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障害学生の語り

ゼミ論文は、まず本を読まなくてはいけないのが大変で、母親に手伝ってもらったが時間の制限もありなかなか進まなかった。代筆も、とても時間がかかった

あと…、ゼミといえば、ゼミ論文もあったんですよ。ゼミ論文。はい。それを書くのも結構、僕、自身、結構大変でしたね。あの1万字とか書くので、その、母親に、ここを翻訳して、翻訳した文章を口頭で言って書いてもらったり。
僕がやったゼミ論は、あの……、ある本があって、本で翻訳者が違うとこういうふうに、日本語も違ってくるんですよというのを比べるゼミ論を書いたんですよ…。で、それで、それをやるのに結構な時間かかっちゃうので…、まあ、3カ月、4カ月ぐらいかかりましたね。で、結構大変でした、あのときは…。他の人も結構ゼミ論、大変だって言ってましたね。

――その同じ本の翻訳者が違うと、どういうふうに違ってくるかっていうテーマは、こう、ご自身はどうしてそれを選ばれたんですか。

あの…、そうですね、あの…、その…、うーん……、えー、その、何か、その前…、前の、そのゼミ…、前期のゼミの、前期、後期とあるんですけど、前期のゼミのときに先生が、こう翻訳者によって全然変わるんだよっていうのを、俳句だったかな、俳句で紹介してて、ああ、こんな違うんだって自分で感じて、それで他の文学作品だとどう違うんだろうっていうのに興味が湧いて、それをゼミ論文にしました。

――その「大変だった」っていうことだったんですが、こう具体的に、もうちょっと具体的に言うと、どんなふうに大変でいらしたんですか。

まず僕自身が本の、もとの本を読まなくちゃいけないので、そこを本を読むのにも時間がかかる。僕、すごく緊張するし、ね。
で、その本を読むにも母が付いて、本を、もとはどんなやつというか、なんなので、母も…、一応家事とかもあるし、家族のことも、やんなきゃいけないから、うん、どうしても、その、時間が制限されてしまうので、そういうところでなかなか進まない、そこも大変でしたし。
あとは、何でしょうね。あとは、そうですね、もう僕はこう、僕は、英語で言っても母が分かんなかったやつは、スペリングを言ったり、ゆっくり。例えば、例えば、ね…、何だ、happyとかっていうのもつづりが分かんないと書けないじゃないですか、代筆できないじゃないですか。だから、僕はh・a・p・p・yとかって言って…、言ったりしていたので、僕も結構、スペリングで言わないといけないのは大変でしたね…。
あとは、そうですね。そう、あとは…。あとは本を読んで、で、ここが違うなと思っても、この何、何ページの何行目が違うって言うんですけど、その何ページ何行目っていちいち言わなきゃいけないから、その伝えてから書くのにちょっと時間がかかるので、そこもやっぱり時間がかかるポイントで大変でしたね…。あと、あとね、論文のね、論文のルールっていうのもあって、例えば、ここ、そこが…、引用したら、引用の何ページ…、引用って書くとか、そういうルールとかも割りと、厳しかったんで…、そことかも、直されたりとかあったんで…、大変でした。

