投稿者「dipex-j」のアーカイブ

英国人の乳がんの語り

ペニーさんが手術を受けた10年前と比べて、乳房切除を行った女性のための衣類は非常に増えたと彼女は感じている。

思い返してみると、あの頃は、かわいい下着は皆無でした。決して素敵とは言えないストラップのついたトップス、ポケットもなく、トップのカットやデザインをよく考えないといけませんでした。 20代の若い女性がそれを着たら、まるで37歳になったような気分を味わうことでしょう。TシャツやVネックシャツを着たとしましょう。前かがみになった時に、ブラジャーの中の補てん物の重みで胸があらわになって切除の後の陥没が見えるかもしれないと心配しました。そんな風にならない服でしたら、何でも着られましたけど。だから、服の下に、見えてもいいような、ちょっとしたレースをあしらった物を着るようになりました。今ではそういった服は、たくさん売られていますよね。ふくらみを補てんするブラジャーも、レースが取り付けられたものがたくさんありますし。こういったものはとても素晴らしいですが、あの頃にはこのようなものはありませんでしたね。

それから、イブニングドレスですが・・・あぁ、イブニングドレスはいい思い出がないのです。切除後の私たちが着られるような素敵な黒のドレスなんて、探し出すのが大変でした。今ではそれほど大変じゃないと思いますけど。今の下着は完全にふくらみを補てんしてくれます。ホルターネックのブラジャーや他の形のものが手に入ります。

英国人の乳がんの語り

ペニーさんは、乳房切除の後まもなく休暇に出かけた。彼女は、乳房切除を受けた人の為の服を探し出し、水着などを買わなければいけなかったが、なにより値段が高いと思った。また、この何年かでデザインも素敵になったと思っている。

切除術の後、休暇に出かけました。今になって考えると、どんな風にして行ったのか不思議ですが、確かに休暇に行きました。私の母が荷造りを手伝ってくれました。その時だったのです、ハッとさせられました。私は急にビキニが着られなくなってしまったのです。もちろん、着ようと思えば着れたでしょう。だって、誰も気にしないでしょう。でも、その時は考えてしまったのです。夏らしいトップス?人目を引くストラップのついた服?どうしよう、私何を着ればいいのかしら。その時は、乳房切除手術を受けた女性たちがどんな服を着ているのか、全く知らなかったのです。それから、主人が地方紙の記事で、乳房切除をした人用の服を扱う店について知ったのです。

私はその店に電話をして、そこを訪れました。そして自分の状況を説明しました。そこの店員はとても素敵な女性二人でした。彼女たちは、いろいろな種類のブラジャーを見せてくれました。10年前はそれほどかわいいブラジャーはなく、ストラップの太い、あまり見栄えの良くないものばかりでした。ここで売られている下着は、ともかく胸のふくらみを補てんする物を支えるものだったのです。この時に、それが「ソフティー」と呼ばれるものだと知りました。特別素晴らしいものだとは思いませんでした。彼女らは、何枚かとても高価なワンピースの水着や他の水着を見せてくれました。本当に高価だったのを覚えています。「こんなのおかしいわ。世の中には私達のような女性がたくさんいるのに。彼らはこのお金を全部請求するのだわ」私はそう思いました。「けれど、私に何が出来るというの?成り行きにまかせるしかないんだわ」

結局、私はブラジャーとビキニを買いました。何にせよ、このおかげで私は休暇に向かうことが出来ました。休暇はとても有意義なものになりました。

英国人の乳がんの語り

ペニーさんは家族に随分支えられたと言う。彼女は、家族たちにも乳房切除痕を見せた。手術前と何も変わらない同じ人間なのだということを分かってほしかったという。

私の家族は本当に素晴らしかったです。父も母も来てくれて、ずっと傍にいてくれました。私には妹がいて、彼女は私の家から離れた南の方、ハンプシャー地方に住んでいます。その妹は、毎日私に電話をかけてきてくれました。私が火曜日、病院から戻った時とその週の日曜日も素晴らしい晴天で、家にはたくさんの人が訪れていました。主人の家族全員が来てくれました。彼らはその日のために来てくれたのです。私の妹とその主人、その主人の家族も来てくれました。従姉が一時間ほど離れたところにいるのですが、彼女もその日のために来てくれました。私は仕出しの経験があったので、母にあれこれと指示を出して仕切ろうとしたのですが、「あなたは何もしないで」と言われてしまいました。彼らは私が座っていられるようにすべてやってくれたのです。「なんてことなの」私は言いました。「皆わざわざ来てくれたのに、おもてなしも何も出来ないなんて。だって、そんなことできないでしょう。」

