投稿者「dipex-j」のアーカイブ

英国人の喪失体験の語り

シンシアは、娘が亡くなって以来、クリスマスには何もしたくないそうです。命日の6月には、毎回なにか特別なことしています。

その年のクリスマスは情報を待つばかり、次の年は娘がいない最初のクリスマス、地獄よ。いまはクリスマスごととは一切関係をもちたくないわ。完全に無視よ。知りたくもないわ。友人たちは気を利かせて、“楽しい冬至を ”と書いたカードを送ってくるの。クリスマスのクの字もカードには書かれていないわ。

ほんとに。

気を使ってくれてるのよ。検死尋問はその一月の終わりだったわ。無惨で無惨でたまらなかったわ。

そして特別な日、あなたはクリスマスは最悪だといっていたわね。

クリスマスなんてものはもう知らないわ、かかわりたくもないわ。

他の記念日、誕生日なんかも、やはりつらいかしら?

つらいわ。でもその日は大学の記念樹を見に行くの。記念樹は良く育っているのよ。白樺の木でとても大きくなったわ。ウサギが時々現れるのよ。昔娘ちいっしょにウサギを飼っていたので、なんか奇遇だけれども、そこは娘の居場所というきがするの。だから誕生日にはそこへ行くことにしているの。そして命日には何か娘とつながるようなことをするの。記念樹にいくこともあるわ。他になにかすることもあるのよ。たとえば、RoadPeaceのサポーターの一人がプロのミュージシャンで、時々私たちのためにコンサートをひらいてくれるの、募金のために。そして今年は、まったく偶然なんだったけれど、娘の命日だったの。私とは全然関係ないのよ、彼は娘の死んだ日もしらないんだから。でも今年はそれがが命日だったので、それにでかけたの。

すばらしいわ。

ええ、娘のことを思うとね。

英国人の喪失体験の語り

スザンナにとってクリスマスは毎年辛い日だそうです。というのも、弟の葬式が12月23日だったからです。クリスマスと新年はどちらも大変心が痛むと語っています

クリスマスの頃は特に気をつけています。弟の誕生日は11月5日でした。ちょうどその日に彼の遺体と共にイギリスに帰ってきたんです。クリスマスは特につらい日です。彼の葬儀が12月23日だったし、毎年必ず決まった人がいない。お正月も、蛍の光の歌とともにみんな家族と過ごす日でしょ。弟がいない事を思いしらされるんです。クリスマスは普通は楽しい時、だから余計につらいんです。仕事のクリスマス行事に参加できなかった。ちょっとのお酒で酔っ払って訳がわからなくなったり信じられないくらい精神的に脆くなっていて。でもそれを隠さなければならない。同僚にはわからないし。彼らは言うんです。「私の母が亡くなったとか、私の祖母が亡くなったとか。悲しかったけどそのうちに大丈夫になるよ」って。でも私だって彼らと同じだった。こんな悲しみを乗り越えて以前の生活に戻るすべなんて知らなかった。そんな準備なんてしてこなかった。

今後以前のような生活に戻ることは?

ありません。ただ一人前の人間として暮らすことができるようにまではなる。そうなるまでに長い時間がかかります。でも、以前の自分や日常に戻ることは絶対ありません。2002年10月11日以前の自分に戻ることは絶対にありえないんです。

英国人の喪失体験の語り

パットは亡くなった息子マシューの思い出に、素敵な木製ベンチを湖の近くに置き、命日や誕生日など、折あるごとに、そこを訪れた。

多くの人は、「人生は進み続けるしかないし、私たちは生きて行かなければなければならないのだ」と言います。でも、何かが変わる時、その変化を止めることはできませんよね。そして、人は自分で勇気を見つけ、再び立ち上がるために何が必要なのかを見極め、立ち上がることが必要なのです。記念日などというものは、非常につらいですね。私たちには多くの記念日があります。クリスマスには家族同士で集まる機会に使われます。そして、命日もあります。私の息子は美しいベンチを持っています。手作りの美しいベンチで、彼がよく時間を過ごした湖の岸にあります。私も彼の命日や誕生日にそこへ行きます。誕生日なんかにはその美しい場所に家族で集まり、ピクニックもします。良いことだと思いますね。

英国人の喪失体験の語り

シンシアが抱く怒りと娘や他の人々のために法の公正さを求め闘うという決意は、彼女自身を完全に変えることとなった。シンシアは自分は違う人間になったと言う。

今現在の人生はいかがですか?これまでどんな風に変わったと思いますか?将来についてはどうお考えですか?

