投稿者「dipex-j」のアーカイブ

前立腺がんの語り

末期がんの友人を「死の覚悟が出来ている」と評した人に怒りを覚えた。覚悟という言葉は、もがいて生きようとする姿勢に用いられるべきだと思う

実は、正直言って、わたしの友人がですね、それこそ、別な末期がんになっていた人がいるんですよ。どうしてもその人と重ねてしまうとかね。精神的には、そういうことのほうがずっとつらかったですねえ。結局、彼は、同じ年のわたしよりも、半年前に告知を受けて、1年半…半後にはもう亡くなったんですけど。…うん、それがつらかったですねえ。うん、自分と重ね合わせるわけですよ、当然。いずれ、わたしもということも含めて。あの、よく話して、その死に対する考え方、死に対する覚悟のようなことが、えー、まことしやかに、わたしは本人と話したとき実際そういう話はしません。死に対するどう、どうだこうだっていうのは。もっと前向きに対処する方法。先生と、どたな話しているんだ、どんな話して治療に向かっているんだぐらいのあれなんだけど。ほかのこころもとない、彼の周りの友人は、その「覚悟ができている」とか何とかみたいな話までどうもしていたようですけども。わたしはそこで、あの、すごい怒りを覚えたですね。
つまり、死なんて、覚悟しなくてもですね、いずれ訪れるっていうのがわたしのあれなんですけども。やっぱり、覚悟っていう言葉使うんならば、いやむしろ、治療っていうか、むしろ、何にして、どう対処したら、対応していったらいいかっていう覚悟をね、覚悟って同じ言葉使うなら、そっちのほうに使ってほしい、使うべきだって。こんなのは、詭弁かもしれません、ある意味。死を目前にした人間からすると。わたしが言っているなんか、あの、詭弁かもしれませんけども。そうじゃなくて、もうだから、ある意味開きなおりの部分も必要だろうけども。覚悟するならば、もっと、もっと別なものに対する覚悟っていうのも、もがいても、おれはこういうものをやってやるぞ。つまり、同じ、こういう言葉がいいか悪いか分かんないですけども、その友人に対する冒涜(ぼうとく)になるかもしれませんけれども、同じ状況にわたしもなるとしたらですね、もがいてもがいて、そして、何かのためにというか、何、誰かが、わたしのこの大変ていうか、あの、苦しんだ部分をいかしてほしいとか。もう、大学っていうか、専門のね先生方をこういうふうに言うけれども、実際はそうじゃねえんだぞと。国のほうでは、こんなことに取り組んで一生懸命やっているんだけれど、そうじゃねえんだぞと。われわれは、普通の人間は、病いにかかるとこうなんだぞと…とかね、やっぱり、その非痛な叫びをですね、何かの方法で伝える方法ないのかなということは、告知されて1年経って、えー、IMRTという治療を受けて、それでも、再燃したという、PSAがまた再び上がってきたというときから、あー、そういうふうな考えにわたしはなりましたね。という時期がですね、実は、友人が亡くなった時期なんですよ。

前立腺がんの語り

がんと言われたとき「平均寿命に近いし、ここまで生きれば仕方ない」と思う一方、「がんで死ぬのだけは嫌だ」という気持ちが最初に浮かんだ(テキストのみ)

で、まあ、ここで初めて、がんっていうのが、ま、この生検によって、決定されたわけなんですけれども。ま、ほんとにそのときには、あのー、いや、これで、ほんとに、自分の人生も終わりに近づいたな、というような、まあ、気持ちだったです。
それで、ただ、まあ、平均寿命が、まで、ま、大体、平均寿命に近いところまで、まあ、生きてきたんで、まあ、これだけ生きれば仕方がないかというような思いもあったりしてですね。で、ただ、まあ、やはり、頭ん中で一番浮かんだのは、がんっていうのは死ぬ、がんっていうのは、あの、非常に苦しむというようなことを聞いていますんでね。で、その、死ぬる、がんで死ぬだけは嫌だと思ったんで。ま、何とか、その楽にね、死にを迎えることができないか。もう、早くもそこで、そういう気持ちが、まず、頭の中に、あのー、最初に浮かびました。
で、ま、とにかく、がんっていうのは、そのものがよく分からなかったんですね。こりゃ、何としてもがんを、まず、分からなくちゃいけないと思いましてですね。それで、まあ、図書館へ行って、あのー、がんに関係する本を全部借りてきたんですけど。ちょうど、5冊ぐらいありましてね、それ、全部読みました。で、また、インターネットも、あのー、見ましてですね。まあ、いろんな、あの、いろんな知識を、ま、ある程度知ることができたんですけども。……それで、その中で、まあ、特に、あの、どんな検査やるのかとか、あるいは、検査のやり方ですとか、それから、その検査は痛くねえかとか。あるいは、手術、手術は痛くないとか。手順とか。ま、そういうものを、まず、どんなことをやるんだろうって、ま、知りたいなということで。それで、その、いろんな本からそういうことは知ることができたわけです。それから、その本の中では、早期発見すればですね、で、治療すれば、がんは死なないということが、この、いろんな本の中から知ることができまして。えー、ま、そこで、がん、そんなに恐れることないなというふうなことでね、ま、えー、初めてそこで安心したわけなんですけど。まあ、これで、がんと向き合って、とにかく、家で、家で闘おうという、ま、気持ちになったわけですね。