皆忙しく動いて、すべて準備してくれました。それはもうとても素晴らしい働きぶりで。彼らは口々に「ちょっと待って。本当にあなたが手術を受けたの?とっても元気そうに見えるのだけど。」と言いました。だから私も、「えぇ、そうですよ。傷痕を見せましょうか?」そう言って、皆に傷痕を見せました。相手が男性であろうと女性であろうと私は気にしません。皆さん気を使ってこのことには触れてきませんが、私は全く気にしません。「見て。わかるかしら。私は前と何も変わっていないでしょう?いつものペニーなのよ。」

英国人の乳がんの語り

ペニーさんがまだ病院にいた頃、彼女は乳房切除痕をご主人と一緒に見たという。

乳房切除手術の次の日の朝、言うまでもなく、先生方は回診にやって来て、私を起こしました。なるべく早くベッドから起きて動き回るように言われましたが、問題ありませんでした。私は胸に視線を落とし、ガーゼが貼られているのを目にしました。「仕方ないわよね。」そう思いました。胸は小さくなってしまったけれど、これは私のためなのだから、と。術後の胸は、かなり小さく、それは・・・えぇ、本当になんと言っていいか・・・ちゃんと言葉で表現できたらいいのですけど。ですが、その時「こんなこと、なんでもないわ。」と思ったのです。「世の中にいる重い病気に冒されたたくさんの人たちの方が、私よりずっと大変なのだから。」と。私は、再びガーゼを見て、この現実をまっすぐ受け止めようと思いました。私にはドレインが入っているけど、問題はないのだと。私は起き上がり、シャワーを浴びに行きました。そして、こう思いました。まっすぐに受け止めて、この身体と共に生きていこう、と。

それから、ベッドに戻り、朝食をとってから、回診などがありました。お見舞いに私の家族が全員来てくれました。おしゃべりをして、とても楽しい時間でした。私は起きて、椅子に座っていました。痛みはなかったので、気分は良かったです。「そうね、大丈夫だわ。うまくやっていきましょう。そう思いました。それが土曜日のことで、日曜日に先生方はガーゼの交換をすると仰いました。なので、主人にも必ず同席してもらい、ガーゼの交換をしてもらいました。。その時に、私達は一緒に傷痕を見ました。ええ、切除の痕がありました。10年も前のことですけれどね。おそらく、10年前と今では、やり方が違っているはずです。私の傷痕には、たくさんの縫合の痕が見られますよね。でも、いいのです。傷はいつか癒えますから。

それから私は退院することになりました。それは火曜日だったと思います。

英国人の乳がんの語り

ジリアンにとって、リンパ浮腫は、癌になることよりつらいものである。なぜなら、それが進行中だからである。彼女はスリーブ(弾性着衣)を着けたり、腕のマッサージの仕方を教わったりしたけれども、彼女はリンパ浮腫にイライラを募らせている。

癌になってからずっとリンパ浮腫が現れていたのですか。

2度目の手術を受ける前に、リンパ浮腫気味だったと思います。そして今、もちろん現在もあります。そう、今も症状があります。おそらく癌よりリンパ浮腫の方が私を悩ませるといえるかもしれません。なぜなら癌は・・、私はまだ彼らが治療することができるこの癌にかかっているからです。これ(リンパ浮腫)は、ずっと続いていくようなもので・・・。