そうね、人生が変わったというより、私自身が本当に変わったのよ。娘の死の扱い方に対しての怒り、娘のケースを立証し毅然として闘う決意、それは私がまだ娘の母親であるということなの。たとえ、娘が死んでも、私はまだあの娘の母親なのよ。法廷の過程で娘の死と人生をあんな風に軽く扱ってほしくはなかったの。 私が抱く怒りと娘のケースを立証するために闘うという決意、そして同じような境遇にいる人々のためにも闘い抜くという決断は、私を根本的に変えてしまったわ。表面的な人生が変わったのではなく、私そのものが変わったの。私はもう昔と同じ人間ではないのよ。だから私は困惑した時期を過ごしたのだと思う。以前のような人間ではない、何度も感じ、でも自分自身がどういう人間になるのかわからない。まるでもう一度子供に戻って違う角度から世界を理解しようとしているような感じよ。私は変わった、でも自分のことを考えないといけないし、自分のことは自分で気をつけないといけないわね。私は昔以上に繊細にもなってしまったから。とても強くなったと思えることもあるけれど、同時に以前にも増して不安定で傷つきやすいという側面もあるの。だから気をつけないとね、両方の面でね。
たくさんメディアにもでるようになったから。娘の事故のことだけでなく、他の家族の事故や現在起こっている問題に対して語ったり。でもそれは私のすべてではないのよ。見た目とは違って、とても傷つきやすい部分もあるのよ。

英国人の喪失体験の語り

ローズマリーはできるだけ早くふつうの生活を取り戻したいと思いましたが、決して前と同じ人間にはなれないのだと感じていました。

長い目で見て衝撃がどんなものか分からないでしょう。何人か年配の方が私に言ったのだけど、こうしてやっていくうちにきっと気付くでしょう、何年か経ったら影響が出てることが分かるでしょう、って。でも実際私の場合は違うと思います。どうしても日常には戻れなかったのです。だって、普段に戻るとは思えないし、それに、普段ってどういうことでしょう。でも、特に私みたいな人たちにはきっと出来るだけ早く普段の日常生活に戻る必要があると思ったので、私もそうしました。あの事件後、3週間じゃなかったわ、4週間経って、職場に戻ったと思います。何もしないでぼんやりしていたのです。実際は数週間か経ったそんな時に気付くんでしょうけど、私はそうでなかったのです。他の人たちが飽きてきたとか、私もやり過ぎたとかいうような気がしなかったのです。でも、しばらくしたら、少しずつそういう表情をしてくる人たちに気付きますよ。しばらくしてきたら、もうだれもその話はしたくなくなるのです。うちにいて他の人をうんざりさせるなんて私には考えられなかったし、そんな風にはしたくありませんでした。

結論的には、事件後何年か経って、過去何ヶ月か感情に変化がありましたか。

時間が経てば、もう二度と同じ自分には戻れないと気付きますよ、自分の人生のかなりの部分が奪われてしまったのですから。でも本当は、息子の人生の大半が奪われたのだとしみじみ思います。彼の経歴やそれこそ人生がこれからという時に、人生でも主要な決断を下そうとしていた時に、その機会が無くなってしまったのですから。あの子の方がここにいるべきだと思うことが、とても受け入れがたいです。彼に与えられた人生をあの子が享受すべきだったという思いがどうしても断ち切れません。息子にはあんな事故は起こるべきではなかったんです。もちろん、これは私が個人的な面で考えることで、政治的な面を考えることもありますけど、この事件については良い面を考えるようにしているので、私に関して言えば、奪われてしまったことについて考えるのです。

英国人の喪失体験の語り

デイヴの死から2年経った今もレイチェルは時折心がひりひりと痛み、日々の活動がどうでもいいものに感じられ、前に進むことができず、生きていくのが辛くてしかたがない。

私は思うんです・・・、もし娘がいなかったら、そのときは多分、今日のような会話をしていなかったでしょうね、気分が悪くて。でも、誰かがこう言うかもしれません、「時間がたてば、いつかはよくなり、現実に対処できるようになるよ」ってね。多分、少しは良くなるでしょうね、でも決して忘れることはないですよ。

もちろん、ないでしょうね。

だから、それは(私の気分が良くなったわけではなく)彼を失い、大きな時間を失ったことで私の人生が変わったというだけのことなんですよ。

家族のダイナミックスと言ったような意味では、どんな影響がありました?

そうですね・・・、私は熱心なゴルファーで、多分ゴルフ強迫症と言ってもいいくらいだったのです。でも、いまはそんな意欲はなくなりました。何かをするにしても、しないにしても、もはや意欲が全くなくなったのです。ほんとに外出することも余りなくなりました。

ゴルフとおっしゃいましたね?

ええ、ゴルフをしましたが、プレイしたり、しなかったりでした。もはや、日常的なことは重要ではありません。あちらでは、ずっとずっと大きなことがあって、以前ならほんとに重要と思われたことが、もはや重要ではなくなったのです。物事が、もはや重要ではなくなったのです。

それでは何か非常に大事なことがありますか?貴方にとって重要な事柄のなかで、優先順位が変わりましたか?

