしていいのか解らなかったの。とにかく、私は家に連れ戻されたわ。娘に会って伝えなきゃいけない、ガールフレンドにも伝えないと思うと、また完全にパニックになったわ。

英国人の喪失体験の語り

ゴッドフリーはエイドリアンが事故にあったという知らせを聞いてから、真っ先に搬送先の病院へと向かった。息子が瀕死の状況にある事が信じられなかった。夫妻は、息子の生命維持装置を止める決断を下した。

そうですね、今でも鮮明に覚えています。もう14年も前だというのに。あれは1995年の7月31日、朝7時30分、月曜日の朝でした。ちょうど自分のオフィスに入ったところでした。7時を回った位に到着するのが私には当たり前で、あの時もそうでしたね。そうしたら電話が鳴ったのです。通常ではかかってこない早い時間帯の電話で、朝の7時30分でした。電話の主は私がよく知っている事故外科医で、病院からでした。彼が言うには、「ゴッドフリー、エイドリアンがちょっと事故に遭ったようだ」エイドリアンとは、私の死んだ息子です。最初はそれほど深く心配していませんでした。「そう、どこにいるの?怪我したの?」と聞くと、「いや、息子さんは今、集中治療室だよ」と。
その瞬間に、これはただ事ではないではないと思いました。私はそれ以上何も聞かずに「わかった、直ぐにそっちに向かう」と答えました。妻に電話しましたが、家にはおらず。朝のあの時間帯はいつもスイミングに行っているので家にいるはずがないということはわかっていました。これはもう自分ひとりで病院に直接行くしかないと決め、病院へ車を飛ばし10分ほどで到着しました。当時の交通量は今ほどではありませんでした。私が到着した時、息子はちょうど手術室に搬送されるところで、私はある画像を見せられました。息子は頭部に外傷を受けたため、頭部スキャンを見せられたのです。私が見たその画像は、専門家ではない私でもすぐにわかるほどの非常に深刻なダメージを映し出していて、息子が回復する見通しはおそらく極めて厳しいものになるであろうと思われました。
そう、健康でまだ若く、今まで一度として深刻な病気になったことのないような自分の息子が、ほぼ間違いなく死に向かっているという考えにまず慣れなければいけなかった。そして、いやそれはもう信じ難い程の苦しみでした。しかし、その数時間後には、はっきりしました。息子の状況を好転させるための対処法は何もないということが。
私は家に帰り、妻を連れて病院に戻り、24時間のほとんどを集中治療室にいる息子と過ごし、最終的には息子の命をつないでいる機械を止めるという決断を下さねばなりませんでした。その際、先ほどお話しした私の個人的な友人である外科医に非常に助けられました。人生は劇的に、その非常に短い時間の間で変わってしまったのです。

英国人の喪失体験の語り

ニーナは、ポターズバーでの列車事故当時のことをあまり覚えていなかった。彼女の夫は亡くなり、彼女は重傷を負い病院に運ばれた。彼女は息子から、事の次第を告げられた。

ご自身のお許しになられる範囲でよいのですが、事故へ至る経緯をお話し願えますでしょうか。

私たち、夫のオースティンと私は、ロンドンから、私たちの家があるロンドンから、ケンブリッジへ、パーティーに向かう途中で、ある方の80歳の誕生日で、リバークルーズをする予定でした。私たち夫婦はそのままケンブリッジに一泊して、ささやかな休日に充てるつもりでした。そして家を少し余計に早く出ました、いつもそうなものですから。結果、あわやというところで、もともと乗るつもりだった電車より前の電車に間に合いました。それが間違いだったのです。

予定より早い電車に乗ったのですか?

そうです。必要以上に早く家を出て、先ほど言いました通り、まあそうは言っても、定かではないのですが、予定していたよりも早い電車に乗り、とにかく、私たち、夫婦で、二人でとった休日だったということもあり、一等車に乗り込んで、用意した雑誌や本、それによくある旅行グッズ等も取り出していました。同じ車両の中には、私たちの他に1人乗客がいましたが、特にこの話に関係があるという訳ではありません。私たちはお互いに笑顔で、それはもう幸せを感じていました。天気のいい日でした。川への旅行にぴったりの服を着ていて、パーティー、誕生日、まあ誕生日パーティーと言えばいいのでしょうか、お祝いもあり、そしてそのまま素敵な高級ホテルに泊まる予定でしたから、もう本当にそれだけが、そのことだけが思い出されます。
手術は定期的に受けていました。手術を受け続けなければならないことも知っていました。医者は一連の手術を止めました。当初、命を救う為に左足を切断する予定だったものまで。それというのも、私にまた違う形で、みじめな思いをさせてまで、左足を切断する価値は無いと判断したからです。とにかく私は一命を取り留め、足も切断せずに済んだことには感謝しています。しかし実際に事故がどんなものだったかは解っていませんでした。ぼんやりと息子の言葉を思い出します、「私は列車事故にあって、オースティンが亡くなった」と。信じなかったと思います。そうは言っても、自分が病院の寝台に横たわっていることは分かっていて、何かが起こったのだということは察しましたが、これは何かの夢なのではないかと決め込み、自分が一体どの時点で事故を信じたのかも思い出せません。

