投稿者「dipex-j」のアーカイブ

英国人の乳がんの語り

化学療法の後、しこりが小さくなり、乳房の全摘出手術をしなくてよくなったことがジャネットはとても嬉しかった。彼女は良く知られたテレビキャスターだったため、病院内で彼女の存在を知られてしまうのが気がかりだった。

私は最初に診察を受けた外科医のところに戻り、言いました。「いいですか。先生の診断が唯一のものであることは分かりました。でも、最初に化学療法を受けることはできないでしょうか?」化学療法が時としてしこりを小さくするということが私の心によぎっていたからです。もし十分にしこりが小さくなれば、乳房の全摘出をしなくてもよいかもしれないと思ったのです。外科医は私を見つめて言いました。「そうですね。それは標準治療ではありませんね。私の普段のやり方ではないですね。でも、やってみましょう。何も変わりがないかもしれませんが、あなたが望むなら先に化学療法を行いましょう。」

こうして、私は翌週から化学療法を始めました。化学療法を行うのはある意味本当にいやな経験でした。治療がいやだったのではなく、自分自身のことがいやだったのです。私はなんどもテレビに出ていたので、良く知られた顔だということがわかっていました。だから、大勢の人が診察や治療を待っている広い待合部屋に行くのが恥ずかしかったし、人にじろじろ見られたくありませんでした。私のことは知ってほしくなかったし、私の治療の過程を知られたくありませんでした。友だちには癌のことを話しているという事実があるにも関わらず。

だから、治療をすることについてはとても積極的にはなれませんでした。
それが最初の治療を受けた後だったか、それとも何回か受けた後だったか、はっきり覚えていませんが、病院での検診の時看護師が私のしこりの寸法を測ったのです。驚いたことに、しこりは小さくなっていたのです。

たった一回の治療で、ですか?

覚えている限りでは、最初の治療セッションの後です。このセッションの数週間後でした。看護師は驚いていました。5.2センチあったしこりが、3.6センチまで小さくなっていたのですから。看護師は言いました。「なんということでしょう。こんなのは見たことがないわ。」私は心の中で言っていました。「やった。結果がでたわ。」と。看護師はまた言いました。「目印をつけておいた方がいいわね。治療を6回続けたら、しこりは消えてしまうかもしれないから。どこにしこりがあったか分からなくなってしまうかもしれないから。」そこで私は目印のマーカーを挿入することになったのです。

治療中のいつこのことが起きたのかはっきり覚えていませんが、化学療法を始める前の私のしこりはとても目立ち、私の乳房の形を変えてしまっているほどだったのはよく覚えています。乳首がしこりのせいでずれていました。そしてこのずれは日に日にひどくなっていきました。

化学療法の後に、ですか?

いいえ、化学療法を行う前です。どんどん大きくなっていきました。でも、化学療法の後で変化が見て取れたのです。乳房の形が少しずつながら日に日に戻ってきたのです。

英国人の乳がんの語り

ジャネットはいくつかかつらを持っていた。そのうちのひとつは人毛でできたものだった。彼女はそれをカットし形をつけ、かつらをつけることに自信を感じた。

私は予約をし、かつらをつくることにしました。頭皮様裏地がついている素晴らしいかつらです。いわば肌色の網で、風が吹いても髪の分け目が変に見える心配のないものでした。安物のかつらだったらそうはいきません。高価なものでしたが、本物の人毛で出来たかつらであれば、少なくとも本物の髪の毛に見えるでしょう。ナイロンでできたものとは違って見えました。

そうして、私は予約を入れ、かつらを作りに行ったのです。私に必要な髪の色を注文しました。髪が抜けてしまう前に、かつらを作りに行ったので、私の髪の色に合わせられました。私の髪の質、長さ、頭の形などなども調べました。かつらが届いたので試着し、髪をカットして形を整えてもらいました。こうして私にぴったりとした髪の毛を手に入れたのです。本当にいいものでした。素敵でした。
人毛のかつらには欠点もありました。人工毛のかつらであれば、かつらを脱いで水に浸し、洗い、振って乾かすだけで、他に何もすることはありません。でも、人毛のかつらは本物の髪の毛のように扱わなければなりません。シャンプーをし、乾かし、セットをし、日々伸びていく本物の自分の髪の毛を世話するように扱わなければなりません。これはけっこう大変なことでした。でも逆に、人工毛のかつらだったら料理用コンロに乗り出しすぎた時に容易に燃え上がってしまうようなことはありませんでした。

