投稿者「dipex-j」のアーカイブ

英国人の喪失体験の語り

エイドリアンが亡くなったとき、ゴッドフリーは元の暮らしに戻ることはないだろうと思いました。彼ら夫妻は、今でもエイドリアンがいなくて寂しいと感じますが、何とか生活を立て直し

考えてみると、当たり前のことですが妻も私も息子も今までこの様な喪失を経験したことはなかったと思うのです。息子が亡くなったその時点におけるトラウマだと認識することが大事だと思うのです、つまり簡単に言ってしまえば、過去は乗り越えられる、そういうことに気付くのが大事ではないかと思うのです。エイドリアンの死後すぐに、人生はもう二度と同じにはならないといった感覚を持ちました。多くの点でそれはもうまったく違ったものになっています。ある場面では、決まって息子がいないことを特に寂しく思います。例えばクリスマスのように、家族がそろって顔を合わせる時など。その席にいる筈のメンバーがいないのに、それでも人生は続いていく。しかし、人生は再構築できるのです。そのように前向きな姿勢をとるということは、私たち夫婦にしてみればとても重要なことです。私たちのこれからの人生において、過去の悲劇によって人生に対して否定的な感情を持たないようにすることはとても重要であると心に決めたのです。そのためには、前向きな姿勢というのは確実に支えになり得ます。

英国人の喪失体験の語り

エイドリアンの死後、ゴッドフリーの友人や同僚たちはとても協力的だった。

ご親戚についてお伺いしたいのですが、何人かいらっしゃいますか?

おります。兄弟姉妹が5人おりまして、姉妹2人に兄弟3人です。親戚のなかで今回のようなことが起こったのは初めてでした。ですからあらためて申し上げますが、息子に起こったことを受け入れるということはとてもできませんでした。エイドリアンは親戚中から何をやっても上手くいく本当の野心家に見られていました。そんな彼が突然かき消されてしまい、それがいともたやすく起こり得たということは誰にとっても非常に苦しいものでした。

あなた自身は医師からのサポートを受けましたか?睡眠などの助けは必要でしたか?

ええ、はい。同僚がどう反応するかというのは非常に興味深いと思いますね。何せ私自身も事故当時は、地元で30年ほど総合診療医として勤めていましたから、沢山の人を知っていてました。あなたのおっしゃる地元の診療医というのは、もちろん、私のまわりには多くの診療医がいるわけですが、そうですね、私にとってかかりつけの診療医というのはいなかったけれども、いやしかし、ひとりだけいて。ただ、その医師と私は面識もなく、私自身が医療ケアの受け手という立場では彼のことを知りませんでした。
けれども、私の職場のパートナーたちには非常に助けられました。私に休暇をくれ、それはもちろん私が勤めた大学の同僚全員も然り。その中の1人であった、突然に年若くして亡くなった人物が寛大に支えてくれましてね。息子が亡くなって数日経ってその彼が我々の様子を伺いにきてくれまして。私たちがちゃんとやっているかどうか気にかけてくれていたんですね。彼のしてくれたことは本当に、本当に素晴らしかった。

当時、他の方々からは何らかの形で助けを受けられましたか?カウンセリングなどの勧めはありましたか?

まあ、もちろん私たちはたくさんの友人がいて、いろいろなことを彼らに頼ったと思います。彼らは私たちの周りに集り、支えてくれました。医療関係の同僚以外では、友人の助けや支えを頼りとしましたし、彼らの多くは支援の手を差し伸べてくれました。けれども、いわゆる正式な機関へ連絡をするような必要性はなかったと思います。

英国人の喪失体験の語り

ニーナは家族や友人達から大いに救われ励まされました。彼女は心理療法も受けましたが、時間の無駄だと判断しました。

事故の後、どこからの援助が一番役に立ちましたか?カウンセラーには…?あなたは入院されて身体的外傷・骨折等に関しては適切な治療を受けましたが、その一方で、心理的外傷、ストレス、それに死別したことへの思いに対する手助けは受けましたか?

私の家族や友人たちです。

はい。

認知行動療法と呼ばれているものを試しに行きましたが、無駄骨だったとわかりました。

そうだったのですか?

ええと、いえ、そうではなくて、私には友人たちや家族、素晴らしい息子と娘がいます、他の3人の子供たちは国外に住んでいます、特に娘は、もうそれはずっと、ほとんど毎日家にいてくれます。

それは素晴らしいですね。

息子はサフォークで医者をやっているのですが、それでも来られそうな時は本当に来てくれて、長い間本当に助かりました。

認知行動療法のセッション中、いったい何が起こったのですか?