障害学生の語り

サークルで取り組んだ調査の結果や勉強会での学びを、卒業論文として体系立ててまとめた。自分が卒業した後も廃れていかないようにという思いがあった

だから技術的な面もそうですけど、部員の人たちが少しでも、こう活動しやすいようにするだとか、あとは自分の居場所の一つとして、大学の一つの居場所として、あの…、そういうサークルの環境づくりっていうのを、のほうに少しずつこうシフトしていったというか、あの、そこを強化していったというか。
で、そこから地域のイベントに少しずつ呼ばれて行って、まあ、これも営業をしたりとかしたんですけれども、最初にアポイントがあって、そこからは団体のつながりで…、で、行ったら、それを、見に行った人からかなり、あの、注目されたりだとか。で、高校に、高校の、せっかく、オープンキャンパスとかでも入学式とかでも、いろんなところでノートテークをやっていたので、で、それがやりたくて来たっていう子も少しずつ増えてきたりとかして、あ、これでひとまず流れはオーケーだなっていうのと。
まあ、でも、これ多分自分卒業したら、うん、多分ちょっと落ちていくかなっていうのが他の先輩たちのサークルを見てても、立ち上げた人たちの初代メンバーが卒業しちゃうと流れで、あの、まあ、廃れていっちゃうっていうことを結構見てたので、なんで体系として残したりとか文章として残したりとかすれば。自分は全く参考にするものが文章としても残っていなかったので、えー、なんで全国のシンポジウムだったりだとか、あの…、結構メインにやっている大学のほうに直接連絡をしたりして、その先生方にアドバイスをもらったりとか、資料をもらったりだとかっていうことをしていたんですが、結構それが最初にあればもっといろんなことできたのになっていう。
卒業する頃には音声認識がそろそろ、あの、出始めてきていたので、だんだん取って代わられるだろうなっていうのもあったんですが、それと併せて、まあ、要約筆記の技術だったりだとか、情報保障の考え方だったりとかっていうのを、うん、もっと学んでいけばコミュニケーションっていう部分でも、あの、聴覚障害のある人とのコミュニケーションっていう部分でもかなり、うん、プラスになるのかなっていうのをいろいろ感じてたんで。で、それを、まあ、ひとまず文面に残しておいて、誰かがこういうのを知りたいって思ったときに、あの、全部資料として残したりとか。 
で、他のサークル、こういうことやっているよっていうのを示したのは、自分たちが何かやりたかったら、そこの大学に問い合わせてみていいと思うっていう。で、そこで自分一応こういうのをやってたから多分名前は、先生方はどこかで引っ掛かってつながりが一つ持てるんじゃないかなっていうのも目的として、あの卒論っていうかたちで残したんですけれども。

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卒業論文では「高等教育機関におけるノートテイクサークル」をテーマに、アンケートを行い、外のNPOにも出かけていってノウハウを学んだ(次のクリップに続く)

――その、ボランティア(活動のことについて)で、論文を書かれたってさっき、おっしゃったかなと思うんですけど、これはどういう、卒業論文だったんですね。

あ、そうです。はい。

――それは、えーと、どんなことを論文に書かれたんですか。

えーと、全国の、あの、まあ、自分が調べる限り、あった全国の要約筆記や情報保障を、やっている大学のサークルにアンケートを送って、で、どのような、活動を主にしているかっていうことを出して、「大学における高等教育機関におけるノートテイクサークルの意義と役割」っていうかたちでまとめました。

あの、きっかけは、あの、先ほどもお伝えしたようにパソコンでできるボランティアっていうところからだったんですけど、いざ入ってみたら、あの、機能的な部分だったりだとか、あの…、うん、システムの部分が、まだ、まだ弱いなっていうことがあって。
で、まず人を集めるために、えー、あの、全学部、全学生に一斉にアンケートを取って、で、実際にその出てきた結果が「やってみたいけど、やっぱ難しそう」っていうことだったりとか、あと要約を基本的にするんですが、あとタイピングが速くやらなきゃできないっていうこともあったんですけれども、2人1組でやるので、それぞれ補い合いながら、あの、当時はやっていたんですが。
なので、まあ、結構興味はある人はいるんだなっていうことがそこで分かったので、あとは授業がなるべく、あの、空いてるときに、えー、説明会を、あの、個別で開いて、で、少しずつそこに人が来るようになって…。で、実際にその大学で決められている現場に入るまでのシステムがあるんですが、それが見学3回っていうものだったんですけれども、見るだけじゃもったいないなっていうのもあったので、何かそこでちょっと体験じゃないですけどやってもらって。で、そこで、あ、やっぱり自分がちょっと難しいなってなったら引いてもらっていいですし。だから実際にやってみて、あ、こんな感じだったらできそうだとか、逆にこう個別で見ていって、まあ、この子はこういうところを鍛えればもっと良くなるなっていうのを、あの…、個別にデータとして残しておいて。
えー、自分じゃあ、ちょっと、対応できない部分は、あの、NPOのほうの勉強会に出掛けていって、あ、これはこうすればいいんだとか、もっとソフトの機能をこういうふうに拡大すればいいんだっていうのを学んで。で、大学のほうに下ろして、で、サークルでは勉強会を開きながら、うん、で、少しずつこう、できないことができるようになったっていうので結構モチベーション、部員のモチベーションがかなり上がっていったりして。
で、時間が空かなくて勉強会に出られない人たちのために、こう、まあ、そのときの内容をまとめて、えー、配付したりとかっていうことをしていたりして、まあ、なるべくこう…、活動に興味があるけど時間がなくてできないっていうところを少しでもこう縮めていって、で、ちょっと時間ができたらぽんと行かれるような雰囲気づくりというか、環境づくりとか。