私は素敵なかつらをいくつか持っていました。良かったです。髪が抜けた頭のまま外出しなくてよいとわかったので、とても自信を感じることができました。このことには別の問題がありましたからね。おもしろいことに、私が乳がんだと診断された時、心底心配したことが2つありました。外観を損なうことです。乳房を失ってしまうことと髪の毛を失ってしまうことです。虚栄心のように聞こえるのはわかっていますが、それは私にとって女であるということのすべてだったのです。

また、私は部分かつら用のテープの存在を知りました。すごく良いものです。女優が胸元や背中が大きく開いた服を着る時に、大きく開きすぎてしまわないように服を留めるために使うものです。私はこのテープを購入して使用しました。ものすごく良かった。風の強い日に心配なく外出することができましたし、かつらはびくともしませんでした。驚きでした。こうして、私は髪の毛のことを心配することなく、容姿にすっかり自信を持てたのです。

英国人の乳がんの語り

イングリッドはひどい下痢と倦怠感を経験した。それは他の健康上の問題と絡みあったものだった。味覚がころころ変わったので、何を食べるか決めるのが大変だった。

化学療法の経験そのものはひどいものでした。誰にだってそうでしょう。本当に驚きでした。ひどいものになるであろうということは予測していましたが、ここまで酷く気分の悪いものかは理解していませんでした。吐き気は中でも最悪でした。吐き気を緩和するため最初に処方された薬は、全くと言っていいほど効きませんでした。その時助けになったのはとても単純で簡単なことでした。休暇から持ち帰った生姜の飴だったのです。飴に含まれる生姜が吐き気を緩和してくれたのです。より強い吐き気止めの薬を処方されるまで、これは本当に助けになりました。

しかし、その強い吐き気止めはほぼ最後の段階の化学療法のときに処方されたのです。その吐き気止めには眠気の副作用がありました。その時、ちょうど夏季オリンピックの時期でしたので、母はこう言いました。「もしオリンピックで睡眠が競技になったら、あなたはイギリスのために金メダルを取れるかもね。」私はものすごく眠りました。それは私にとって生きることの一部だったのです。まるでティーンエイジャーのようでした。あまり行儀のよいことではなかったかもしれません。これが私の経験し感じたことでした。

がんに加えて、私は関節にも問題を抱えていました。私がはじめてしこりに気付いた時、ちょうどロンドンで受診の予約を取っていたのですが、それは人工股関節への置換手術を受けるためのものでした。膝の調子も良くありませんでした。その時、私はすでに一方の股関節を人工股関節に換えていました。こんなわけで、関節の調子は良くありませんでした。これが問題をさらに複雑にしていたのです。
私は帽子を買いに行ったり、何かそのようなわずかな楽しみを持ちたいと思っていましたが、そんな気力は全く湧きませんでした。実現することもありませんでした。

友人は、「あなたの帽子の買い物に付き合ってあげるわよ。」と言ってくれましたが、完全に気力はありませんでした。それどころか、自分で何とかできる最大限のことは、お風呂で自分の体をきれいにすることだけでした。シャワーを浴びるだけでも、疲労困憊しました。

その時、ご主人は一緒にいらしたのですか?何か食べられましたか?吐かないでいられましたか?食欲はありませんでしたか?

私は。。。

味覚は?

味覚は実際、とても複雑でした。たとえば、夫が、「何が食べたい?何がほしい?買い物に行くから買ってきてほしいものがある?」と聞いて、私の食べたいものを買ってきてくれるのですが、彼が買い物から帰ってきた時にはもうそれを食べたくなってしまっているのです。ですから、私たちの通常の家事のやりくりに反して、夫はたくさんの食べ物を捨てなければなりませんでした。それは全く予期できないことでした。夫が買い物に行って何か食べ物を家に持ち込んでくると、私は「ウエッ」となるのです。水さえも変な味で、水も飲めない状態にまでなっていました。そんなこんなで、食べ物は大きな問題で、何が食べたいかは予測不能でした。