まあ、向うはもう既にあなたが知っているような他愛ないことを言うだけです。

他愛ないことを…?

あなたが既に知っているようなことです。若しくは他愛ないことを喋らされると。

では何の助けにもならなかった?

ぜんぜん。助けになるとしたら1つだけ。夫を連れ戻してくれたなら、ということです。

実際に救いとはならなかったと?

まったく。

その治療によって、傷口がより広がってしまいましたか?

そんなことはなかったです。単に時間の無駄としか思えませんでした。腕のよい精神科医の時間の無駄でした。

英国人の喪失体験の語り

ティモシーが亡くなった後、マシューはサポートがほしいときは家族が自分を助けてくれるとわかっていました。彼は支援団体に加わりたいとも、専門家のカウンセリングも受けたいとも思いませんでした。

バリ爆発テロ被害者家族支援団体からのサポートはありましたか?(支援団体と)連絡をとっていないのですよね。

ええ、とってません。

そうですか。

傲慢に聞こえるかもしれないけれど、(支援団体に助けを求めて)カウンセリングや助けを受けた結果をみてきましたから。第一、個人的な意見ですが、このような被害にどのように対処するかというのはその人間の性格によって違うからです。だから私は支援団体の力を借りず、対処しました。後悔はしてません。人によっては(支援団体等からの)サポートが必要な人も確かにいるでしょう。私には支えてくれる大家族があります。必要であれば表裏に渡って家族の誰かがサポートしてくれると知っていたからです。

家族内でサポートしあったのですか?

その通りです。もちろんそのような家族がない人にとっては、一人ぼっちだったり、あまりにも怒りがコントロールできなかったり、そのような人にとっては支援団体によるサポートは役立つと思います。

英国人の喪失体験の語り

マシューが亡くなってからの一週間、タムシンは母と過ごしました。その後、タムシンの友人たちは弟の思い出話をじっくりと聞いてくれました。タムシンにとってはこれが良かったようです。

母と私はその一週間を共に過ごしました。私のパートナーは火曜日に仕事に戻りましたが、電話で私をサポートしてくれました。でも、なかなか助けになれていないと感じたらしく、父や母とたっぷり時間を過ごす方がいいと言われました。そして、男性特有なことなのか分からないのですが、父もしばらくいなくなりました。一方、母と私は絶えず一緒にいることの必要性を感じていました。それで、私は翌週の木曜日まで自宅に戻りませんでした。そして、たくさんの人々、特に弟の仕事仲間から沢山のお悔やみカードを受け取りました。警察が肉親以外の人間に身元確認をするために弟の仕事場を訪問していたため、彼が亡くなったことがみなに知られていたからです。もしかしたら、私たちが知る前から、彼らは知っていたのかもしれませんね。そして、もちろん私の友人も弟の死について知っていました。それから、私は家に戻ることにしました。

当時、他にサポートをしてもらっていた人はいますか?家族、パートナー、そして友人についてお聞きしましたが、専門家の助けを求められましたか?

いいえ、しませんでしたね。私はずっと弟ととても近い関係でした。13ヶ月しか年も離れていませんでしたしね。そして、私の両親の関係は、ちょっと普通とは違っていましてね(笑)。
その時期に、弟と私はお互いを支えあいました。だから、これほど親しいということもあると思います。
そして、私の友人、またパートナーもこのことを知っていました。もちろん両親もね。兄弟姉妹がいても、私と弟のように親しい関係にあるという人ばかりではないと思いますから、私にとって弟はどれだけ大きくて、大切な存在だったのか理解している友人に話した方が楽でしたね。

眠れない夜もあったようですね。医者で睡眠薬などはもらいましたか?

いいえ、もらいませんでした。何度かは、ナイトールなど、薬局で買える薬を使用しました。それと、自己処方で白ワインを飲みましたね(笑)。
それで、十分だったんです。そして、友人に話して、話して、話して・・・。これは大切でした。そして、友人もそれをさせてくれましたしね。
そして、私も努力しました。陰気にならないようにね。でも、私にとって話し相手がいるというのはとても大切なことでした。それと、弟の話をしている時は、誰かが、特に私自身が取り乱すことがないように、気を使いましたね、そうしながら、沢山おしゃべりしましたね。良い思い出について回想したりね。

英国人の喪失体験の語り

マイケルの同僚のなかには、彼の息子が亡くなった後、彼を避け距離を置くようになった人もいました。同僚は、彼と死について語ることをとても難しく感じていたようです。普段の状態に戻るまでに、3~4週間かかったと言います。

あなたが仕事に戻った時、同僚たちはどのように接してきて、どんな反応でした?

