投稿者「dipex-j」のアーカイブ

乳がんの語り

腫瘍が8センチと大きいため乳房切除することになったが、術後に「筋肉は温存できた」と言われ、筋肉も取る予定だったことを後から知った (音声のみ)

それで、まあ、手術を迎えたんですけども。そして、手術を迎えて、迎えるに当たって、やはり説明がありますよね。それで、最初、えーと、腫瘍が8センチ、それでがんが3センチ、結構しこりが大きいっていうことで、全摘手術をします、と。それで、形成の先生のほうに行ってますので、形成の先生は、最初にこれ、「肋骨に薄い膜が1枚残れば皮膚移植できるから」って言われたんですよ。それで、「肋骨に薄い膜が1枚残れば皮膚移植できる」っていう意味がちょっとよく分からなかったんですが、術後、その先生から、「筋肉、温存しましたから」って言われたんですよね。「ちょっと筋肉、表面削りましたけど、筋肉のほうに転移してなかったので温存しました」って言われて、そのときに、ああ、筋肉も全部取る手術の予定だったんだって後で分かったんですね。

乳がんの語り

今回、自分が診断されたときよりも8年前、娘の乳がんがわかったときの方がショックで辛かった

孫がね、忘れもしないけど、8年前のお正月に、来たときに、「ばあちゃん、あのね、お母さんのおっぱいね、ちょっとね、おかしいんよ」って言うんですよ。「おかしいって、どんな何おかしいん」言うて。「何か凹んでいるよ」って言うんですよ。「えー、凹んでいるってそんなん大変やん。あんた、それ大変よ」言うて。ほんとに忘れもしない、お正月の3日だったかな。お風呂入っていて、「ちょっとあんた見せてごらん」言うて。陥没しているんですよ。それで、色も変わっているし。
そのときのショックのほうが大きかったです。まだ、そのころは、乳がんっていうたらとても怖いっていう。わたしの中では、印象があったから。すっごく怖かったですね。もし、この子が何かあって、もし、あれしたら、孫たちどうなるんだろうかな。まあ、1人ですけどね。かわいそうになー思って。即、それ考えましたね。自分が宣告受けた以上に、そのときのほうが辛かったですね。そして、まあ、付き添いで行っていたら、「まだ、お母さん、もう、帰っていいよ、1人ができるから」言うて(笑)、先生に笑われたりしたこともありましたけどね。でも、もう、もともと、この人(娘)も、気が、ほら、楽天家のほうだから、そんなに苦にしないし。入院中もわたしらもう風呂に行ったりとか。別に温泉に行ったりとかせんともね、あれしたりもしましたけど。まあ、ついとることないですから、ほとんどね。まあ、そういうことで、娘のときのほうが、ショックでした。

乳がんの語り

華道教師としての仕事が生きがいになっていて、病気と闘う力の根源になっている

今、わたしが、現在、こうして皆さんと出会いがあって、共に楽しんでいけるのは、お花を趣味としてお稽古に来られる方。これも、年代、年齢層の幅が広いんですよ。最高齢者が、80歳……はい、で、若い方が満20歳、で、中学生、高校生。で、小学校の華道部のクラブにもお伺いさせていただいています。それと、公民館活動で、20名、2ヶ所行っていますけれども。非常に、そういう場を与えていただいたいうことが、すごく、わたしの生きがいでもあるし、病気との闘う、何ていうかなあ、力強さ。根源になっているんではないかと。

乳がんの語り

80%位はがんだと思っていたので冷静に受け止めた。医師の心のこもった励ましもあり、自分に残された仕事を思って、とにかく頑張るぞという気持ちになった

結局、乳がんと診断されましたのが、ほんとに、かれこれ1年。10月の忘れもしないですけど、10日に初めて今の病院に行って診断を受けました。で、自分でも、もう行く前に、もしかしたら80%ぐらいはそうであるかもしれないという気持ちは、自分で持っておりましたから、先生に診ていただいたときに、「これは、乳がんですよ」とはっきり言われたときのショックは、あまり自分でも驚くほど冷静に受け止めることができたんですよね。不思議なことに。それで、そのときに、「まあ、検査は早急にしましょう」いうことで、ほんとに、短期間で、検査、全部していただきました。
で、その結果を、家族、子ども、まあ、息子…子どもが3人いますけれども、私を含めて4人で先生の検査の結果を病院に行ってお伺いしたときに、先生が、ほんとに、目に涙を浮かべんばかりに、「これから一緒に頑張っていこうね。で、こういうふうなことだから、今はいい薬があるから、頑張ろう。で、これでいかなければ、これでいく」というふうな細かな説明も受けまして、それで、自分自身もそうだ。自分の仕事も関係もあるし、ここ3年5年はどうしても、やっぱし頑張って、自分の仕事の後継者をちゃんと作っていかなきゃいけないという、自分自身責任がありましたから、とにかく、頑張るぞという気持ちで、現在、治療を受けながら頑張っている状況でございます。