英国人の乳がんの語り

ジャネットは放送ジャーナリストで、化学療法中も仕事を続けていた。彼女は、癌患者を励ますためにBBCの番組に出演した。

治療を受けるようになった時、それを公にしようと私は決心しました。私は地域でよく知られた顔だったし、いわゆる特別な立場にいたからです。

乳がんだと診断された時、私はその年の10月に個人で行う絵画展覧会を初めて開く予定でした。そんな時、癌だと診断されたのです。どうしたらいいのだろう?と思いました。このまま続けるべきか、すべてをやめてこう言うべきか。「だめ。私は続けられない。」と。でも、私はそのように負けてしまってはいけないと思いました。やり続けなければ、それを何としてもやらなければ。私に目標を与えてくれるものだから。そうして私は化学療法を受けている間、その年を通して絵の準備を続けました。やがて展覧会の時がやってきた時、偶然にも乳がん啓蒙週間と重なりました。そこでBBCの同僚たちは、私とともに仕事をするよい機会だと決心したのです。番組の中で私は髪を失い、かつらをつけていました。化学療法を終了して手術を待っている状況でした。いえいえ、違いました。私はまだ化学療法の最中でしたが、それも終わりに近づいていました。そうして私は家でインタビューを受け、オーカムで展覧会を終えたのでした。本当に興味深い体験でした。でも、私は癌に直面している人たちを勇気づけたかったのです。

その後、私は別の番組をする機会も得ました。治療が終わった翌年でした。私の髪はまだもとに戻らず、少し生えてきたところでした。髪が生えてきたのは見てわかったし、それがひとつのヘアスタイルでもありました。でも私はまだたいていの時はかつらをつけていました。娘と私はチャリティーのためのフリーマーケットのような番組に出演するよう招待されました。私たちは癌の研究のためにそれをしたかったのです。別のチャリティーを目的にする別のグループもありましたが、私たちが受け入れられ、フリーマーケットをすることができたのです。

そして最初の収録の日、私はかつらを着けていました。それは私たちが翌日売る予定のものを買い集めた時でした。翌日に私たちは別のフリーマーケットに行き、物を売って出来るだけたくさんのお金を得ようとしているところが収録されました。そして私は売り物にするためかつらを脱ぎました。人々にかつらをつけることを恐れてほしくなかったからです。人々が最初に番組で私を見た時に、私がかつらをつけているなんて全然気づかず、次の回の番組でかつらだったことを知る。そして、それはそんなに変に見えない。そういう思いが人々を勇気づけるに違いないと思ったのです。

英国人の乳がんの語り

医者は、妊娠中でも、化学療法を受けることは支障はないことをテスに保障した。 しかし、妊娠中に化学治療を受けることに批判的な態度を示す人もいた。 テスは、のちに健康な女の子を出産した。

化学療法は順調に進みました。最後のセッションでは妹が付き添ってくれ、一緒にビデオを見て、信じられないことかもしれないけれど、とても楽しんで鑑賞してしまいました。だけど、そうして妹がいてくれたことは、とても支えられ愛されているように感じ、おかげで、悪い気分にはなりませんでした。
全ての人が同じような状況ではないと思うけれど、化学療法もその副作用についても、とてもよく管理されていると感じました。

化学療法を受けている間、妊娠していましたか?

はい、妊娠していました。それでも12週以降であれば、特定の化学療法を受けることができるのです。よって私は受ける予定の治療を変えませんでした。医者は今までに多くの妊婦のがん治療を行い、どのような理由でそうなるのかきちんと判明されていないようですが、時々妊婦の方が、化学治療の副作用が少ないということがあるようです。

化学療法を受けているとき、きちんとした根拠もないのに、たくさんの人からコメントや批判的な意見を聞きました。その様な人は「何故、医者は妊娠中のあなたに化学治療を受けさせることにしたの?」と、ほとんど失礼な態度であり、私の気が触れているか、私がおなかの中の赤ちゃんを危険にさらしていると言っているようなものでした。

そのようなコメントや批判に対して毅然としていることしかできないのではないかと思います。周りの人々は、妊婦に対して正当なことを言ってよいという権利があると思っているのです。

そういう風に話しかけてくる人は、友達ですか、それとも?

