投稿者「dipex-j」のアーカイブ

乳がんの語り

手術が終わって、脇の下の痛みで目が覚めた。集中治療室では面会制限があり、家族がすぐ出てしまったので、さみしくて心細かった。そのうちに両足のかかとが痛くなった

ふっと気が付いたら、腕のね、脇の下の痛みで、目が覚めて。ほんで、ちょっと目開けたんです。そしたら、妹と、嫁のお母さんや、で、嫁の顔があったんですね。ほいで、その後、また意識がもうろうとして、あのー、集中(治療)室へ連れて行かれました。
で、皆、すぐ帰ってしまう。(集中治療室から)出てしまうんですよ。私はもっといてほしいのにな思ってね、いろいろ私がしゃべるときは皆ね。もう、最初からこう1分だけ言われとったらしいです、面会はね。ほいで、それ、あのー、そやからすぐ出てしまうんですけど、私はもう主人のときには、ペースメーカー入れてね、そのときは、ずっとそばにおれたもんですから、同じに思ってね。何で出てしまうんやろ思てね、もうさみしくてね。心細いですから。もうそのうちね、かかとが痛くてね。ほいで、片方のかかとだけだったのに、両方のかかとが痛いんですよ。今から考えたらね、足をずっとこう立てていたから、それでだと思うんですけど、そのときは分かりませんし。いや、私、手術中にもしかしてもがいて、ほんで皮が剥けたのかな思って。ほれで、夜10時ごろにね、先生が、あのー、そっと見に来てくださったんです。ほんで、「先生、私、もがいたんでしょうか。足のかかとが痛いから」って。「いや、静かやったで」っておっしゃいましたけど。

乳がんの語り

手術前日に入院した。点滴で麻酔の薬を入れられたときロケットが白煙をあげて飛びだすような強い痛みを感じた

手術のね、1日前に、入院しましたので。ほんで、あのー…、手術の日はね、夜、寝るときに、よく眠らないといけないもんで、私、デパスを飲んでましたんで、デパスをいただいて、それを飲んで。ほんで、下剤、夜も下剤飲んだかな。ほいで、朝と、もう一回下剤飲んで。ほれで、あのー、7時ごろから点滴をされました。それで、そのまま、ベッドで、えーっと、7時半、8時ごろでしたか。7時半か8時ごろに、そのまま手術室へ連れていかれたんです。
ほんで、その手術のときにね、その前日に麻酔の先生から「麻酔は、あのー、点滴の中入れます」いうことだったんです。ほんで、あのー、皆、送っていって、皆、ついてきますわね。ほんで、「ほかの人は、ご家族の方はここで待っていてください」言うて、そこからシャットアウトで、それで、私だけ連れていかれて、入って。で、今度、「点滴、麻酔を入れます」と言って、お薬を入れられた途端に、もう腕がものすごく痛くてね。もう私、本当に、あのー、ロケットがね、白煙を上げてぼわーっと、ああいうふうな感じでした。痛くて痛くてね、思わずね、もう腕が折れそうで。「やめてください、痛い、やめてください」と言うたか、言わなかったか知りませんけど、それから後は分かりませんでした。

乳がんの語り

がんだった乳房を好んでお乳を飲んでいた娘への影響が心配でつらかったが、医師に影響ないと言われ、ほっとした

ただ、私の頭の中にあったのは、そのー、詰まっていたと思っていた乳房、あの、お乳が詰まっていると思っていたそのおっぱい、娘が好んで飲んでいたおっぱいががんだったっていうことで、悪性のがんだったっていうことで、娘への影響はどうなるんだろうかなって、それが非常につらかったし、まあ、私だけでなくて娘のほうにうつるっていうんではないんですけど、何か影響が出てくるんではないかなと、それが非常に心配でした。ただ、なぜか知らないんですけど、このことを先生に質問することがなかなかできなかったことは覚えております。で、後のほうになるんですけど、先生に「これ、大丈夫なんでしょうか。娘は大丈夫なんでしょうか」って質問したときに、まあ、そんなんは影響ないと。ただ、影響があるのは、体質が母親に似ているということで、将来、そういうことがあり得る可能性はあるけど、あのー、がんのお乳をずっと飲んでいたからといって、そんな影響はないとはっきり言ってくださったので、ほっとしたことを覚えています。