前立腺がんの語り

最後に残された時間で大事なことをしなくてはと思うのだが、限られていると分かったところで、特別なことは出来ない。自暴自棄になる気持ちもある(音声のみ)

 今日常の仕事、「こんなことしててええんかな」っていうのはすごく思ってまして、「もっと最後に残された時間で、大事なことをしないといけないんちゃうかな」とか思いますが、一方でですね、「まあ、くだらない、つまらない毎日の日常が終わるとき…が続いて、最後、死ぬしかないねんな」と。あと、「限られてるって分かったところで、そこで特別なことはできない。それをやろうと思うと、何かおかしくなるかな」とかですね。その辺は、もうちょっと考え… まあ、ある種、自暴自棄になるっていう気持ちも、割とあるんですよね。分かるっていうか、病気を苦にして自殺する。若いころは意味が分からなかったんですよね。あるいは、死が迫ってるから自殺するとかですね、いうこともあるし。

前立腺がんの語り

死への慣れを作るために自分で戒名を作り、火葬場の見学にも行った。地獄の蓋の材質まで研究していれば怖くないし、長生きできると思う(テキストのみ)

それからね、うーん、「死を、もしかのときに対して準備をしなさい」と。準備をしなさいって、私は何かもう戒名を自分でつくっちゃったんだから。これは、こんなことを言ったら、お坊さんからしかられたらいけんけど。お坊さんの人も、この、もしできたものを見ちゃったら、私のとこにクレームが来るかもしれませんけども。お坊さんに、まあお坊さんだっていいことしてんだけどね。自分で、つくった戒名ぐらい認めてください。そら、お金出したら認めてやるというかもしれませんけどね。お金を出さないで認めてほしいんだ。
それからね、うーん、もう一つ、あれはね、えーと、死の準備と、あのう、死の、あの、死に対する訓練、慣れやね、慣れ。死に対する準備と慣れ。で、死に対する準備は、私はもう火葬場まで見学行ってますからね。だから、火葬場の隣に併設している斎場、これもカタログを持ってきて、今、持ってます。ここで見せようと思えば見せられます。だから、そこまでやってりゃね、地獄のふたの材質まで研究してりゃね、地獄まで行ったって、あまり怖くないでしょう、多分。ね、地獄のふたの中に入れられたら怖いかもしれませんよ。そら、ぐらぐら煮られたら、五右衛門じゃないけども。五右衛門になる手前のとこまで怖いと思っちゃいけないんですよ。うん。そしたら、長く生きられます。