障害学生の語り

文章で伝えることがすごく好きで、日本語の文章を使って人に伝えることが自分の好きなことにつながるかなと思い、卒業論文では「若者言葉」の研究に取り組んだ

えーと、人に伝える、あの、文章で伝えることがすごく好きで……、うーん、やっぱその、日本語を、えーと、学ぶことで、人に伝えたり文章を、人に伝えることとか文章で、あの、表すこととかがちょっとでも自分の、あの、何ていうの、自分の、自分の好きなことに、つながるかなと思って、ここを選んで。
実際は、えーっと、実際どんな勉強をしたかっていうと、あの、えーっと……、日本語学で、えーと、卒論でやったのは、若者言葉を勉強し、まあ、勉強っていうか研究してて…。例えば、あの、「やばい」、「やばい」と「マジ」と、「めっちゃ」っていう言葉で、えーと…、「やばい」はこの状況では使えるけど、「めっちゃ」だと、この状況では言えないから、えーと、そこからどんな違いが見えてくるかみたいな勉強とか。
あとは、えーと、その、子供に、子供のために書かれた文学で…、文学で、あの、人物とか、その物語の背景を探ることで、えーと、この人物がどういう人物だったんだろうとか、この物語はどうしてこういう背景で何か作られたのかみたいな勉強をしたりとかしてました。はい。

専攻がそういうのだったので…、まあ、若者言葉の研究でどんな違い、その、言葉で同じように見える言葉でも何か、どんな違いがあるのかみたいなことを、えーと、卒業論文で研究して、まあ、大変だったけど楽しかったです。

――卒業論文のテーマは、やっぱりご自身で決められたんですよね。

はい、はい。

――じゃあ、そういう若者言葉に関心があったんですか?

何か、えーと、ある授業で若者言葉の話題に触れたことがあって、えーと、そのときに、何か、直感的に何か、自分の中ですごい面白さを感じたので、えーと…、先生、その3年生になってゼミを選ぶときに、これをやってみたいなと思って先生に、言ったんですけど。それまでは授業で触れた、ある授業でその若者言葉に触れたから、それをやってみようかなって思ったっていう感じですか。はい。

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当時は手話自体への評価がまだ認められていなかったが、学部生なりにろう教育の専門家が間違っているのではないかと考え研究をして、それが大学院進学につながった(手話)

そうですね…。まず、私が大学にいた頃というのは手話自体への評価、専門家の人たちの手話の評価というのが言語としてはまだ認められていない状況でした。
ろう教育の中では、手話というのはコミュニケーション手段としてはいい、ろうにとっては楽でスムーズでいいけれども、言語習得の手段ではない。言語習得のためには、日本語を「聴覚口話法」で教育をして習得させなければならないという考え方が主流だったので、大学に入ったときにも、手話通訳で大学の授業を受けるんだ、へえ・・みたいなのはありました。手話で通訳なんて本当にできるのかというような疑問視する先生方もいたと思います。
また、私は学部の4年生から学会に参加をするようになったんですけれども、学会に参加すると、「手話通訳を利用するろう者が学会の場にいるんだ」というように、周りは肯定的ではなかったんですね。学会のような場に来られるろう者というのは、聴覚口話で聴者並みに自分の声で話して議論ができるろうだけ、というイメージがあったのかなあと思います。手話通訳?と厳しい目で見るような雰囲気はありました。
ただ、ろう教育の専門の先生方からはそういうふうにみられていましたが、私としては大学の授業は手話通訳ではっきりとわかる、きちんと理解ができている。それはまぎれもない事実だから、その考えはおかしい、学部生なりにろう教育の専門家たちの言っていることはおかしい、間違っているのではないかと疑問に思って、それなら自分で研究しようと思いました。まあ、そこから、大学院についても考えるようになったと思います。