化学療法で治療中の人だったり、とにかく様々な人たちです。妊娠していると、周りの人達は、特にいろいろと言ってきたり、コメントしてきたり、批判してきたりしてくるものです。
誰ひとりとして妊娠中に癌の治療など受ける事など望んでいるわけがないだろうし、誰ひとりとして妊娠中に乳がんになってしまうことなんて望んでいるわけないと思います。誰ひとりとして望んでいることではないのに。だから、そのような無神経さには、ただ強く、毅然としていることしか出来ないと思います。

英国人の乳がんの語り

イングリッドは乳房再建手術には満足だったが、放射線治療を受けてから肩に痛みを感じるようになった。リンパドレナージのマッサージがその痛みを和らげた。

手術はとても良かったとはっきり言えます。術後一週間、そして化学療法中は肩に何も問題はありませんでした。しかし、放射線治療終了後、肩に痛みを感じるようになったのです。違和感があり、特定の場所が特に痛みました。イギリスで受けた診察のたびに、私はそのことを訴えましたが、まともに取り上げてもらえませんでした。そこで私はリンパドレナージの施術資格を持つドイツ在住の理学療法士のところへ行くことにしたのです。そして、そこで数回施術を受けただけなのに大きな進展があったのです。私は癌専門の看護師の友人である同僚にそのことを話しました。「ドイツに行くたびに、リンパドレナージの施術を受けているのよ。」と。その時、友人は即座に尋ねました。「あなたにはリンパ浮腫があるの?」私は、「違うわ」と答えました。

しかし、ドレナージマッサージを受けただけで大きな違いがあったのです。これは単なる偶然だとは思えません。特に右手の指の痛みは緩和されました。肩はずっと調子よくなりました。完全にというわけではありませんし、いつかそうなるとも思いません。経験上、ある程度の違和感は仕方ないと思っています。でも、リンパドレナージマッサージはほんとうに効果的でした。それを始めただけで、痛みが緩和されたのです。この数カ月、定期的にドイツへ行く機会があったためそれを始めてみましたが大きな違いがありました。これからもも続けていくつもりです。

英国人の乳がんの語り

ジリアンは乳腺切除術と同時に乳房再建をしてもらうかどうかを決めることに少し焦りを感じた。DCISと診断されただけだがジリアンは先に行くことに決めた。

私は中に呼ばれました。そして、「よわったなぁ、癌のようです。以前に一度癌になっていますから、推奨としては今回乳腺切除術と化学療法になります。」と彼らは言いました。

だから、気持ちが焦っていたことを言うつもりがなかったというか、言うことができない状況でしたが、医師らはすぐに乳房再建についての話をしていました。決断を迫られているように感じたので、その日に乳房再建を希望するかを決めました。医師らはある考えを持っていたかったと思います。なぜなら、2種類の手術を受けないといけなくて、時間にして映画館にいるくらいであると説明したからです。それは、「むしろすぐにでも手術を施行したい。」という感じですね。

先程も言ったとおり、私は完全に信頼を持ちましたし、私には今回化学療法等が必要だったと彼らが言った事実や、乳房再建を薦めていた事実がありました。当初、彼らがなんとなく心から私が望んだ人だったと、深く思いました。そして、もし医師がそれを勧めているならば、その時私は本当に、それが私が受けるべきものだと感じました。だから、乳房再建を受けますと私は言いました。

私は本当に、あまり詳細に乳房再建について調べていませんでした。私はただよく考えただけで、よく知りませんでした。そういえば彼らは私にいくつか写真を見せてくれました。そして、「これがまさに私が欲しかったこと。」とはなんとなく思いませんでしたが、同時に、「もし私が乳房再建を受けたら、少なくとも服を着た時、それは、すべてが普通に見える。」とも思いました。

最終的に乳房再建をしようと決めた理由は、私が今乳房再建を受けなかったら?と考えたから、そしてもし私が今それを受けたら、彼らが現在の多くの皮膚を保持すると説明しているからです。一方で手術後にはやらなければいけないことが少しあるかもしれませんでした。そして、「もし私が今受けなかったら、たとえ私が本当に不幸だとしても、かなり過激な手術を再度経験することを選択するだろうか?」と私は考えました。そして私が選択するか私にはわかりませんでした。それで、そのことが結局、私に再建することを決断させました。