見ているだろう女性たちのためにもう少しリンパ浮腫ついてお話を聞かせてください。

ひとつ、私が言わなければいけないのは、虚しさでいっぱいになるということです。でも、私が持っている特定のブラウスやジャケットをもはや着ることができないことに今気づいています。そして、このことをただ受け入れなければいけないことはわかっていますが、かなり苛立ちます。それは、少し私がわかったことです。そして私が言っているように、それは乳房再建前には気が付かなかったことです。なぜなら、彼らは背中から筋肉を引っ張ったからです。もし、私が左腕で滑車を持ち運んだりあるいは滑車を使うような動作をすると、右手側の背中が痛みます。それは筋肉の働きだと思います。でも、もちろんリンパ浮腫のある腕で本当に何かを運んだりあるいは重いものを持ち上げたりすることになっていません。

正直、もし人が流行の小さな人形のようなものでなければ、腕(上肢)を使うものです。私は、それはただ、それは腕なしではできないものだったと思いますし、私が言っているように、それは私を惨めな気持ちにさせるような小さなことだったり、あるいは私に不愉快な気分を引き起こさせるような小さなことだと思います。そして、リンパ浮腫は、「私は癌に立ち向かうことができます。でもなぜリンパ浮腫になってしまったのだろう」という感じでした。それは、ちょっと「なぜ私なの?」という感じです。私はリンパ浮腫になりたくないし、実際、リンパ浮腫が絶対に治らないという事実だけですから、それについて注意しなければいけないのです。つまり、touch wood(不吉を避けるために身近な木製品に手を触れる)です。たとえ私が、私は言わなければいけない、私は自分の腕(上肢)を上手に使えなくても、私のものはなんとなく安定しているように見えます。でも、ある種バランスを取らなければいけません。ずっと片側、みたいに、私は使い続けることはできませんから。

リンパ浮腫について何かアドバイスを受けましたか?

リンパ浮腫にとてもよいクリニックがあるので、半年に一回くらい受診しています。もし私がそわそわし始めると、「あぁ、大きくなっている。」と思い、電話をかけます。私は予約をとり、病院へ行き、そこでサイズを測り、「大きくはなっていないですよ。」という会話をします。それで気持ちが落ち着きます。

マッサージなどについて何か聞きましたか。

私は、身につけることができるスリーブ(弾性着衣)をもらっています。私はそれらを返さなくてはいけないと思っています。なぜならそれは本当に風変りで、私はかなり身長が高く、必ずしも華奢ではないからです。でも、私は非常に小さな手首を持っています。そして彼らが与えるスリーブはどれも私の手首には全く合わないのです。より小さいサイズは、ここがきつすぎるのです。それで、彼らはサイズの合う特別なスリーブの入手について話しています。でも、いや、リンパドレナージのようなものを行うことができますし、彼らはこんなふうにドレナージのやり方を見せてくれます。でもそれは、もし私がちょっとうんざりしたり、ちょっと気持ちがしずんだりした場合、私はドレナージをしないというようなものです。そしてそれは、あなたたちとは違って私がやらなくてはいけないことだと分かっているけれど、「ああ、もううんざり。」というようなものなのです。

英国人の乳がんの語り

ジリアンの夫は妻が癌であることを人に話した。ジリアンがその人達に話した時に、癌のことをすでに知っていたので、助かった。

初回の時、私が思うに、伝えたのは上司だけでした。というのも、検査の結果を得るために病院に戻らないといけなかったことを、私が彼女に話したからです。そして、私は彼女に電話をして言いました。でも正直、夫からその他みんなへ主に伝えてもらったと私は思います。二回目のときはたしかよりいっそうそうしてもらいました。癌になったことを話すことが嫌だったというわけではないのですが、もし私が伝えたら、「みんなは私になんて言ったらいいのだろう」ってなるのかなと思いました。だから、少なくとも夫が彼らと話をする、あるいは彼らに伝えてもらうことで、その後私がはっきりと彼らに話したつもりです。でも彼らはそれに慣れるような時間をほとんど持っていたのです。なぜなら、もし私が彼らに、とりわけ『私が再度癌になった』ことを電話して口に出したら、と考えました。彼らは、『え、何?』というふうになるでしょ。