障害学生の語り

これから取り組む卒業論文では、発達障害である自分のことを振り返ることをしたいと思っている。自分を理解することにつながるし、誰かのためになるかもしれないとも思う

えーと、まあ、休憩中にちょっとお話ししたんですけど、当事者研究っていうかたちで、まあ、僕は多分僕のことを書けば研究になると思うので。この間先生と、ゼミの先生と話したのは、自分がお世話になった療育センターに行って、担当してくれてた先生に、お話を聞くっていうのが一番いいかなって、その自分が成長した姿も見せられるし、大人になって、ちゃんと大人の話をするっていうのがストーリー的に僕はいいか、ストーリーというか話の流れ的にやりやすいし。
まあ、断られるかもしんないけど、そっちのほう、それをやったら何か、まあ、論文としての価値は上がんないかもしんないけど自分としての理解とか、そういうのが高まるというか、そういう感じな気がしてますね。なんで、多分当事者研究をして自分のことを書いて、えーと、まあ、お世話になった先生んとこに、行って、で、もし足りなかったら僕が読んできた(本の)著者の人たちに、まあ、声を掛けれたら声を掛けて、受けてくれるんであれば、まあ、話をちょっと聞きに行くっていう感じなのかなって思っています。はい。

――その卒論って、ある意味、自分でテーマを選んでよくて、最後大学の集大成というかまとめになるのかなと思うんですけど、そこでやっぱり、あ、発達障害のことをやろうって思った、ご自身のことをやろうと思ったのは何か、何でだったんですか。

理由ですよね。本当、最初は、インプロ(課外活動で行っていた即興芝居)について書こうと思ったんですよ。今その、そういう活動もしていますし。だけど、卒論と自分の趣味ではないですけど趣味を一緒にしてしまうと、もったいないなと思って。発達障害も研究したわけなんで、研究というか調べてきたわけなんで、何か、駄目だなって思ったんですよ。
それ、それをしたかったっていう気持ちも本当なので、だったら2つ。ある意味、僕にとったら卒論2つあるんですよね。インプロのことを書く、まあ本と、その発達障害、まあ、自分にとっての障害、自分はどういう人かっていうのを書くっていうのが卒論で、まあ、2つ、ある意味卒論を2つ抱えてみたいな感じで、どっちもやりたいので…。
さっきも言ったとおり、僕はしたいっていうものが少ないので、何か、それを、尊重してあげたほうがいいかなって、自分のためになるかなって思ったし、親がやっぱ心配しているんですよ、就職のこととか、学校のこととか。なんで…、まあ親のためとかにもなるし…、いいかなって。このインタビューも、まあ、いつウェブに載るか分かんないんですけど、それをすれば、たまたま僕の知り合いが見て、あ、こういう活動をしているんだとかっていうのを見てもらえるし、だから何か、したいことだし、やろうかなって思いました。