英国人の喪失体験の語り

ジョセフィーンは自動車事故により夫を亡くす。警察は、事故のことを電話で彼女に告げた。彼女は、夫の死を他の誰のせいにしたこともない。

6月、そうそれは2001年の6月3日のことです。夫のニコラスは、日曜日の午後、母親のところに顔を出しに行っていましたが、小さな田舎道で亡くなりました。私は、そのときは、忙しかったので、家にいました。駅への途中、ニコラスと母の車が、細い田舎道に入ったとき、田舎道ですよ。一台の車が近づいてきました。その車は、停まってターンし、道路に車がないかを確認していました、道路に車が走っていないかをですよ。この車が近づいてきたんです。車の運転をしたことがないドライバーでした。ニコラスの車の前にぶつかったので車はグルッとまわり、スピンしました。ニコラスは首の骨を折って死にました。
思いたくありません。誰かに責任があるなんて思ってもいません。お母さんもあのドライバーもです。こんな交通事故は、いつかは起こるものだと思います。ものすごくショックでした。夫が9時に戻ってこなかったとき、何か起きたのかしらなんて、全く思いませんでした。家で集まりを催していて、それが終わったので洗い物をしていたときもです。警官が来たときも何も考えていませんでした。そう警官が2人家に来たんです。11時半だったと思います。誰かに何か起こったのだと思いました。警官は、家に入ったまま、無言でした。「何かあったんですか、息子に?」と聞くと、そうではないと言う。というのも、当時、息子が一人ドイツで働いていたからです。私もドイツ出身なのです。それで「夫に何かあったのでしょうか?」と尋ねると、警官がうなずきました。
 そのころ夫と私は、一緒に自然死センターを立ち上げていました。自然死センターは、1991年に設立されたんですが、センターに関わっているうちに、夫と私は樹木葬という家族で取り扱う葬儀の専門家になっていました。それは、ある種の心理療法家が持っている死の観念です、つまり、死は人生の一部であると受け止めること、それは、言ってみれば日々の信念でした。よりよく生きること、精一杯生きること。ちょうどあの事故が起きた日にも、朝方ベッドに横になって、私は今ここで、夫とともにベッドにいるんだと考えていました。ある日、思ったんです。わかるでしょう。おかしな考えなんかではありません。ある日、夫は死ぬだろう。でもここでは、私たちは生きているんだと。私を見てちょうだい、夫は見てくれました。でも夫は、こちらが期待したようにきちんと見てはくれなかったのです。夫は、遠くをみるように、まっすぐ見つめていました。そのとき、思ったのです。「そう、夫に何が起きるかなんてわからない」と。夫と私たちの間には、しっくりこないものがありました。議論もしました。変わるべき時がきたと思いました。このことを重く受け止ないようにしよう、私は邪魔をしないで、これからどうなるのか夫に尋ねようと。
その日、二人は互いにかけがいのないものでした。本当に面白かった。その日、夫が母の元を訪れるために、家を出るとき、私は仕事にとりかかろうとしていました。キスしながら夫に言ったんです。さよなら、「気をつけて戻ってきてね」って言ったら、どう思うかしらって。今までそんなことを言ったことはありませんでした。そして夫は戻って来ませんでした。戻ってこなかったのです。その夜、警官は、なにか恐ろしいことを感じていたんでしょうね。警官が夫は交通事故で亡くなったと話した時、頭が真っ白になりました。

英国人の喪失体験の語り

エリザベスは、警察官から、娘が自動車事故に遭い亡くなったと告げられた当初、それを信じることができなかった。娘マーニは車を運転中に走行車線をはずれ、トラックに衝突し亡くなった。

2006年の8月7日、マーニは交通事故で亡くなりました。昼間のことで、2時30分頃です。彼女の車は走行車線を外れ、トラックに衝突しました。当時は原因がわからず、後になって彼女の持病が事故を引き起こしたのであろうということになりました。

彼女が運転していたのですか?

