投稿者「dipex-j」のアーカイブ

乳がんの語り

子ども関係で役員をしていたので、迷惑をかけるかもしれない人たちには病気のことを伝えた。どこまで話すかは難しい問題だと思う

どこの範囲、どこまで親しい方に話すのかって本当に難しいですね。すごく親しい友達にはもちろん話してますし、「再発しちゃった」っていう話を親しい友達にしたときは、もう友達も「うそー」とか言って、すごいショック受けてましたし。心配掛けてしまっているなあとも、思うんですけれども、難しいですね、どこまで話すかっていうのは。
今、スポーツ少年団の保護者会とかでも、役員にもなっているんですけれども、その方たちにはこう迷惑を掛けたりするので、そういう自分が出ていけない場合に迷惑を掛ける方たちには話さなくちゃいけないなと思いますし。あとね、髪の毛が抜け始めたんで、今はかつらなんですが、いつもバンダナかぶってたり、帽子かぶってたり、部屋の中でも帽子をかぶってたりして、ちょっと不自然になることがあって、そういうときにチラッと話しちゃったり。あと、何のときだったかな、「実はがんなのよ」とか。居酒屋に行ったときだったかな、仲のいい友達と行ったときに、何か酔った勢いで言っちゃったみたいなのとか(笑)。
どこまで話すかっていうのは本当に難しいですね。だから、近所の人とかには話してないですね。必要がないと思いますので、何かこう私が治療に行っている間に迷惑を掛けるとか、私が出ていけないときに代わりに行ってもらいたいとか、そういう方たちには事情は話しますけれども、近所の方でそういうことを頼むことはないので、近所の方には話してないですし。友達とか、あと、小学校とかの、役員とかやったりとか、悩みますね、どこまで話すかというのはねー、ほんと考えてしまいます。

乳がんの語り

現在、再発治療で毎週病院に行っているが、小学生高学年と中学生の子どもたちにまだ病気のことは詳しく話してあげたことはない

――お子さんには、今はどういう形で伝えてらっしゃるんですか?

ええ、毎週病院に行ってますから、「じゃあ、お母さん、病院行ってくるね」って言って、もう病気のことで治療で、もう髪の毛も抜けちゃっているし、お金もかかって大変なんだっていう話をしているんですけれども、こうきちんと乳がんだから転移しているからっていうのは、実はちゃんと話してあげたことはないんですね。ただ、電話でがんセンターにかけたり、電話をかけたり、がんセンターとか、ほかの病院に治療の話を電話で話したりはしているのは聞いているんで、分かってはいると思うんですが、ちゃんと話したことがないです。

乳がんの語り

がんになるとお金がかかるということを、初発のときにはそれほど感じなかったが、再発後は月に8万円くらいかかっていて、将来の子供の学費が心配になる

がんになるとお金がかかるんだ、治療に大変になるんだっていうのは、保険会社のコマーシャルとかでよく見ますけど、去年までは、それは感じたことがなかったんですね。ええ、最初の治療のときとか、今まで、去年までは感じたことがなかったんですが、再発が分かって、再発の検査、それから再発の治療が始まってから、月8万円ですとか、それから、放射線治療するたびに1万円、2万円って、毎日こう払って、放射線毎日でしたから、本当に治療費のことは大変です、はい。
「いつまで治療を続ければいいんですか?」っていうふうに聞いたときに、大学病院の先生が、「あの、終わりがないです」って言われたときに、やっぱり(笑)かなりショックでしたね。いや、死ぬまで治療するんだっていうのが、やはり、実質そういう治療になっていくんだと思いますけれども、やはり再発したら治療に終わりがないっていうのはショックでしたね。
そして、終わりがないっていうことに加えて、あの、毎月それだけの出費をこれからもずうっと続けていくんだっていうことで、不安になりますね。で、お金のことも不安になった。まあ「抗がん剤をいつまで続けるんですか」っていうことは、先日お聞きしたときも、「取りあえず再発してから1年間で。1年間取りあえずやりましょう」っていうことで、抗がん剤が1年間終われば、まあその分の治療費は少し少なくなるのかなと思うんですが、これから先、子どもの学費とかのことが、とても心配になります。