ほとんどの人が私を避けていました。なんて言ったらいいか、どのように振舞ったら良いかわからなかったからでしょう。仕事に戻った日に、上司が言ってくれました。“言うまでもないことだけれど、家に帰りたくなったら帰っていいし、それに私達に何かできることがあったらいつでも言って下さい“と。でも最初の一週間は大概の人が私のことを避けていました。でも、私でも同じことをしたと思います。家族を特に子供を亡くした親に話しかけるなんてとても難しいことだから。一週間たって、私が悲しみで使い物にならないわけでもなく、普通に仕事をこなしてるのをみて、だんだん話しかけてくるようになりました。それでも、息子の死には触れずに。“元気?”とか、“昨日の夜何とかのテレビ見た?”だとか、たわいもないおしゃべりです。

同僚たちに息子さんの事故について尋ねて欲しかったですか?

ええ、気にならなかったと思います。何人かは実際聞いてきましたし、彼らには私も話しました。裁判についてだとか、どうだったとか、裁判の結果に満足しているかとか。ただやはり大多数の人は私を避けていたと思います。私が廊下を歩いていると、違う廊下を選んだりトイレにいったりして(私のことを避けてました)。3-4週間はそんな様子でした。

英国人の喪失体験の語り

ドロシーは、トラウマ的な死別で大切な人を亡くしたことのない人たちとのつきあいは難しいと感じている。まるで自分が「平行する別世界」にでも居るような感じだと語る。

何だか外国語でも話している気がします。他の人とは、こんな経験をしたことのない人たちとは、話なんか出来ませんよ。もう我慢ならないんです。ゴルフのクラブのこととか、船のクルーズのこととか、これがいくらだとか、電気料金がどうだとか話している人にはとてもいらいらするんです。こんなことは雑多な日常茶飯事でしょ、そんなことしか気にならないなんて。そんな人たちには同情や共感なんて持てないんです。

そうですね。分かります。

それに、そんな人たちは私の人生に何が起こっているかなんて知りたくもないのですからね。疎遠になるんですよ。そうやって友人もかなり失ったんです。

そうでしたか。

ええ。特にある人とは、マークのことについて電話で話をして以来、一言も話していません。彼女とはもうお互いに何の連絡も取らなくなりました。悲しいです。

どうしてそんな風になったと思われますか?

何て言うのか、一種の感染病みたいだと他の人は思うのだと思います。きっとどう対処していいのか分からないのかもしれませんね。それとか、私自身が違う人になってしまったと思うのかもしれないし。もちろんもう同じ自分ではないですけど。自信のようなものを持って再スタートして、社会も何もかもうまくいっている時に突然、平行した別の世界に出くわした感じです。そこでは正義もまかり通らなくって、いろいろな理由で自分の子供たちを亡くしているし、それに、皆職場で殺されているのです。大切なのは、毎日誰かが殺されているということを意識していることだと思うのです。それはたとえば、朝起きた時に、いま自分たちがしていることをどこかの誰かが今日は経験するんだろうと考えるみたいなことです。ですから、真の世界が現実には分かれているのです。こちらの世界では、誰もが頑張りながら新車を買うとか何とか話していて、同時に、こちら側の世界では、人間の生命や正義への基本的権利を求めるキャンペーンを行なっているのです。

英国人の喪失体験の語り

パットは、英国の社会には嘆きの儀式がないことを残念に思っている。パットは、玄関のドアを黒い布で蔽い、泣き叫び、怒りを表したかったが、それは英国社会では受け入れられないだろうと感じた。

葬式のとき、軽い気持ちから、私が閉鎖的になるだろうと言ったり、そのようなことをほのめかした人たちがいました。なんて異常なことなんでしょう、ほんとに異常ですよ。
葬式こそが、私たちを閉鎖的な気持ちにするのです。おかしいですよ・・・、おかしいと言えば、世の中の何もかもが狂ってしまったかのように思えます。私から見れば、人々の反応や、何ごともなかったように、いつも通りの生活をする人たちのほうが、おかしく感じられます。
皆が幸せそうに暮らし、天気の話をしながら、買い物を続けていて、なぜこの世の中が止まらないのかが分からないのです。なぜ皆が喪服を着て通りを埋め尽くし、泣き叫んでいるなんて光景を見ないのか、私の記憶では、この国には嘆きの儀式がないのです。そのことが、本当に残念です。私たちは、喪服を着たり、家に閉じこもったり、嘆き叫ぶことをしません。このような伝統は何一つないのです。私は玄関のドアや窓を真っ黒な布で覆い、世界に向かって、「私の息子は死んでしまったのよ」と叫びたい思いでいっぱいでした。でも、こんなことできる訳がありません。このようなことは非常識で、全く受け入れられません。全てが順調で良好だという印象から外れた振る舞いは、禁じられていると言うメッセージが、私たちには日々、一貫して与えられているのだと思います。ですから、このメッセージが常に強化されて、怒りも悲しみも強引に押さえ込まれて、表現することも許されていない、悪いことなのだと・・・。