だから、二度目の時に私が話した唯一の人間は[friend’s name]だったと思います。なぜなら、生検後に彼女と会っていたからです。正確には私たちは外出した、晩に外出していたと思います。そして彼女に、また癌になったかもしれないことを伝えたら、もちろん彼女は泣きましたし、それは私が望んでいなかったことです。だから一般的に、前回と今回の両方の機会で、夫が彼らに話すことが私にとってより心痛がなかったと感じますし、彼らにとってもより心痛がなかったと思います。なぜならその時彼らは夫に同情できるからです。でも私と話す前に、彼らはいくらか落ち着きました。

英国人の乳がんの語り

自分が癌だということを他の人に話すのは難しいことかもしれない。イングリッドは数人に話し、そこから他の人へ話が伝わったことが助けになった。

大変だったことのひとつは、癌だということを誰かに話すことでした。そのことを話せば、きっとみんな驚いてショックを受けるでしょうから。だから、癌だということを話すのは簡単なことではありませんでした。

私は話が伝わっていくような仕組みを作りました。夫が家族に話し、特定の友人が同僚やその友人に話すという具合に話が伝わる方法です。二人の同僚の間で話が伝わり、そして彼らからこの情報が必要な人たちへと伝わっていったのです。ああ、それから別の問題もありました。両親に告げるのは一番大変なことです。特に母に伝えるのが。その時、兄は本当にうまくやってくれました。

母の面倒を見てくれ、精神的なケアをしてくれたのは兄でした。そしてもうひとりの兄は父をケアしてくれました。それはとても助けになりました。そういうわけで、夫は何度も繰り返し私の病状を人々に伝える必要はなく、この仕組みは必要な時に効果を発揮しました。夫は兄たちや同僚とだけ連絡をとればよかったのですから。どの段階でも、話を伝える必要があるときにはこの人たちだけに連絡すればよかったのです。それが夫の気を楽にしてくれたのです。本当に効果的な仕組みでした。基になる連絡を特定の人にするだけでよく、それが私だけではなく夫の感じるプレッシャーを和らげてくれたのです。

そうです、そして実際に来客は少なかったのです。たくさんの人に尋ねて来てほしくもありませんでした。みんな素敵な人たちだけど、来客はストレスになるので。もし来客があっても素の自分が出せるのであればいいわよね。自分を飾る必要がなく、冷静に一緒にいられるのは、ごくごく身近な人たちとだけでしょう。そういう人たちってそうそういるわけではないから。目をあければ傍らには夫がいてくれる、私と一緒に家にいてくれるって分かっている、それだけでいいのです。

英国人の乳がんの語り

イングリッドは化学療法中、家事を手伝ってもらうために雇った女性には本当に助けられた。まるで友人のようで、料理、洗濯、掃除を手伝ってくれた。

その他に気がかりだったのは家事の切り盛りです。でも、私は本当にラッキーでした。もしジェーン(家政婦)がいてくれなかったら。特にこの2年間、彼女はこの家のためにほんとうによく働いてくれました。私が彼女の助けを必要とするときはいつでも電話の向こう側にいてくれました。余分な仕事もしてくれましたし、食べ物が必要な時はいつでも来てくれました。彼女は雇った人であり、もし友人だったらこのように色々と頼むことはできなかったでしょう。もちろん今ではジェーンは私の友人でもあるけれども、我々は相互に依存していました。もし友人達にいろいろと助けてもらっていたら、私は彼らがしてくれた事にどれだけのお礼や償いをしなければならなかったでしょうか?

それに、実際、お金を払って誰かを頼むほうが、愛する家族や友人に頼むより気が楽でした。家族や友人にとっても看病や家事をするのはストレスのたまることでしょう。どのようにそれに報いることができるでしょうか?そこに、私たちがお金を払っているジェーン(家政婦)がいてくれたのです。彼女は喜んで助けてくれました。そして、家事の切り盛り、家の掃除、洗濯、どれをとっても完璧にこなしてくれました。そんなことがあったのです。

英国人の乳がんの語り

化学療法を受けた直後、ジリアンはウイルス感染し、入院した。彼女は1週間入院し、その後順調に回復した。

12月28日に化学療法が終了し、その日は前にも言ったように、夫が病気になり、私が嘔吐袋を抱えていたあの2008年1月4日日のようでした。私は本当に、それはおそらく今までで感じた一番最悪ものだったと思います。2階にあるベッドに横になり、「ちょっと休ませて。」と言いました。ただただ、最悪の気分でした。