前立腺がんの語り

余命半年といわれ、教員時代の手帳を処分した。過去を整理し、足跡を消すような作業をしているときには、何を見ても「生きる価値」を感じたものだ

私は教員をやっていたんですけども、一番、教員が大事にしてた閻魔帳、教務手帳っていうのがあるんですよね。まあ、生徒はみんな、閻魔帳と言っていましたが、その閻魔帳には、一人ひとりの、成績が全部載ってる。えー、性格も載ってる。で、一番最後に、えー、学籍簿にいろんなことを書かなくちゃいけない。その、まあ、準備段階で、いろんなことを、その、書き込んでいました。これだけは生徒に見せたくない。絶対これは、もう私だけの秘密事項だから、誰にも見せたくない。で、これは何とか始末しよう。で、昭和22年に中学に勤めたので、えー、それから30冊の教務手帳を、この家の前の狭い庭で、えー、火をつけて、たき火をして、燃しました。こう1ページこう見ながらね、「ああ、こういう生徒もいたっけなー」「あ、こういう生徒もいたな。手を焼いたなー」なんて思いながらね、1枚破って、いろいろ思い出にふけりながら、えー、焼きました。
で、ちょうど、うーん、海岸べりを、パタパタパタパタ、裸足で歩いている、あの渚に跡付いた自分の足跡を、次の波がどぶーんと来て、あの、足跡を消すように、今、自分の生きてきた過去を、「ああ、これで全部消えるな」という感じですよね。で、もちろん、まあ泣かなかったけど、心では泣いてましたね。で、写真も、いろんな思い出の写真もありましたが、それも整理をしました。
そのうちに、余命半年っていうのが、2ヶ月経っても、3ヶ月経っても、弱る気配がない。これはあと2~3ヶ月持つな。あと1ヶ月持つなというのが分かって、整理するのがだんだん鈍って、いまだに写真は整理終わらないで、元のまんまになってしまいました。
でも、そのときの、こう、感じっていうのは、うーーん、何でしょうね。この木の色、うーん、まあ、モミジなら赤、あの若葉の青、そういうの見ているだけで、「ああ、人間っていうのは生きる価値があるな」。うーん、「柳は緑、花は紅」っていう、まあ、有名なことわざがありますけれども、えー、柳は一生懸命に、誰と競争することもなしに青。うーん、花は誰に、見る人がいなくとも赤。それぞれ、自分の一生をこう終わるわけなんだけど、「ああ、この緑、この赤、この空の色、これを見てるだけで、生きる価値があるな」と思いながら、えー、写真の整理をしたり、教務手帳を破ったり、そういうことをしながら、えー、まあ、半年を過ぎたということですね。まあ、そういうことです。はい。

前立腺がんの語り

がんが一生治らないのなら、「お迎えが来るのだったらいつでも来てくれ」という心構えで、病院に行くついでに百貨店に行き、楽しみを見つけるようにしている

体そのものはどうもないけどな、前立腺に関してさ。どこがどうある、ここがこうあるいうような感じはないんやけど。ま、先生が見たら、どういうふうに言うかわからんけど、私自身は全然気にもしてないしね、ただ治らんの…治らんもんやという感覚だけで、こないだのテレビ見てね、あのこれはこう、もう一生、あの先生はあんなに言うたけども、やっぱ一生治らんのやわいうて。そそ、それならそれなりの、自分のやり方があるわというような感じがしてっからさ。

―― そうするとその前立腺がんにかかって一生治らんわというふうなのがあって、それによってこうご自身の今後の人生設計というか、こう方向がちょっと変わったというようなのはありますか。

いえ、全然ね、そんなことない。うん。

―― うん、それならそれでやりようがあるわっていうのは、どういうことなんですかね。

うん、もう結局、お迎えが来るんやったらいつでも来てくれ(笑)、ほうでその病院に行くのも、いつ行くかねえ、来いちゅうんやから、その日に行ったら気晴らしにもなるわってこうやって。金はいち、1万なんぼかか、かかるけどね。1回行ったらね、やっぱし2万近くかかんねやな。ぽっと百貨店なんかに入るでしょ、まず私が見に行くのは時計(笑)。時計とか靴。そんで着物は、身に着ける品物はこのごろ、あの、私らが着るようなもの置いてないからな、ほとんど若いもん向きでしょう。着る品物は。こんなん私が着たって似合わんわなって、自分で解釈して、そんなに目はないけどな(笑)、時計と靴には魅力はあんねん。うん。

前立腺がんの語り

末期がんであっても、捨てたものじゃない。幸せになる種はたくさんある。気持ちを切り替えることが大切だと思う

 あの、ガンになって、まあ特に末期だったらね、とてもつらい思いをされる方がいるかも分かんないけども。うん、捨てたもんじゃなくて、幸せになる種もいっぱいありますので、まあ幸せ探しをしたらいいですよ。ガンになって、何か、何か変わったことあるかって。うん、いいこと絶対見つかりますので、そのことに目を向けたら幸せになれて。で、嫌なことは、まあ見ないようにするっていうか、まあそのことを考えるよりね、気持ちを切り替えるっていうことが大切ですよね。ぜひ、そういう、あの、切り替えるお気持ちを持っていただけたら、役に立つんじゃないかなというふうに思います。