このような考えはどこから来たのでしょう?パットさんがいつもこのように感じるようになったのはなぜですか。

そうですね。きっと私たちの幼少期に両親や家族に迷惑がかかるから、怒りを表現してはいけない、と言われたところから始まったのでないかしら。怒りは日常の一部として受け入れられていません。怒りは邪魔者としか見られていないのです。人々が精神的に病み、精神病院に収容されていた時代はそう遠くありませんよね。社会的行動が取れない、とそういう判断をされてしまったからなのです。そして、その辺りの暗黙の了解が今でもあるのではないか、と思います。
いつかは私たちが、怒りを素直に表現し、人々がそのまま受け入れてくれる、そんな日がくるならば、それはすばらしい日となるでしょう。

英国人の喪失体験の語り

他の人に息子が亡くなったことについて話すと、逆にその人たちを慰めていたり、彼らの辛い経験を聞かされていると感じることがある。会ったばかりの人に息子のことを話すのは難しいと、ローズマリーは言う。

私の姉妹たちや兄弟、夫の親戚たちは、みんなとても気にかけてくれました。でも、こんな時にも不思議なもので、こんなに大勢親戚が揃うと、必ずそれぞれに大変だったり、今回の件でもっと打ちひしがれたりしている人がいるものです。特に初めの頃は、私のほうがその人たちを、友人でさえも慰めたりしていたのです。たとえば、私にはこんなことが起きたの。でも、みんなは耐えられないわよね。だから、代わって私が恐ろしい経験をみんなに話してあげる、みたいな気持ちです。とは言っても、私の姉妹たちはすばらしかったけれど。

息子さんのことをご家庭で話されますか。

はい、結構頻繁に話しています。誰だって自然と話してしまうものだと思うし、そうしたくなるでしょう。そんなに簡単には忘れられないでしょう。その人がしたことなんかを話したりして。そう、今なら息子のことも話せるわ。ほら、あの子時々こんなことをしたわね、なんて。とても健全だと思います。でも、今でも辛いのは、会ったばかりの人に息子のことを話さなければいけない時です。それは、その人たちがどんな反応をするのか分からないし、私自身が結構関わっていることだって、気になるのです。いま私はある慈善団体の理事に復帰しようとしていて、まだ皆には話してはいませんが、間もなくそうしなければならないのです。というのも、よくは分かりませんが、気の進まない事柄については、自分では意識して話さないようにしてきたのですが、ただ話題にならなかっただけなので、しかるべき機会をみて話してみようと思うのです。話題にするのは、必ずしも容易なことではないけれど、でも、実務的なことがありますからね。それにあなたが私に聞いた最初の質問、何人子供がいると答えますか、みたいな質問なんて、とても難しいですよ。

英国人の喪失体験の語り

ゴッドフリーは、息子エイドリアンについて、その喪失感を誰かに話したいと思っていましたが、ゴッドフリーの親友や同僚にとっては、それをゴッドフリーを語ることが非常に難しいと感

自分にとって、息子について語れる人たちがいてくれたのは良かった。私たちが気づいたことのひとつは、私たちが息子についていろいろ話したくとも、これは同僚からの質問を受けた際に気がついた、私にとって辛いことのひとつですが、同僚のうち何人かは私と話をすることも困難だったということです。もちろん、このような状況の中では、人によってそのような態度になることもあると私もわかってはいましたけれど。私の親友の何人かは事故について私と話すことができなかった。でも、きっと彼らにとっては話すのが辛すぎたのです。私は息子について話したかったけれど、彼らは話したくはなかった。他者の苦しみに対処する能力は、本当に人それぞれであるという点は興味深いです。

では、もしあなたが他の方々へつらい経験を語っていたとすれば、それは実際にあなたにとって有用であったと思われますか。

思いますとも。まったくその通りです。思い出すことができるというのは良いことです。相手にすれば確かに、痛ましい喪失を完全に無視して話すというのは痛みを伴うものです。やはり、人というのは辛い経験を話したいのだと気が付くべきです。多分ほとんどの人はそうでしょう。なかにはそうでない方もいる。それでも私はほとんどの人は話したがっている、辛い経験を機会あるごとに話したいのではないかと思うのです。