あなたは救急外来に行きましたか。

いいえ、化学療法を受けていたので行きませんでした。彼らは、時間外用らしき電話番号(実際にはそれは[remove place name]の中央病院の番号でしたが)を私たちに与えました。最終的に土曜の夜中1時頃に夫が電話したと思います。私たちは体温計を買っていました。というのも体温計は感染症にかかっていないかを確認するために化学療法の経過を記録する手段の1つでした。だから、私たちは体温の観察のようなことをしました。それで、夫は私の体温が高いことに気づきました。夫が電話をしたとき、体温と、私が全身の具合が悪いと感じていたというような事実を伝えました。「急いで彼女を連れて来なさい。」というようなことを言われたそうです。

車で病院に向かい、到着したのが深夜3時頃でした。でも、また私たちはただベッドの上に乗っていて、そしてそれは、「ただ私を行かせて。」って感じでした。私はとても具合が悪かったです。なので、たしか6日間くらい病院にいたと思いますが、私はただとても具合が悪かったです。

私は2008年の3月初旬に仕事に戻りました。ひとつの見方、つまりあるウイスル感染から開放されたからです。それは、私が病気で休暇を取得してから20ヵ月近くだったと思います。肉体的には十分回復していたと思います。

英国人の乳がんの語り

イングリッドは化学療法中、大変な問題にぶつかった。苦しい時も自分の尊厳を保ちたかったが、一部の看護師たちは協力的ではなかった。

一回目の化学療法の後、私は両肺に肺塞栓症を発症しました。地域の病院に緊急入院し、そこで治療を受けました。救急隊員は素晴らしかったです。でも、病院内で体験したことは、とてもひどく、驚くようなもので、そして全く馬鹿げていました。

私は生命の危機にさらされていたのです。息も絶え絶えの状態でした。そのようなときに「私をドクターアイヤーズ、イングリッド アイヤーズ、またはアイヤーズ夫人と呼んでください」と言ったけれど、普段、’アイヤーズ夫人’と呼ばれると義理の母親の事を呼んでいるのではないかと思ってしまうぐらい慣れ親しんでいない呼称なので、敢えてアイヤーズ夫人と呼んで欲しいと最初には言わなかったのに、苦しいときに「アイヤーズ夫人」と呼ばれても誰の事を呼んでいるのか気がつかないこともありました。しかし私は必死に生きようとしていました。それで最後に、「ダーリンとかディアとかスイティーとは呼ばないでください」と言いました。そう呼ばれるとほんとうに不快な気分になりました。わたしは………扱われました。(注; ’かわいい人よ’といったニュアンスの親しみをこめた表現だけれども、現在、医療関係者や介護従事者がこのような表現を患者などに使うことは好ましくないとされています。)

それは看護師からだったのですか?

はい、看護スタッフからです。尊厳を保とうとしていたにも関わらず、そのことは本当に私を怒らせました。そう、私は必死に生きようとしていたのです、本当に一生懸命、命と向き合っていたのです。こうして生きていることは驚くべきことです。分かっているのです。しかし、その時私は終始、尊厳を保つこととも闘っていました。当時、病院内で私は少しも尊厳を与えられることはありませんでした。もし、化学療法中に経験する下痢のことを考えたならば、自分自身でトイレへ行って戻ってくる、そのときに自分自身で清潔を保つ気力はほとんどないのです。私は手を洗うために助けを頼まなければなりませんでした。洗面台まで行くこともできず自分で手を洗うことができなかったのです。
手を洗うために受けた介助はひどいものでした。ある時は、誰かが水の入ったボウルを私が届かない位置で持っていたり、ある時は、実際にこんなことを言われました。「消毒用のぬれティッシュの箱を持ってきてあげるから、用を足した後、誰かに助けを頼まないで自分でちゃんと手が拭けるわよね。」それが私に与えられた選択枝でした。でも、私はいつも頼まなくてはなりませんでした。私が手を洗いたいと思っているなんて、誰も気づいてくれなかったのですから。