前立腺がんの語り

和尚様に「死にたくない」と訴えた。「今は底。頭の中でこねくり回さず、気持ちを預けて信じることで光が見える」とヒントをもらい、少しずつ元に戻ってきた

これはもう、お年が、和尚さんが八十幾つで、かなり、かなりってもむちゃくちゃ高齢の方なんですが、いまだに冬でも夏でも水ごりをして、それから山で修行されたりということなんですけども。おー、まあ、そこに、えー、最初、お訪ねして。まあ、ここからちょっと離れてますけれども。とにかく自分の気持ちを、そのー、友達が「全部そこで言え」と。「話、出せ」ということで。で、私も、それこそ、あのー、男泣きに泣きながら、「実は私、死にたくないんです」と。うーん、「助かりたい。でももう、うーん、どうもいかん」というふうな、もうさっきの、あのー、渦巻きの底ですな。
 で、そのときに、えー、和尚さんが言わっしゃったんは、「うーん、まあ、今、底やから、まあ、何とかぽんと付けて頑張らんかね。それとあなた、いろんなところからこう知識を、本なり、えー、今ならネットがあるし、自分で自分の知識をずーっと、自分の脳みそん中で、頭ん中でこうして、こねくり回して、行き着くところは“もう駄目や”というふうな。それは、それから先、どこにも出ていかんし」。もう……。要するに、おれごとき人間がやってみても必ず平面でしか走っていかんと。何でかっちったら、気持ちを預ける。気持ちをそれで、それを信じること。それによって、水平の方向に、まあ、例えていうとね。水平やない、垂直ですな。「水平方向が垂直の形になっていって、必ず光が見えてくるんや」と。
 で、ちょうど、あのー、いうなれば大学のゼミやら、えー、その辺の、あのー、物知りの、えー、おっさんっちゅうたらばちが当たるけども、じいちゃんの、おー、自分の身内の遠縁の人とか、えー、自分の親とか、話をこう、ざっくばらんに話を言うて聞かしてもろうて、アドバイスをもらうじゃないですか。ああいう感じのやり取りで。うーん、これはまあ、「水晶玉なんぼや、器がなんぼ、この壷がなんぼ、これ買わんかい」っちゅうような、こうさらさらそんなもんじゃありまへん。
 で、そういうふうな形で話をして、聞いていただいて、で、「こうだよ」というヒントをいただいて。そうこうするうちに、まあ、もちろん、あのー、友人のほうからもアドバイス受けたり何かしながら、今までこうなっとったんが、少しずつ少しずつ、うーん、元に戻ってきたというような。

前立腺がんの語り

言葉や知識ではなく、般若心経を唱え、その響き合いに身をおいたり、支え合いに気づいたりすることが、がんになった後のうつからの回復には必要だった

やっぱりがん患者になると、自分は、自分の親との関係、それから、自分と子どもとの関係、えー、あの、連れ合いとの関係なんかに対するね、罪意識を持つように思うんですよ。だから、今の話は、まあ本当に分析っていうか、あ、倫理的っていうか、何というか、哲学的っていうか、分析のしようもないような、こう実存の不思議さっていうところに誘い込まれるんですね。そう僕はやっぱり思ってまして。それなら、何かやっぱり僕にだって何かできないわけはないって思っているんですね。何かこう、何ていうのかな。共に生きさせてもらうっていうか、そういう共鳴感覚みたいなところに、こう一緒に入れば。うーん。
で、あのね、『良寛さんのうた』の中にですね。うん、「形見とて、何残すらむ」かな。形見とて何残すらん。「何か残さん」でもいいですけども、どっちかですね。「形見とて何か残さん春は花 夏、えー、夏ほととぎすうん。秋はもみじ葉」っていうのがあるんですね。僕は良寛の復活感覚だと思ってんですよ。だから、良寛の共鳴感覚、振動感覚っていうか、さっきのひびき感覚みたいのは。あのう、形見っていうのは何なんでしょうね。よく分かんないけど。形見って、なかなかいろんな含みを持っていて面白いでしょう。えー、そ、そんなふうな思いがあるんですね。だから、良寛の中にある、こう再生問題っていうのは、死と再生の問題っていうか、復活感覚みたいのは、非常にうまく出ているなって思いますね。
あのう、何、何っていうのかよく分かんないんだけど。まあだから、結局自分が死んだときに、極楽往生とか、何とかっていうようなレベルではどうにもならないっていうか。うーん、やっぱり、えー、何かこう支え合いの中で生きるというところに気が付けば、うつ状態は抜けられないわけではない。分かりませんよ。理論的には、何も僕は分かんないんですけども。しかし、それを、それを揺り動かすのは生きた人間しかない。えー、何かこう知識では駄目だし。えー、だから、共に、共にどうすりゃいいんでしょうかね。えー、共に唱えるかな。あー、共にこう唱えるとか、ずっといれば、何か出口、どっかで来るよってな感じなんですな。言葉で言ったってね、しょうがないです。
私の場合には、その個人的には般若心経ですけど。それから、人と一緒にその響きをつくる。こだま、こだまの中に一緒に入るとでもいうか、それの具体的なものは、実は体を動かす。体が体を動かす、みんなと一緒に動かす。スポーツをやることなんかもいいんじゃないかなと僕は思いますね。