乳がんの語り

組織検査で炎症性乳がんの診断を受けたが、検査のときお産より痛かったと思った

組織検査のときですね。これは、ほんとに、耐えられないほど痛かったです。時間そのものは、長くかからなかったと思うんですけれども、麻酔の注射針が、「入らない」って言われるんですよ。硬くて、その組織が。そりゃ、そうですよね。その子どもの組織見たとき硬かったから。だから、「辛抱してね、辛抱してね」って言いながら、「血圧が220上がりました」っていう、助手の方から(の声)も、局部麻酔でしたから、全部、ほら聞こえるんですよね。それで、その中で日常会話もその先生方が、「ああですね。こうですね」って、周りの景色のことを話されるんですけれども、もうその痛さで、ご返答することもできなかったですけれども。痛いとも言えないし、まあ辛抱して、「あ、今、縫合しているな」っていうこともわかりましたから、「あと少しですか?」って聞いたら、「もう、あと3針(みはり)よ」とかいう、そのときに、ほんとに、「ああ、よかったなー、痛かった」という言葉で最後、締めくくりましたけど、「もう、お産するより痛かった」言うて。あとは、もう「終わったから、よかった。よかった」と言って。

乳がんの語り

子宮がない人は乳がんにならないという誤った知識から、痛みや胸が硬いのは乳腺炎だろうと思っていたが、診断は炎症性乳がんだった

今年のお正月のときに、息子の、次男のうちに行ったときにですね。「ちょっと、わたし胸がこうこうなんよ、ちょっと硬いんよ、何か乳腺炎かなあ」っていう話を、お食事のときにちょっと話しましたらね。そしたら「もう、そんなん、年とってからは、乳腺炎はないかもしれんよ、そんなのは」って、言われたのと。ある先輩の方から、子宮がん…じゃなくて「子宮がなければ、乳がんっていうのにはならないよ」っていうことを聞かされていたことがありました。だから、自分では、乳がんっていうことは、まあ、頭から離れていましたので、乳腺炎かなあ、ぐらいに自分で自己判断して。その間ずっと、今年の4月5月ぐらいに、やっぱり、だんだん大きくなる傾向があるなと、自分で思っているときに、山田邦子さんの、テレビでの放映がございましてね。そのときに、「乳がんというのは、痛くないと言われますけれども、絶対、痛くないことはない。痛いです。で、そういうもうお方は、すぐ病院行ってください」という、テレビにちょっとわたしそれ、触れることができましてね。いや、自分もしかしてそうかもしれんなと思いながら、仕事がとても忙しかったもんだから、まあ、まあ、まあで、ずっと、あの、月日も経ってきまして。で、ようやっと、9月ごろにちょっと少しこう気分的にゆっくりできることがありまして、一度行ってみなきゃいけないなと思いつつ、それも、日が過ぎてしまいました。
思いおこせば、今年、気がついたのじゃなくて、もっと以前から、少し硬くはなりかけていたかなと。で、その時点では痛くも何ともなかったんですよ。で、それが、ちょうど、去年の5月ぐらいから、周りがちょっと赤くなっているかなあと。あ、こりゃ、ちょっとおかしいよなあと思いつつ、3ヶ月4ヶ月経って、それが10月。で、最終的には、ほんとに、大げさかもしれないけど、もう行く時点では、もう、すごく硬くて、どんぶり、おうどんの鉢がありますけれども、あの大きさぐらいに、もう極端に左と右が、お洋服着ても分かるぐらいに…でしたね。

乳がんの語り

リュープリンが1回3万円くらいと、がんは薬代が高いので、経済的に家族を犠牲にする部分がある。国は予防だけでなく患者の支援にも力を入れてほしい(テキストのみ)

現在も、リュープリンを打っていますけど、大体、1回打つと3万ぐらいかかるので、それもやっぱり医療費として結構大変ですけれど、生きていくためには仕方がないんだよねって、よく、周りの人とは話をしているんですけど。やはり、新しい薬が出たら、新しい薬を使いたいっていう気持ちもあるじゃないですか。で、認可が下りていない薬は、使いたいと思っても、輸入してすごくお金がかかって取り寄せても、それを打ってくれる先生を探すことも大変だし。その中で亡くなっていった友人がいるんですね。だから、やっぱり、そういうことを考えると、乳腺の場合は、比較的、治療法とか、薬も多いので、あの、何ていうんでしょう。お金はとてもかかりますけれども、大変だけれど、命をつないでいくためには、何とかしなければいけないんだなということをちょっと感じています。
だから、できれば、もう少し――確かにがんの患者さん、非常に多いんですけれども、(また)予防に対して、すごく国が力を入れてくれているのも分かっているんですけれど――(がんに)なってしまった患者さんには、手を、何か、差し伸べてはくれないんだろうかということは、わたしの中で――ちょっと何ていうんでしょう――憤りというか、わだかまりっていうか、あるんですけれど。何か、やっぱり、わたしたちの年代の人ががんになるっていうことは、自分たちの、家族を犠牲にする部分っていうのはあると思うんですね、その、経済的に。そういう部分を考えると、何らかの方法があればなということは感じるし、まあ、わたしの場合は、幸い、夫と2人なので、そういう点では、何とかやっていけますけれども。本当にお金がかかると思うので、通院するにもお金がかかるし、薬代がすごくかかるので。
抗がん剤もね、値段もしますから。特にあの、抗体療法と言って、乳がんの場合ハーセプチンをしている人は、とても高額で、大変だっていうお話を聞くので、やはり、できれば、ほんとに経済的な何か、国のね、支援なんかができてくると、基金でもいいから作ってくれると、とても、うれしいなということは感じます。