そうです。

どのように事故のことを知ったのですか?

自宅に来た警察官からです。同じ日の4 時45分です。その日、私は職場にいる時にマーニと電話で話していました。娘は私の職場のそばにいて電話をしてきたのです。私の仕事場に会いに来るかと聞いたら、コンピュータで調べなければならないことがあるから家に帰ると言ってました。だから、(マーニは)急いでいたわけではないんです。調べたいことがあっただけです。私が家に帰ったらマーニがいなかったので、ちょっと変だと思ったのですがどうせ友達に会いに行ったんだろうと思いました。心配しちゃ駄目よ、何くだらないことを考えているのと思いました。でも変な胸騒ぎがしました。だけど子供がいたらそんな気持ちになること他にもありませんか? そこに警官がきたのです。

警察官は2人でしたか?

そうです。2人の男性でした。

警察官は家にあがりましたか?

そうですね、玄関のところで。私はちょっと変だと思ったんです。マーニと彼女の友達が、正確には彼女の友達ですが、その友達が2、3週間程前に地元に帰ってきて馬鹿げたけんかをして、マーニが止めに入ったりしたことがあったものですから、てっきりその件で警官が来たと思ったんです。ちょっと大げさなのではと思ったので家にはあげませんでした。そうしたら彼らがあがっていいかと聞くので「駄目です。どんなご用件ですか?」と聞いたら、とにかく家の中に入れてくれと。たいしたことじゃ全然ないのに、もっと他にやることがあるでしょう、と思いました。でもとにかく彼らは家の中に入ってきて座り、私にマーニを知っているかと尋ねました。勿論です、と答えると、マーニが事故にあって助からなかった、と言いました。何を言ってるの?と思いました。私には彼らが何を言っているのか理解できませんでした。マーニが助からなかったってことが理解できなかった。もちろん言葉の意味はわかります。でも現実のこととして理解できなかった。どこにマーニがいるのか聞きました。ただ会いたかったんです。だって私が何とかできるって。私にできることが何かあるに違いないと思いましたから。

その時どんな気持ちでしたか?

信じられませんでした。今だって信じられません。今も、その時も。これは悪い夢だ。そのうち目が覚めるって思い続けてました。とても悪い夢に違いない。そのうち目が覚めるって。でも私は眠らなかったのだけれど。その後、実際に長い間眠れませんでした。

かかりつけの医師に診てもらいましたか?

いいえ。眠れないのは当たり前だと思ったんです。私はそのまま自然にまかせたかった。診察を受けたければ行くことはできたし、何かしら(薬などを)もらえるのは知っていました。でも「どうして眠りたいの?」って思ったんです。眠れないことは気になりませんでした。マーニのことだけが心配で、どこにいるんだろう、怖かったんじゃないか、恐ろしかったんじゃないかって。今も怖いんじゃないか、寂しいんじゃないかって。でもマーニは、今は怖くも寂しくもないと思います。

英国人の喪失体験の語り

ティムは悲惨な自動車事故で亡くなった。 父、ピーターは、飲酒運転により運転手が車の運転を誤ったことを語った。

5月29日、つまり5月のバンクホリデーの日曜日の午前のことでした。
あいつらは、出かけたんです。出かけたのは、土曜日の夜でした。あんまり楽しみすぎて、運転していたのは飲み過ぎて車の運転ができなくなっていたんです。ティムは事故の現場で亡くなり、運転していたのは翌日亡くなりました。ティムはドナーカードを持っていました。医者たちは、酸素でティムの心臓を動かし続けることはできました。でも、あれは、もう生きてはいなかったのです。
運転していたのは、ティムより2、3才年上でした。彼は、23才ぐらい、ティムは19才と6ヶ月でした。こちらでは、11時過ぎ頃だったか。あいつの友人たちは、花束を手にして外に出ていました。だいたい30人はいたと思いますが、事故の話を信じることができませんでした。そのときまで、妻も父もここにいました。他の家族の人が振り返りました。何事が起こったのかと知ろうとして。
翌日、みんなで車に乗って、田舎町までたどり着きました。交通事故の現場で車を止めました。遺体安置所にいるティムに会いに行くところでした。
事故の現場は、3台の車が衝突し、それはすさまじいものでした。ティムの車が前の車に追いついて、通り過ぎた時にコントロールを失ったんですね。街灯をなぎ倒し、車が小さな爆発を起こし、車の部品が3台の車の上に雨のように降り注いだようです。ティムの車がちょうど追いついたその車にです。
やっと車が止まりました。車は街灯をへし折り、そこからはじき出されて、大木の根元にぶつかりました。それはいくら何でも、誰にも動かすことはできないものでした。2つにちぎれた車は、道路をいくらか走って止まりました。それで、道路がふさがれました。
日曜日の午後3時に到着したそのときまでに、残骸は、片付けられていましたが、息子の家の鍵と自動車免許証を見つけました。身分証明書は、バラバラになっていました。他の鍵もバラバラで、そこにいるべきではありませでした。当然のことですが、そこには、酒のにおいがしました。トランクからです。若い奴らはトランクに飲み物を入れて運ぶんですね。息子は、トランクにクーラーボックスを入れていたんです。それであいつは、クールなヤツだと思われていました。ねえ、車のトランクに冷やした酒を入れておくとは。

