インタビュー時年齢:32歳(2020年11月)
障害の内容:聴覚障害(先天性難聴)
学校と専攻:大学・産業技術学部(2007年度入学) 大学院・建築デザイン専攻(2011年度入学)

首都圏在住の男性。4歳のときに先天性の難聴と診断され、補聴器を使う生活が始まった。小中高と普通校で学んだが、大学進学にあたって聴覚障害者に特化した教育を行っている大学を選び、そこで手話を覚えた。子どものころから絵を描くのが好きだったので、大学・大学院では建築を学び、建設会社に就職した。設計の仕事は様々な立場の人とコミュニケーションをとる必要があり、電話や会議で苦労することもあるが、相手と良い関係性を作っていく努力が鍵だと考えている。

プロフィール詳細

立憲(たつのり・仮名)さんは、4歳のときに呼び掛けても答えないことに母親が気づき、検査を受けて聞こえが悪いことが分かった。それ以来補聴器を使う生活となり現在に至っている。男性の声は聞き取りやすいが、女性の声は難しい。ただ、自分は発音がはっきりしているので、日常生活では介助なしに口話でコミュニケーションがとれている。
 高校まで普通校で学んでいた。小学校の頃は補聴器を使っているのを同級生に見られるのが恥ずかしく、中学校では差別やいじめのようなこともあり、先生とマンツーマンで授業を受けられる特別教室が逃げ場のようになっていた。この頃は周りから耳が聞こえないと頭も悪いと言われていたこともあり、自分でもそう思い込んでいた。しかし、高校に進んで、新しい人間関係の中で耳のことを説明すると、みんなが配慮してくれるようになり、それまでの学校生活で感じていたストレスがなくなり、成績もどんどん良くなった。
 大学進学にあたっては、母親から早く自立するように促されたこともあり、実家からは遠く離れたところにある、聴覚障害の学生を対象に専門的な教育を行っている大学を選んだ。この大学の非常に高い就職率にひかれたこともあり、小さいころから絵を描くことが好きだったので、デザインについて学べるということも決め手になった。その一方で、ずっと普通校で学んできた自分が、障害のある人専門の大学に通うことは、自分にとってプラスになるのかどうかと考えて葛藤したこともあった。しかし、長い人生の中で4年間くらいしっかり自分の障害と向き合う期間があってもいいと思い進学した。入学後に手話を学び、同じ障害を持つ人たちと交流できるようになり、生涯続く深い人間関係を築くことができた。
 大学で学び始めた建築デザインをもっと学びたくて、別の大学の大学院に進学し、また健聴の世界に戻ることになった。大きな国立大学だったので障害学生のための支援室があり、授業については申請すればアルバイトのノートテイカーを費用も大学持ちで付けてもらえたが、時間が変動するゼミはバイトの手配が難しく、ディスカッションでの会話についていくのには苦労した。そのぶん先生とマンツーマンで真剣に研究に取り組み、論文は80人いる同期の中でトップの成績で賞を取ることができた。
 研究の傍ら、学部生・院生時代を通じてサークルに入ってダンスに打ち込んだ。耳が悪くても踊れるということを発信するのが楽しくて、人間関係も広がり、つらいことがあったときにも逃げ込める自分の世界ができたという気がする。
 就職活動は大学院1年目の終わりくらいから始めて、順調に進んで大手2社から内定をもらい、そのうちの建設会社に就職した。就活の面接の際に電話の対応はできないことを伝えていたにも関わらず、最初に配属されたのは大きな営業所だった。電話でのやりとりが欠かせない仕事を任され、大変な苦労をした。今思えばあれはパワハラだったのかもしれないが、当時は必死で同期と同じように仕事をこなそうとしていた。
 現在は組織としての会社に配慮を求めるというよりは、職場の同僚や先輩に支えられている。会議や打ち合わせでも要約筆記をしてくれる人とスマートフォンの音声認識アプリでサポートしてくれる人がいて、きちんと仕事ができている。要約筆記が議事録になれば健聴者にとってもメリットになるように、周りに配慮を求めるときは、自分だけでなく相手にとってもメリットになることを探すようにしている。
 現在1歳10か月の子どもがいて、ちょうど言葉を話し始める時期だが、それを聞き取るのが難しい。今はジェスチャーを交えて言葉を教えるようにしていて、身振りと言葉を一致させることで、いずれ手話を勉強してもらえたらいいと思っている。

私は: です。

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