そして、彼らは私に、失敗する可能性があること、乳房再建には本当に良い血液供給が必要であることを説明しました。なぜなら、私には背中からぐるりと引っ張ってきたものがあったからです。そして、彼らは、本当に良い血液供給が必要だと言いました。だから、彼らは失敗することもあるのです。でも私は、「いや、私たちはそのような事を受けてみよう」と思いました。

英国人の乳がんの語り

治療を受けながら新生児の世話をするのはとても大変な作業であった。最初の頃、テスは健康な胸で授乳もしていた。

もうひとつ、医師が言っていたことで手助けになったのは、「治療があなたとおなかの中にいる赤ちゃんに余分な危険を与えなかったとしても、全ての治療が終了しても、出産と重なることはとにかく大変なことになるでしょう。」ということでした。赤ちゃんを出産するということは明るいことだけれども、その一方でとても忙しくなることで、特に新生児の頃は母親は孤独な存在になりがちです。

たくさんのサポートがありましたか。仕事は休みましたか。

はい。私は、仕事を休んでいました。それでも、赤ちゃんがいるということは、とにかく沢山の事をしなくてはならないですよね。

赤ちゃんの誕生というのは、とても現実的なことだと思います。はじめは、赤ちゃんの誕生に対して人生の全てが美しくそして、すぐに今までどうりの生活に戻るという妄想を抱いたりするけれども、実際はひとりの小さな人の面倒をみるということは、とにかく大変で、出産は現実に気がつく瞬間でもありますよね。

そして、たとえば、たった一つの胸しかないのに、病院の職員から「両方の胸からお乳はでていますか?」と度々聞かれ、しまいには「私は1つしか胸がありません。」と、言わなくてはならず、もちろん彼らがわざとそのように言っているわけでは無いとわかっていたけれども、なぜ病院職員は自らの態度を改めないのかと感じました。

英国人の乳がんの語り

テスは、乳がんの家系であった。最初に乳房切除術を受けてから2年後に、2回目の乳房切除術と乳房再建術を行った。彼女は、それらの手術に満足している。

私は、乳房切除術を受け、その1年後に、もう一方の乳房切除術と再建術を行いました。それは約2年前の事で、その時も心身ともに充実した生活を送り、全てがうまく機能しているように感じました。でも、それは人それぞれではないかと思います。

私の家系は、遺伝的に案じるものがあり、いくつかの遺伝子の検査をしなければならず、それらの検査結果は全て陰性だったけれど、比較的若い年齢で乳がんになったことや、遺伝的なこともあり、やはり専門家は、私はまだ乳がんになる可能性があると思っていたので、健康だけれどももう片方の胸の切除手術を受けることは大きな意味がありました。

だから私は、もう片方の乳房を切除することに対して、すごく積極的でした。それから、形成外科医が、同時に、乳房再建術をしてくれ、それは、本当に良かったです。彼らは、素晴らしく、そして可能な限りのことをしてくれたと思います。

英国人の乳がんの語り

テスは乳腺腫瘤摘出術よりもむしろ乳房切除術をする方がよいと思った。彼女は乳房切除術後、気分的に楽になった。

しこりは大きなものではなかったけれど、マンモグラフィを受けたとき、医師らが考えていたように前がん状態の部分が見つかり、皆、最初は乳腺腫瘤摘出術をするものだと考えていたけど、最終的には、乳房切除術を受けることになりました。 実際、心理的には乳房全体を取り除いて良かったと思います。

私は、しこりを常に感じることができるのに、様子観察しなければならないという考え方をあまり好みませんでした。だから乳房切除術を受けた後はほんとうに安心しました。

しこりがあって、自分自身に気にしないように、触らないように説得しながら日々を過ごすのは、気分の悪いことだと思います。だから、胸も無くなってしまったけれど、しこりが無くなって本当に気分的に楽になりました。手術は診断されてから2週間以内に行われ、医者や受けたケアはとても素晴らしかったです。

同時に、リンパ節を生検してもらい、それらは全て陰性の結果で戻ってきました。
その時は全ての事を悲観的に思わなくても良いという希望を感じた瞬間でした。