乳がんの語り

神社仏閣巡りとかゲームとか、自分が好きなことをするのが大事だと思う。大きな幸せを一つ見つけるより、小さな幸せを100個見つけるほうが好き(テキストのみ)

わたし、趣味が旅行なんですけど、あの、神社仏閣めぐりの旅が好きでして、そういったものを、入院中知り合ったお友達と出かけていますね。そういうところに、出かけて、旅行したりすることで、ま、ストレスじゃないですけど、気持ちの切り替えを、しています。うん、あとは、ゲームです(笑)。ゲームが大好きなので、ゲームに興じています。
やっぱり、好きなことをするって大事かなと思うんです。それは、ほんとに、できる範囲で、大々的なことじゃないんですけど、日常のちょっとしたことで、何か楽しみを見つけるということが、非常に大事なような気がするんですね。やっぱり、大きな幸せを一つ見つけるよりも、小さな幸せを100個見つけるほうが、わたしは好きなので。小さな日々のこう幸せを、例えば、きょうは、特売でこれが買えたわとか、そういう、ほんと、小さなことなんですけど、そういうことを喜びとして日々過ごしていくっていうのが、すごく大事なんじゃないかなと、わたしは思っています。

乳がんの語り

持病があったので入院して放射線療法を受けた。持病の影響で肌がただれやすくとても痛かったが、ステロイドの塗り薬で治療をやりとおすことができた(テキストのみ)

その後、まあ、あの、傷口が落ち着いたあとに、わたしは、放射線治療を、したんですね。で、放射線治療も、一応、25回、50グレイやったんですけど。それで、追加照射もなく、普通に、まあ、50で終わったんですが。わたしは、皮膚が少し、弱くて、放射線を照射したときに、照射したかたちに、ものすごい日焼けというか、黒くなってしまって、それが、ちょっとただれてしまったんですね。で、そのときに、やっぱり、乳房の色に合わせてこう焼けてくるので、非常にもう痛くて痛くて、もう、放射線をやるたびにもう涙が出て、そのまま、その足で家まで帰ってしまおうと思うぐらい――わたしは、入院して治療を受けたんですけど――ひどかったですね。
それで、毎回看護師さんに、冷やしていただいて、それで、下着もつけられない状態でしたから、それを見かねた、がんのお友達のそのまたお友達が、がん友さんのお友達なんですが、下着を作ってくれたんです。胸が、こう当たらない下着ですね。それを、その2枚作ってくださって、それをつけながら、放射線治療に通って。そして、やっぱり、さらにただれてきちゃうんですけど、「やめる? どうする? やめる?」って先生に言われたんですが、でも、やっぱり、ちょっと不安なので、「やります」っていうことで、やりとおしたんですが。そのときに、先生から、ステロイドを出していただいたんですが。ステロイドの塗り方をものすごく丁寧に教えていただいて。あの、乳房のところを、指でこう広げて、きれいにその間に塗るんですね。で、そうすることで、乳房が平らになるので、照射が当たるところが痛くないっていうことで、先生に教えていただいたんですね。で、それを、「ちょっと量が多いんだけど、朝晩塗ってごらん」って言われて。で、塗って、照射する前にもまた塗って。そうしましたら痛みが消えてきたんです。だから、やっぱり、先生に伺ってよかったなと思って。

乳がんの語り

抗がん剤で髪が抜けるときは頭皮に痛みがあった。処理が嫌だったので、髪の毛は剃ってしまい、かつらは被らず、帽子で過ごした(テキストのみ)

髪の毛抜けてくるときに、痛いんですね。するっと抜けるテレビドラマとは違って、ものすごく痛くて、ちりちりしてくるというか、ちょっと表現がしづらいんですけど。髪を縛ったまま眠ってしまって、翌日それを取るとるのに痛いという状態ありますね、ああいう感じが、もう、ずうっと全部の頭皮にありまして、やっぱり、これはもう駄目だなということで。白血球が上がったときに、看護師さんにお願いして、床屋さんの予約を入れていただいて、大学病院の1階にあるんですけど、そこで、頭を丸めたんですけど。もう、これしかないと思って。周囲に不愉快に思われるのも嫌だし、自分ももう何か髪をとるのが日課になるのが嫌だったので。わたしの場合は剃ってしまいました。で、かつらは、かぶりませんでした。帽子をかぶって過していました。