診断時:68歳
インタビュー時:70歳(2009年3月)
中国地方在住で、妻と2人暮らし。近隣に娘夫婦が住んでいる。2006年、市の健診でPSA値が4を超えていて、近隣の総合病院にかかり、がんと診断を受けた。この病院で治療を受けることはできなかったので、インターネットで情報を集め病院を探し、2007年2月、県内の総合病院で全摘除術を受けた。グリーソン・スコアは9と悪性度が高かった。現在はPSA値も安定していて、3ヵ月に1回の通院で経過を見ている。

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プロフィール詳細

教育関係の仕事で管理職を務め、全国的な組織の重役を担っていたD.Aさんは、単身赴任で数年ごとに異動があり、加えて出張に次ぐ出張で、定年までの15年間は、特に多忙な日々を過ごしてきた。退職後は同世代の人たちを対象としたパソコン教室をボランティアで運営し、忙しいながらも楽しく充実した毎日を過ごしていた。

2005年、市の健診でPSA値が4を少し超える値で、再検査を勧められ総合病院にかかったが、陰性と言われた。翌年、またPSAが同じくらいの値で、精密検査を勧められたが、どうせまた同じ結果になるだろうと思い、検査を受けないつもりでいたところ、かかりつけ医から受けた方がいいと勧められたので、再び総合病院を訪れた。触診では異常はなかったが、入院をして詳しく画像検査や生検を受けることになった。結果を伝えられる日、少しすまなさそうな担当医の表情をみて「ああ、がんなのかな」と思い、尋ねてみると「そうです」という返事だった。生検まで受けたので、何となくそんな気がしていた。あまり深刻には感じず、不思議な心持ちだった。

その病院では治療は受けられないとのことだった。「病院を探してきて下さい」と言われたので、インターネットであれこれ調べた。ちょうど、近くに住む娘に子どもが生まれたばかりで、密封小線源療法は、治療後に小さな子どもと接する際には注意を要するという説明を見て、初孫を抱けないのは…とすぐさま除外した。手術ならば再発してもその後に放射線治療は受けられるし、検査を受けた病院で、手術を勧められていたこともあって、きれいさっぱり取ってしまおうと手術に決めた。どの病院で受けるかは、県外も含めてあちこちの病院をインターネットなどで調べたが、手術件数の多さや口コミをもとに、県内の総合病院を選んだ。

もうすぐ手術というとき、同居している母親が体調を崩して救急車で運ばれた。病院から付き添いが必要と言われ、少し認知症があり、夜中に点滴を抜いてしまうこともあったので、目が離せない状態だった。代わりに付き添ってくれる人や、短期で預かってくれる施設を必死に探した。当時はあまり自覚がなかったが、精神的にも身体的にも、かなりつらい状態だった。妻も大変な思いをしたと思う。間際になって、ようやく預かってくれる施設が見かり、おかげで安心して手術を受けることができた。

グリーソン・スコアが9と悪性度が高く、手術の結果がんが前立腺の被膜ぎりぎりにあったことが分かり、もうちょっと遅かったら事態が変わっていたかもと思う。その後の経過は極めて順調で、訓練の効果もあって、尿漏れパットは半年もかからずに取れた。パソコン教室にも早々に復帰することができた。人を喜ばせるために何か出来ることをしたいという思いから、いろいろなボランティア活動に積極的に携わっている。

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