多くのことがもはや重要とは思われないのです。多くのことが、重要ではない、ただの事柄だと思うのです。

ということは、貴方の人生観をほんとに変えてしまったのですね。

ええ、非常にね、ほんとに変えてしまったのです。

将来のことをどう思いますか?

そうですね、もちろん前向きでなければいけない。私には娘がいます、ですから前向きの生き方を保たなければいけない、うまく行けば子供が生まれ、孫が生まれる。それは素晴らしいことです。でも、なぜか分かりませんが、おそらく、何かが少し変わったのです。死ぬことや、それに類したことを少しでも恐れるようになると、自分が死ぬことについては全然怖くないし、心配もしないのですが、何もかもが少し変なのです。

ということは、死に対する見方も変えてしまったのでしょうか?

そうです、あらゆることが、全てが変わってしまったのです。

そこのところをもう少し詳しく説明していただけませんか?

そうですね、感じていることだけを言うと、これは誰かが私に言ったことなんですが、いま仮に、神様が、24時間だけ生きる時間をくれたとします。
ええ、(生きるということは)素晴らしいことです。でも、デイヴに会えない。何が言いたいか分かりますか?全てが生々しくて、まだ非常に新しいことなんです、だからこうした考えは至極当然だと思っています。くじけずに、毎日を過ごし、気持ちを切り替えて行くことは、それほど容易なことではありません。2年も経ったのだから、そろそろ乗り越えてもよい頃だろうと、一部の人々が思うのは分かります。でも、踏ん切りをつけることができない、とてもとても難しいことなんです。

仕事を離れてどれくらい経ちます?

多分、まだ6~7週間くらいしか経っていません。でも、いまだに彼が亡くなった知らせを受けた下の階へは降りて行かないし、玄関にも行きません。あれ以来、そこへは行ったことがないのです。

英国人の喪失体験の語り

タムシンは弟がいてくれたらどんなにいいだろうと思っている。いつか自分1人で両親を見送らなくてはならない日がいつか訪れることが一番怖い。くると思うと彼女は非常に不安になりま

将来について何か考えていることはありますか?

そうですね。一番恐いことは、両親が互いに言葉も交わさない状態になっている中で、2人にとって頼れる人間はもう私しかいないということですね。それがとても辛いのですが、どうしようもありません。私は母に似ていて、弟は父にそっくりでした・・・。
弟は場の雰囲気を明るくするのが得意でした。私は何でも生真面目にとらえるほうなので、私の心配性な性格を弟が和らげてくれていたことに感謝していますし、亡くなってしまって、本当に寂しいです。
そうですね、特に祝日は、彼に携帯でメールしたいと思うことがしばしばあります。
なんだかんだ言って弟とは、色々な祭日を過ごしていましたので、私がタイに行ったときも、ある浜辺から「私はタ・イ・に・い・る・の・よ!。どう、うらやましいでしょう」なんて、冷やかしのメールを浜辺から送って、楽しんだものです。そういうふざけあいが懐かしいですね。陰気に聞こえるかもしれませんが、両親の死といつか向き合わないといけない、ということを考えると身震いしますね。
私のパートナーはとても協力的で、17年ほど一緒にいます。これからもずっと一緒にいたいとは思っていますが、やはり弟とは違いますよね。両親の関係についても理解していませんし、その関係に伴う感情、また苦労も理解してもらえないんですよね。
だから、弟の支えなしに、こういう家庭内のことに対処しなければいけないと思うと、本当に不安で仕方がありません。

英国人の喪失体験の語り

弟の死から6年経ったが、スザンナはいまだに悲しみを抱えている。時が過ぎても悲劇は変わらないし、悲しみがいつか終わるという考えは無意味だと感じている。

その後、不眠になったし、たとえ眠れても何ヶ月もの間、悪夢に悩まされました。生活を前に進めることや仕事に集中することはとても難しかったのです。他のことを考えることができるようになるまで、1年半以上という長い時間がかかりました。非常に困難な状況にあってどうしたらよいかわからない。弟が亡くなったという事実そしてそれに伴うトラウマによって性格が変わったと思います。それまでとは全く違う生活を送らなければなりませんでした。悲しみを抱えて生きるということは本当に本当に難しいことなんです。時間にこの傷は癒せないんです。(生活の)環境を変えることは役立つかもしれない。でも起こった悲劇を変えることは出来ない。まるで爆弾テロが起こったあの日から変わらないんです。違いは、あの時はまだ生きているかもしれないという一縷の望みがあったということ、それから今は体の不調に慣れてきたということ。違いはそれだけです。

今現在、あなた自身はどんな様子ですか?まとめていただけますか?