前立腺がんの語り

手術そのものはうまく行ったが、スピリチュアルな痛みと向き合う中でうつ状態になった。40日間の山ごもりと般若心経を13ヶ月間唱え続けることで回復できた

まあその前立腺の手術そのものは大変うまくいきまして、尿管(尿道)をつなぐとか、それから、まあ回りの括約筋。まあ尿はほとんど失禁状態に初めなりますけれども、もうそれもまあある程度回復してきます。一生懸命訓練をするんですけれども。でも、その精神的な問題はそう簡単ではありませんで。まあ体の問題は、あの、今(言った)、その癒着の問題もあって難しいんですけれども、それほど…ひどいとは、自分ではそう思わなかったんですが、やっぱり精神的な落ち込みのほうがひどい。心身がこう、相関ということがありますので、まあ精神的なつらさっていうのが、また、体に反映をいたしまして、まあそこで随分こう痛みの問題といいますか…。えー、肉体的な痛みだけではなくて、まあ社会的な仕事がやっていけなくなるだろうというプレッシャーとかですね、そういうストレスから、まあ、そのうつ状態なんかにもなるわけで、それが、一つ、反映をして、まあ最近よく言われておりますように、一番深い痛みっていいますか、自分の存在、存在そのものの意味といいますか。まあスピリチュアルな痛みって呼ばれるようですけれども、まあそういうところに向き合わざるを得ない。しかも70越えて、随分偉そうなことをずっと言い続けてきた自分が、まあそんなところに向き合うということの、うーん、不思議さといいますか。そんなもの喜んでもいられませんでした。
で、まあ結局、一番つらかったところは簡単に申しますと、家庭内ではどうも処理できないという感じがありましたもんですからうーん、精神科の専門家にも相談をしないそれから、家内にもうつ状態をなるべくこう見せないといいますか。それは非常につらいことでございましたので、ちょっと、あの、岐阜の田舎へ行きまして、40日間、そこで、1人で食事を作る、山中を歩くと。そういうような形を取ったんですね。
私は、ちょうど、キリスト教ではあるんですけど、なんですけれども、えーと、50代、50になったあたりのところで、キリスト教になるんですけども。あの、もうそれを越えて、まあ座禅体験が長かったということがあるんですけども。また、私のおふくろが30年前に亡くなっておりますけども、亡くなる前に写経をやって、般若心経をずっとこう書き続けていたような時期があったということで。で、それがきっかけといいましょうか、それを唱えるという形。どうもその、キリスト教のお祈りは意味が有りすぎてどうもうまくいかないものですから。まあ般若心経自体が、その「仏教哲理はやめて祈れ」、祈れっていうか、「お唱えをしなさい」というお経だと思いますけども。たまたまそんなきっかけがあって…あったもんですから、もうそれをまあ一生懸命やることで、山中を歩きながらやるとか。うちの中で1日100回、100回唱えているというような形。スピードもあるし、高い低いもあるし、声が大きい小さいがあるし、いろいろ工夫ができる。私にはうまくいっている。
で、それが結局40日間で普通の状態に戻りました。で、それ(般若心経を唱えること)は、そのまま、13ヶ月、ずっともう、道を歩きながらでも、電車に乗っててもという形で、13ヶ月やったことで、そこから、確実にまあ、普通の状態になったという、そういう体験があります。