障害学生の語り

もともと災害時の看護に関心があり、卒業研究では自分と同じ脊髄損傷の人の災害時の不安や困難について取り組んだ。当事者でないと分からないことがあると思いながら進めた

えーと、僕は、自分が元々、災害看護っていうものに興味があったので、ずっと、それで(テーマを)練っていたんですけど、けがをしてしまって、災害看護できないなって、ちょっと一回思いもしたんですが、その後に自分で暮らしていくうちに、まあ、あれ、脊髄損傷の人って災害のときどうしているんだろうっていう気持ちになってきて。
で、僕は、疑問に思ったことは全部一回、あのiPhoneのメモ帳で、取るんですけど、研究になりそうな、あ、これ研究になりそうって思ったのを全部書き出すんですけど。書き出して、後で自分で調べたらやっぱり研究なくて、そういったものにこう着目している研究が。なんで、あの脊髄損傷の人の、災害時の不安とか困難っていうものに対して統計を取ってアンケートの、研究を行いました…。
で、やっぱり、最初は、あの福島だったり、東日本大震災の、被災に遭った仙台、福島、あそこ辺りに直接行って、あの、インタビューをしながら、そういった声を集めたいって思ってたんですけど、それが案の定、先生たちからNGが出て、いや、そんな、危ないと、そんなに何かそう、負担が大きい研究は難しいというふうに言われてしまって、じゃあということで、あの、アンケートで都内や、都内で、協力してくださる、えーと、施設を見つけて、そこで協力していただいて、結果、とてもいい統計のデータも取れて、あの、有意義な研究ができたなと思うんですけど。
やっぱり、こう当事者になってみないと分からないことっていうのは、やっぱりこう武器でもある、やっぱ、うまく使えば武器にもなるものではあると僕は考えてるので、そういったのを使いながら、まあ、進めていく。文句を言うんではなく、それをどうやったら周りの人にもっと納得して知ってもらえるかっていう点に、やっぱりこう重きを置くっていうのが、やっぱいいのかなと思ってます。
なんで、研究もうまいことできたのでよかったです。先生たちがいろいろと、その研究の担当の先生がいろいろと頑張ってくれて。半分ぐらい先生の文章になっているかもしれないですけど。

――やってみて楽しかったですか?

はい。はい、そうですね。僕は、元々研究が、まあ、父、母は医療従事者で、どっちかというと父も、あの、研究職なので研究っていうのが好きで、こう突き詰めていく、突き詰めていって原因が何か、それに対しての講ずる策は何かって、これは、あの脊髄損傷の、まあ、この不安っていうか自分の日常生活の不安、不安だったり困難に対しての対応もそうなんですけど、そういったものを明らかにしていくっていうのはやっぱり気持ちがいいところがあって、あの、すごいにこにこしながらやっていましたね。

障害学生の語り

文化人類学や比較行動学など様々な科目を取りながら、多角的に自分のことも知ることが出来た。様々な知識や考え方に触れて、確実に人生が豊かになった

だから僕は文化人類学とか、あと比較行動学とか、あとはね、認知科学とか、哲学とか、そういう面でいろいろ見てきてですね、多角の面からね、自分を知ることができたっていうのもあるし、社会学なんかはやっぱり、ね、多数派の人がどんな社会の仕組みをつくってきたかって、そこはね、非常に役立ったとこですね。

やっぱりそうするとですね、まあ、ネットでいろいろとね、勉強して、いろいろともっとやっぱり知識、ね、好奇心に貪欲でありたかったっていうのはあるし、やっぱりそうすることによってね、やっぱり人を楽しませる幅が増えていくわけで。やっぱり僕、タモリさん好きなんですけど、やっぱりほら、教養いっぱい持っていたほうが遊びの幅増えますよね。だから遊びと勉強って割と反対語に取られることってあるんだけど、実はね、反対語じゃないよっていうことを僕、言いたいですよね。はい。だから、僕は何のために大学行くのっていうと、遊ぶために行っているってよく言ってましたけど、はい、そういう感じでしたね。

学んだことによって、確実に人生は豊かになりましたね。はい。それとやっぱりさっきも言ったけど、ね、(勉強は)最高の、あの、楽しい遊びだと思いますね。はい。こんな知的な遊びはないわけで。うん。
だから勉強は苦しいことだと思わないで、楽しんでもらいたいですよね。うん。

障害学生の語り

大学では、知識を得る勉強という意味では不十分だったかもしれないが、なにより自由に学ぶことの素晴らしさや、多様であることの大切さを実感させてもらった

やっぱり、なんだろな、やっぱり自由に学ぶっていうことの素晴らしさみたいなのをやっぱり実感させていただいた。そして、多様であることの大切さっていうのを、また実感できた。そういったものの基礎をつくってくれたのは、やっぱり大学生活だったかな。
勉強っていう点では正直、あの、十分じゃ全然なくて、どっちかというとまだ、ちょっと、もうちょっと勉強したいなと思うことのほうが多く、何かね、放送大学にしても何にしてもね、もうちょっと勉強しなきゃと思うことは最近のほうが多いんですけど。でも、大学生活っていう点ではやっぱりそういう自由に学ぶっていうことを、やっぱりすごく感じたし。
あと、この、さっき話さなかったけど、教職課程では専門的にやったのは子供の権利のことを。うん。まあ、担当だった先生が子供の権利が専門だったんで、えー、子供の権利のことをやってきたから、やっぱり、えーと、自分が学ぶっていうことは、あるけれども、逆に言うと、うん、学歴とかね、いうことにこだわらないっていうか。うん、うん。そう。学歴があるから勉強したいっていうことじゃなくて、学歴っていうことと学ぶっていうことは切り離せるっていうことを、まあ、多様。
だから卒業するっていうのも一つの選択だし、でも卒業しないっていうのも選択だし。でも、(卒業)しなくたって、学ぶわけですよ、もちろん、いろんなことをね。学ぶっていうことは、学ぶわけですよ。そういう意味も含めて多様であるということ、それを学べたいい機会だったかなという気がして。