もう以前の日常生活には戻れないということを受け入れて、生きなければならないと思っています。私には今は3歳になる息子がいます。だから前に進まなければならない。ただいつまでも癒されることの無い悲しみと生きていかなければなりません。弟にとても会いたい。一人っ子になりたくありません。バリ島爆弾テロの遺族の多くは同じように感じています。彼ら自身もまた年をとり、その上必要以上に年老いてしまった両親や家族の面倒を残った彼らだけでみなければならない。私にはできなくても弟は両親を説得するすべを知ってました。今私は一人でそれをやらなければならない。容易なことではありません。
悲しみには終わりはありません。ただこの状況を受け入れ生き続けるだけです。「事故は起こった。悲しみにももう区切りがついた。」そんなことはとてもいえない。終わることは無いんです。悲しみと生きることを学ぶ。でも終わりはありません。たとえばもっと繰り返し起こることや、恋人と別れたときなど、悲しみにも終わりがあるなんてことを言うのは、気持の整理のために役立つかもしれません。でも、肉親をあんな悲惨な状況で亡くした私にとっては到底考えられません。私にとって、悲しみに終わりがあるなんてことは意味の無い慰めの言葉であって全く役に立たないんです。正直言うと、悲しみの幕を閉じて立ち直ることができたかと聞かれる度に苛立ちます。悲しみに終わりがあるなんて聞くだけで腹が立ちます。

英国人の喪失体験の語り

2006年、兄(弟)とともに飲酒運転の車に衝突されたことで、スティーヴンの人生はめちゃくちゃになった。彼は今も体に障害が残り、心にはポッカリと穴があいたままである。

この事故が、貴方の人生に及ぼした衝撃全般について、もう少し話して頂けませんか?

私の人生に壊滅的な影響を与えました。事故前に、私は社会的な活動も盛んに行ってました。私は車を持っていましたが、どこへでも専ら歩いて出かけていたのです。もちろん、余り遠くなければですが、歩くことが大好きでした。でも事故があってからは、足を使うことも手を使うことも半減しました。今では、床にしゃがむような単純な動作も、ひざまずくことさえもできなくなったのです。階段は横歩きで上り、家も自分向きに改造されました。階段リフトはありますが、もう少しは自立性を保とうと努力しています。でも、いまは病院の杖、エルボー・クラッチを使っています。そして、事故後は約10ヵ月間車いすを使用していました。

もちろんあなたご自身の怪我の影響は大変だったと思いますが、弟さんの死がご家族に与えた影響についても少し話していただけませんか?

あぁ、その影響ははかりしれないほどですよ。それは私たちが出会ったこともない体験で、心の準備もできておらず、全てを失い、自分たちの心の一部までなくしたみたいでした。つまり・・・、彼は死んだと分かっていながら、誰もそれを認めたくない。そこが重要なんです。当然ですけど、誰かを失った人だったら誰でもそう感じると思いますが、その人はまだここにいるんですよ。

当然ですね。

そして、別れが突然で、別れを告げたりする時間がないほど、一層それを難しくしているのです。彼の生命維持装置を外すとき、私はそこにいなかったのです、他の家族は彼のベッドの周りで「さよなら」が言えたのですが。

それは辛いことでしたね。

ええ。

英国人の喪失体験の語り

娘を2006年に自動車事故で亡くしたエリザベスは、生きていて楽しいことがあるだろうかと思っていました。彼女には他にも素晴らしい子供たちがいたのに、まず亡くなった娘のことを考え

(精神的な苦痛から)具合が悪くなることも絶対あると思います。悲しみのあまり死んでしまうこともあると思う。いまだによく思うんです。娘がもうこの世にいないのに、あんなひどいことがおこったのに、どうして私は毎朝起きて、世の中は何も変わらないのだろうって。

今後のことについてどうお感じになりますか?

そうですね・・・・また、心からうれしいと思うことがあるのだろうかと思います。私にはまだ他に素晴らしい2人の子供がいてこんなことを言うのは非常に申し訳ないのだけれど、こんな悲しいことが起こってしまうと、もう2度と心から、何も考えずに、楽しんだりすることはないと思います。以前は満ち足りていたと思います。今もマーニのことも含めて自分のいる環境をありがたいと思わなければいけないとは思います。
クリスマスカードにマーニの名前を(家族の一員として)書かないことは、とてもつらいです。あの子を裏切っているような気がして。だから時々(マーニの名前も)書きます。そんな些細なことでも容易ではないんです。たとえば私の母への誕生日カードにあの子の名前を書かないと、口には出しませんが、私の両親はとても悲しいと思います。あの年代は感情を表には出しませんから。