乳がんの語り

卵巣転移があり、腹水が貯まっていて、どこまで切除するかはお腹を開けてみないとわからないと言われた

 検査の結果、卵巣にどうも腫瘍が、特に左の卵巣がひどい。で、腹水も貯まっているということで、手術ということに。詳しいことは超音波では分かることが限界があるみたいで、いくら検査しても詳しいことはやはりおなかを開いてみないと分からないということで、だいぶ検査をしたんですが、結局「手術をして開けてみて、その時点で、どこまで切除するかというのを決めましょう」ということで、手術の前にいろいろ説明を受けました。「卵巣は両方取ることになると思います。子宮を取るか取らないかは開けてみた時点で決めます」ということで、あとは、「どこがどの程度、おなかで転移しているかは開けてみないと分からないので、その開けた時点で決めます」ということで、サイン…手術の同意書に同意しました。
で、手術をしたのが去年の11月ですね。あ、10月ですね、手術をしました。手術は結局両方の卵巣を取りまして、それから腸の周りを包んでいる大網(たいもう)という部分にもこう転々と播種(はしゅ)があったようなんですね。なので、大網と言われている部分、臓器を全部取りました。切除しました。それと、子宮は残したんですが、あと、腸の一部分にも転移があったんですね。手術前に、人工肛門になるのだけは絶対嫌だから、腸は切らないでほしいというような話はしていましたので、腸の部分に転移が残ってるっていうのはそのままで。ですから、卵巣を取って、大網を取ったところまでで切除の手術は終わりました、大学病院で。はい。
術後、つらかったですね。おなかの手術っていうのは初めてしたんですが、帝王切開のときとは、また別にこう全部、(どこまで転移しているか診る)検査のために腸とか、内臓を全部出されたのかなと思うんですが、全部検査のために、全部内臓を診ましたとおっしゃってましたので。だいぶ、手術後、腸が痛かったのはつらかったです。

乳がんの語り

手術して11年目、しくしくと胸の上のほうの骨に痛みを感じたが、転移だと認めたくなくて、なかなか受診できなかった。PETで胸骨と卵巣に転移が見つかった

無事に1年たち、2年たち、不安は大体薄れていきましたね。だんだん病院に行く回数も少なくなって、もう10年経ったときに、おなかにいた子どもが10歳のお誕生日に、あ、10年経ったということで、うん、もうだいぶホッとしましたね。10年経って、良かったなと思っているうちに、11年目のときに実家の母が肺がんが見つかりまして、母はとっても初期に見つかったので、レントゲンのときに1センチぐらいの腫瘍が見つかりまして、肺を部分的に切除する手術をしたんですが、母の場合、抗がん剤とかしないで済みましたので、その母に付き添って検査ですとか、入院ですとか、お見舞ですとか行っているうちに、私、ここ(胸の上の骨)のところが何かちょっとシクシク痛かったのを、なるべく実は考えないようにしてたっていうのがあるんですね。こう骨が痛いっていうのは、もう再発…転移だなっていうのはもうすぐに感じますけれども、なるべく転移だというのは考えたくなくて、認めたくなくて。でも、母が肺がんになりまして、付き添ったりなんかしているうちに、やっぱり私も病院に行かなくちゃいけないわよねと思いまして、はい、母が肺がんになったきっかけもあって、その自宅の近くの、もう何年も行ってなかった病院に行くことにしました。それが去年の9月でした。(病院に)行ったときに、もう先生が一目診て、「ここ、こんなにボッコリ出ちゃっているじゃないの。何で、もっと早く来なかったの?」って言われたんですが、行きたくなかったんですよね。認めたくなくて。再発したっていうのを自分でこう、「再発したらもう死ぬまで治療するんだよ」とか、「治療は終わらないんだよ」とか、そういうのを聞いて分かってましたから、再発したって認めたくなくて。シクシクここ(胸の上)のところが痛くなっていたんですが、行きたくなくて、認めたくなかったんですね。でも、まあ母が肺がんになったというきっかけもありまして、私も去年の9月に行って、「もっと早く来ればいいのに」なんて先生に言われました。
で、やっぱり骨に転移してたんですね。こうここの部分が出ちゃってたんです、ボコンと。それで、治療が始まりました。まず、最初にPET検査を都内まで行ってPET検査受けましたら、ここの転移もオレンジ色に検査の結果が出るんですけれども、あと、骨盤の中もオレンジ色に真っ赤っかになってしまっていたんですね。で、おなかの中(卵巣)にも転移しているということで、その通っていた(近くの)病院っていうのが放射線治療の設備がありませんでしたので、まず、ここ(胸骨上部)の放射線の治療をするために、その病院から大きな病院に紹介されて転院をすることになりました。