障害学生の語り

障害者雇用を勧められ、主治医に診断書を書いてもらい手帳を取得した。診断にも納得し、職場も配慮があり働きやすいが、バリバリ働く同級生との違いを感じたこともあった(音声のみ)

カウンセラーさんからだったかな、障害者雇用で就職するっていうのも有りじゃないかっていうふうに言ってもらって。自分も一般雇用でもいけたかもしれないけれども障害者雇用のほうが、いろいろ配慮をもらって自分の苦手なことは…、やらずに済むかもしれないと思って、障害者雇用での就活っていうのもちょっと考えようと思って。で、そのためには手帳が要るということになって、そのことを、お医者さんのほうにも伝えて、それはもう大学院の2年目ぐらいに伝えたんですけど、すぐにでも手帳を取得しましょうっていうふうにはならなくて。

で、大学院の3年目になったときに、今度はまた就活が始まって、で、手帳は取得してなくても申請中ですっていうふうなかたちじゃないと障害者雇用はできないから、お医者さんのほうに、障害者雇用を考えているんですっていうことを、また言って。そうしたら、6月ぐらいかな。6月、5月ぐらい。5月か6月ぐらいに、じゃあ、あの手帳を取得しましょうかって言って、そこで診断書を書いてもらって、それで、自閉症スペクトラム障害と、反復性うつ病というふうに明確に診断が付きました。

で、それを聞いて、まあ自分としてはすごく納得したというか、その春夏と秋冬で波があるっていうのはもう自覚していて、それに診断名が付いたっていうことですごく納得感があったことと、あと自閉症スペクトラムのほうについても、まあ本当に思い返せばやっぱ子供の頃から友達付き合いが苦手とか、こだわりが強いとか、すごくあったし、大学とか大学院に入ってやっぱりすごく、やっぱコミュニケーションが苦手だなって思ったこととかがすごく説明が付くなと思って、自分もすごく納得しましたね。

やっぱり、まあ自分は、すごく苦手なこともあるっていうのが見えてきたし、コミュニケーションもあんまり上手じゃないから、例えば普通に総合職で入社して、営業とかやるってなると、ちょっと自分には向かないんじゃないかっていう思いもあって。障害者雇用ならいろいろ配慮をしてもらえて自分の働きやすい環境で働けるから、より長く働けるんじゃないかと思って、それで障害者雇用のほうが自分にはいいんじゃないかと思いました。

――7月に、そうやって内定をもらったときは、ご自身としてはどんな気持ちでいらしたんですか。

そうですね。やっぱりすごくうれしかったです。
まあでも、それと同時に何て言うか、まあ障害者雇用でいこうっていうふうに自分で決めてはいたんですけれども、内心何て言うか、これで何だろう、まあ自分の同級生とかは、まあ一般雇用で、まあ特に総合職とかでバリバリ働いている中で、まあ自分ちょっと違う方向へ進んでしまったんだっていう何て言うか、一抹のちょっと、うーん、これで良かったんだろうかっていうような思いはありました。

――その思いは、例えばこう、今もお持ちでいらっしゃいますか?

時々、そう思うことはありますね。
ただ、まあ今働いてみて、やっぱりすごく配慮をもらえて…、もらえるし、すごく働きやすいなと思うので、選択としては良かったとは思いますけど、時々やっぱり同級生に会ったりするとちょっと何て言うか、うん、これで良かったのかなって思うことはあります。