英国人の喪失体験の語り

タムシンは、兄がバイク事故に遭ったことを父親から聞かされた。警察官が、兄マシューに会わせるべく彼女を病院まで乗せていってくれた。彼女にとって兄を失うことは苦痛そのものであり到底理解しがたいことだった。

一月のある晴れた日曜日の朝、兄はガールフレンドを始めてバイクに乗せたい、ということでバイク用の皮ジャンを借りに来ました。
その時は20分位話をしたのかしら。兄は私のパートナーと、マシューのガールフレンドのために無理のないバイクコースはどこかなどについて話し合っていました。それで、私は皮ジャンを貸しました。その後、兄はすぐに出かけていきましたね。
車を走らせた兄は、家の前を通るとき、いつものように私に変な顔を作っていったことを今でもはっきりと覚えているわ。 朝はそんな感じだったのよ。そして、その夜ね、夕食が終わった時頃だったわ。私はお風呂に入っていたの。電話が鳴って・・・。私のパートナーが父と話したんだけど、兄が交通事故にあった、それか、あったんじゃないかと言われているって告げられたのよ。それと、警察が母の所にいて、別居している父の元へ車をもう一台出している、と言われたわ。
父の住む所は私の所からそう遠くありません。私のパートナーはお風呂から私を呼び出し、何がおこったのか話してくれました。私はすぐに母に電話をしてマシューのいるかもしれない病院へ行かなければいけない、と伝えました。
その時、警察官はすぐに動いてくれました。誰がお父さんや私を迎えに来るか、などを素早く手配してくれました。そして、30マイルほど離れたところにある病院へと、私と父をできるだけ早く送ってくれました。父と車に乗っていて、とても奇妙なドライブでした。
ほとんど誰も言葉を交わしませんでした。何といったら良いかのか分からなかったのでしょう。帰宅する前に母には話しました。そして、母はその時、「本当な訳ないわ」と言っていました。母が言ったことなんか忘れていたのですけど、今回のインタビューについて一緒に話しているうちに母が思い出させてくれました。「そうよ、もちろん本当な訳ないわ」って、私も否定したことを覚えています。
でも、本当は分かっていたんです。なぜだか分からないけど、マシューだと、兄のことだと、聞いた瞬間すぐに分かったんです。
そして、もう二度と兄に会うことはできない。そして、私たちは病院へ到着しました。そこら辺の記憶ははっきりしてないんですけれど。母とあった時、皆ショックだったことは確かです。とにかく警察官の指示に従いました。病院の救急病棟の廊下を歩いていました。日曜日の夜だったので、結構混んでいましたね。
病院内の静かなチャペルに行くと、永遠と感じるような長さ、人々から色々なことの説明を受けました。法律的にも沢山やることがあって、その人々は皆、私たちを助けようとしてくれていたことは分かるのですが、辛い時間でしたね。
私たち家族が知りたかったことは本当にこの一つだけでした。本当にマシューなのか、という事実だけです。 そして・・・

頭の中でお兄さんの死を受け止める準備ができなかったのでしょうか。

頭の中の準備は出来ていたんですけれども。死亡したのがマシューだと確認されていませんでしたし、誰もまだ彼を見ていませんでしたからね。

その後はどうなりましたか?その時、何かを感じましたか?