乳がんの語り

骨転移に対し自宅に近いがんセンターでの放射線照射を希望したものの、とても混んでいたので、遠方の大学病院まで通うことになったが、毎日遠足気分で楽しく通院できた

それで、その(自宅近くの)病院で、放射線治療をするときに、その設備がないから、大学病院に転院を勧められたんですが、その大学病院がとても遠いものですから、もっと近くにがんセンターがあるんですね。で、がんセンターのほうに転院したくって、カルテとかたくさん持って、紹介状書いていただいて、がんセンターのほうに行ったんですが、がんセンターのほう、患者さんがとにかくたくさんいて、「放射線にしても、手術にしても、すぐはできない」って言われてしまったんですね。で、1ヶ月半か、もっと2ヶ月とか待つことになりますけれども、だから、待つって言われたら、治療は何もできない。
で、ただ、待つだけなんですけれども、「それでもいいならがんセンターで受け入れますよ」って言われたんですが。
もう今すぐにでもここの、転移のところ治療を始めたかったのに、1ヶ月半か、2ヶ月待つなんていうのは、もうとても考えられませんでしたから、本当はがんセンターのほうが近かったんですが、そこあきらめまして。遠かったんですが、大学病院のほうで放射線をやっていただくことにしました。遠かったんですけれども、元気でしたので、どこにも体の痛いところは、具合の悪いところはありませんでしたから。ただ、ここが骨がシクシク痛むような感じがあって、痛みがあって、やっぱり不安も大きくなりますから、それぐらいでしたので、まあ遠かったですけれども、帰りにお買い物したり、いろんな知らないお店をのぞいたりして、お買い物気分で何か毎回遠足気分で楽しく通院してましたね(笑)、放射線は。

乳がんの語り

温泉に入るときは乳房切除後の傷を隠せるような肌色の生地でできた専用のカバーをつけている

で、温泉とかには、あの、母とか、おばとかとは平気で入っています。主人のほうには、そうですね、やっぱ主人は目を背ける感じになっているんだと思いますね。ただ、女性同士のほうは温泉とかは、今、「バスタイムカバー」っていうのがありまして、ストッキングみたいな肌色の生地で、こう切除した胸のところをこう隠せるようなカバーみたいなのが温泉専用のカバーとかいうのを買いまして、ええ、それで、あの、おばとかと母とかと、温泉とかには普通に行って入っています。

乳がんの語り

妊娠中に硬く嫌な感じのしこりを見つけ、直観的にがんだと思って一晩泣き明かした

しこりを見つけたのは、妊娠の定期検診の前の夜に実家に泊まっておりまして、やっぱりすごく暑かったんですね。で、暑くて、こうフッと触れたときに、自分でしこりが分かりました。で、しこりは、えっと、結局3.5センチの直径がありまして、硬くって、すごく嫌な感じがして、もう触ったそのときに、「あ、これはがんだろうな」っていうのがなぜか直感的に分かりました。で、もうその晩は何だか朝まで結局泣き明かしっていう感じで、まだ検査も診断も何もついてなかったんですが、なぜか触った時点で、この硬くて嫌な感じっていうので、「あ、これはがんだな」って、なぜか分かりまして。で、翌日、えー、産婦人科の先生に診てもらったら、やはり結果としてもそれでしたね、がんということで、はい。で、それからいろいろ検査したんですが、はい。自分で見つけた感じですね、なぜだか不思議に分かりましたねえ。

乳がんの語り

人によっては男性に打ち明けづらいと言うが、自分にとって乳がんは自分の生き方と一体であるので、切り離せないものだと思っている

聞いた話ですけども、私の友だちとかも、同じような、友だちの友だちとかも、同じ病気で、それと女性として自信を失ったとか、男性に会うのも辛いとかって話を聞いたんですけども。私の場合は確かにそういうことを例えば好きな人に打ち明けるというのも、すごく勇気がある、勇気がいると思うんですけども。私の場合は自分の生き方にも関わってきてることなんで、私が、何て言うの、好きな人に対して自分の病気を打ち明けるっていうより、自分の生き方としてこういう、乳がんの啓発っていうか、患者さんのために、役立ちたいという思いで、手帳を作っているとかっていうことを話すことは、イコール私自身を喋ることなんで。そんなに抵抗はないって言ったら変ですけども、抵抗は後付けっていうんですけども(笑)、自分の生き方を先に言って、そこにくっ付いているものっていうか、それは切り離せないもの、で、イコール一体っていう感じですかね。だから普通の方よりちょっと違うかもしれませんね。乳がんそのものになっちゃってるみたいな感じですね。

乳がんの語り

デザイナーとして仕事をしてきたが、病気になったことをきっかけに、1年くらいかけて自分を見つめ直して、本当に向かいたい道は乳がんの啓発活動だと気づいた

今まで、デザイナーでずっとお仕事をしてきてまして、まあ病気になって、あ、同じことを続けなければいけないっていうか、続けるのかな、と思ったときに、もう素直にもうそれは嫌だと思ったんですね。確かに自分が好きでこのデザインの仕事をやって、いろいろな企業さんの広告とかデザインとか、本当にそれは好きでやってるんですけども、同じことは嫌だ、とにかく同じことは嫌だと思って。そのときじゃあ自分が、本当の自分は何をしたいんだろうかって思って、自分を見つめ直した1年ぐらいが一番精神的にしんどかったんですけども。
そこでようやく見つけ出したのが、ほんとに自分はものを作るのが好きだということで、それは変わらない。だけど、今までの仕事とはまあ違うような、違うことをやりたい。で、何なのかなって言った場合に、今もペットがたくさん飼われてますけども、あの、大事にされてないペットもいたりして、その子たちを助けるようなことはできないかなと思って、ずっと言ってたんですけども。すでに、私より先にそういう活動をされている方がいらっしゃって、そこのワーキングセミナーっていうか、そういうところに行ったときに、ふと思ったんですね。私はここで何をしてるんやろ、確かに自分の好きな、動物のことは大切だし、何とかしてあげたいと思うけど、そんなことよりまず自分のことやろうと思ったんですね。
自分が本当にやりたいことを見つけるまでに1年ぐらいかかりました。やりたいことっていうのはイコール自分の一番避けたい部分でもあったんで、乳がんの活動っていうのに辿り着くまで、やっぱ1年ぐらいかかりました。その手前で動物の病気とかっていうところまでは辿り着いたんですけども、そこからはちょっと実は本当は自分が何をやりたいかっていうのを見ていくまでに1年近くかかって、動物の病気、ペットの病気っていうところまで来て、で、乳がん。ようやく自分が本当にやりたいっていうか、向かいたい道っていうのが見つかりました。