はい、感じたと思います。ショックはありませしたが、私の場合、すぐに現実だと分かりました。電話を受けた瞬間、すでにそう感じていたと思います。だから、すぐに分かりました。私にもうお兄さんはいない、ということをね。

お気の毒です

でも、その人と一生会えないという事実は、とても大きくて、切なくて、理解不能なことで、ある時、どこかでこの話題についての討論を読んだんですけれども、これは少しずつにじり寄るというかちらっと見て、後ずさりする、というかそのような状態で向き合っていくべきものだと書いてありました・・・。
そのことについてずっと考えていることはできないんですよね。してはいけないというか。だから、次の数日は本当に奇妙でした。なぜ、世界がいつものように循環していて、人々はいつも通り仕事に行き、車に乗っているのかを理解できずにいる自分と、「仕事を何日か休ませて下さい」と普通に電話を入れる自分がいる。そして、家族をいかに支えていくか、ベストを尽くして。まあ、母と父とパートナーとですけれども。本当にみんなで良く協力してくれました。そしてある時には、兄について語り合って、どれだけ私にとって大切な人だったかなど、もちろん私の兄ですからね・・・。
私の兄は、いつも物事の良い方に着目しました。そして、いつでも冗談を言って私を笑わせてくれました。 この話をした時は、みんなでゲラゲラ笑っていましたね。

英国人の喪失体験の語り

パットは息子マシューの事故死を、自宅に訪れた2人の警察官から伝えられた。精神的に打ちのめされ、呆然としてほとんど言葉がでなかった

息子は一月のある日曜日に命を落としました。彼は・・・バイクに乗るのが大好きで、そのバイクに乗って命を落としました。その時、34歳だったんです。彼は決して初心者ドライバーではありませんでした。むしろ、運転経験は豊富でした。そして、他に経験のあるドライバーたちも彼がなかなかのドライバーだと言ってくれました。
もちろん、彼がバイクに乗ることは少し恐かったですね。だって、私も運転する身ですので、知っていますが、多くの場合、バイク事故の多くはバイクのせいではなく、他車の運転手のミスだからです。私はいつも彼がとても注意深いドライバーだと言い聞かせて自分を安心させていました。そして彼は・・・運転すること、そして道路を愛していました。一月の日曜日、私は息子から25~30マイル離れた家に一人で住んでいました。そして、夜遅く、ちょうど寝支度を始めようかという時ですね。午後11時頃、もちろん外は真っ暗です。玄関のベルが鳴ったんです。ドアを開けると二人の警察官が蛍光色のジャケットと帽子姿で立っていました。すぐに家の中へ招き入れました。

きっと、とても動揺されたでしょう。

この時点では、そんなに大事が起きる訳ないだろう、と自分に言い聞かせていたように思います。
数時間前に、いつも週末を共に過ごすパートナーが家へ帰ったばかりでした。だから、彼に何か起こったのかもしれないと少し思いました。でも、この気持ちも頭の隅へ追いやりました。そして今考えると、その時私は全てのことから逃げたい、そう思っていたように思います。
そして警察官たちを招き入れ、ゆっくりお茶でも、とお勧めしました。すると、すぐに若い方の警察官の方が、私は誰なのかと尋ねました。そして、私は息子の母であることを確認しました。警察官は息子がその夜交通事故に遭ったこと、そしてその結果、命を亡くしたことを伝えて下さいました。この通り、表現されたんです。命を亡くしたって。そしてその時私は、とにかく頭が真っ白で、何が何だか分かりませんでした。今思い返しても、驚いてショックに襲われました。そしてそのショックは何ヶ月も、いや何年も続きました。現実がはっきりと受け取れなかったのです。そしてその間、一度も泣きませんでした。私はただ・・・どのようだったかは分かりませんが。でも、その時にはっきりと覚えているのは私のパートナーである元夫、そして息子の父親に連絡を取るようにと頼まれたことだけです。そして、彼がどこにいるのか、そして私が連絡できるかどうか聞かれました。私が彼に電話すると、彼は答えました。そして、話し出したのですが、声が上手に出ませんでした。
警察官の方は受話器を取り、私のパートナーに話して下さいました。その時私は相当動揺していたのでしょう。寒かったのに、キッチンへのドアを開け、外へ行ったり来たりしていました。 そして覚えていることは私の元旦那が私たちの娘に電話をし、彼女のパートナーと事情を話したことです。そして、彼女のパートナーがこのことを娘に伝えました。その後、娘が私に電話をしました。そして、なんとなくですが、私は彼女に言ったのを覚えています。「これが本当な訳ないわ。間違いよ。大丈夫だから、心配しないでちょうだい」と。彼女のために状況を良くしたい、そう思ったのです。
そして、私にはできなかったんです。できませんでした。私にはこのことを事実として提示されたことを受け入れることができませんでした。そして、この現実を変えることももちろんできなかったのです。