乳がんの語り

診断当初、早く子どもたちに成長してほしいと焦っていたが、2人が高校生、中学生となり、焦りが消えた。中々言えなかった「将来、孫の世話してあげるね」と言葉に出せた

最近、だいぶこう落ち着いてきたんですけど、2人が小学校へ通ってる頃は、早く大人になって、早く自分で自分のことができるようになってって、すごく焦ってました。まあ、まがりなりにもお兄ちゃんが高校にも行き、娘も中学生になり、本当にこの1月に、あの、骨折のほうで私が1ヶ月半入院したときに、娘が夕飯、全部作ってくれて、して、ああ、もうこれで(笑)。ほうなったらこう反対に、もうそんな焦りがなくなったっていうか。うーん…。反対にこう、家族の3人の後を私が一生懸命追い掛けているような、そんな気持ちになってきて、まあ、「ちょっと待って、あのー、立ち止まって私を待って」っていうような、そんな気持ちになってきました。
で、娘に、あのー、友達の、私の友達が自分の娘さんに「子ども、たくさん生みよ。お母さんが育てるからね」って言いよん見て、私が聞いて、ああ、ほうやって言いたいなって、娘に言いたいなって思ったんです。でも、同じようにその言葉が娘に言えるようになるまでにやはり時間かかりました。ほんで、娘は、何歳ぐらいのときに…、言いたいなって思いだしてから、1~2年はかかったと思うんです。で、やっと言えたら、「子どもは自分で育てるけん」っていう言葉だったので(笑)。うーん何か…、別の意味で複雑だったんですけど。あのー、たくましい娘にほっとした面っていうんかな。さびしさは感じずに…。そのまま、「ほんなこと言わんと、お母さんに抱っこさせてよ。あのー、育てさせてよ」っていうことが繰り返し言えたので…。で、「ほれまで頑張って生きなくっちゃね」とか、あのー、言葉にはしてないんですけど。

乳がんの語り

「あとは頼むよ」と夫がよく言っていたが、今は私が夫に頼まなくてはならないかもしれないと思う。夫の気持ちに応えきれない自分がいて、そういう話ができなくなった

結婚した当初から、夫が四つ上っていうことがあって、よく冗談で言ってたのが、「自分が先逝く」と。「だから、あとは頼むよ」っていうようなことを結婚当初からよく言ってたんです。それはもう単純に、まあ、「ほこまで頑張って一緒にやっていこうな」っていう気持ちとか、あのー、「平均余命は男のほうが短いんだから」とか、そういうところでの単純な話だったんですけど。うーん、ほれに、まあ、定年も夫のほうが早いから、「あとは食べさせてよ」みたいなね(笑)、そういう話なんかもしてたんですけどね。この病気が分かってからは、単純にそういう話ができなくなりましたよね。で、夫が前と同じような調子で言うと、深刻に受け止めたらいけないと思うんですけど、まあ、私のほうが先には逝くだろうと、どっかにそういう思いがあって…。
もうこの病気になった時点で、いつお父さんにすべてを頼まなんだらいかんかもしれん。ほういう思いが常にできました。
で、夫とはまだ、やはり時々、夫ももうあと10年で退職っていうような年齢になってきて、冗談半分で同じように、結婚した当初と同じようにね、私がこんな病気しとるからやいうんでなしに、あのー、どっちが先に逝くか分からんし、年齢からいうと自分なんだからって、医学の発達を信じて、私が長生きできるっていうのが分かってるっていうようなニュアンスで言ってくれるんですけど、「ほやけん、頼むよ」って。でも、やはりほれには、私自身の気持ちが言葉には出さなくても、ちょっと応えきれないなって。そうはいかんだろうなってどっか考えてる自分が必ずいるんですよね。

乳がんの語り

中学の教員をしている。職場でオープンにしたことで時間割や休暇の面で協力が得られた。また、病気で感じたことを生徒に伝えたいと思い、話したら、手助けする子も出てきた

私は、それだけでなくて、あのー、職場でももうオープンにしてます。あのー…、娘と一緒にお風呂に入るには時間がかかったんですけど、職場のほうで、結局、定期的に、あのー、週1回とか2週間に1回とか病院に通う関係上、ほのー…、放課後ばっかりでは行けなかったので、そのうち、ほかの先生が気が付いてくれて、授業の空き時間を、ある曜日の午前中とか午後にまとめてくれたんです。ほうすると、その時間、自由に有給休暇を取れるようになりまして、授業、私が授業を休んで、誰かの先生に代わって行ってもらわなければいけないということなしに、この曜日のこの時間は、病院行っても誰にも迷惑かけずに行けるっていう時間、ように、時間割、学校全体の時間割をうまく組んでくれるようになって。オープンにすることでそういうふうに、いろんな、私自身にも働きやすい、周りの人も、私がいないことで、あのー、気を使わなければいけないっていうことがないような配慮をしていただけるようになったので。
それと、まあ、先、あのー、私が、本当に元気に自由に動けるっていうことがどんだけありがたいかを子どもたちに伝えていきたいなっていうふうに思うようになって、私は病気だって。で、手術した後は、あまり重たいものは持ったらいけない、しばらくの間。そういうことも伝えたら、分かって、「先生、ほれ、持ったらいかんで。持ったげる」って言うてくれるような子もできたりして。うん…。オープンにすることで、すごくこう、自分自身が伸び伸びやれるようになったので…

乳がんの語り

5年間、抗がん剤を内服して小さな肝転移は収まりつつあったが、服用中止後2年以上経っても血尿が続いていて、止血剤と内視鏡的手術が必要な状態だ(テキストのみ)

肝臓への転移がわかってから、抗がん剤の錠剤を平成20年の6月まで5年少々飲んで、肝臓には小さなものがあったんですけど、それが言うなればかさぶたみたいになっている状態になりました。先生は、「もっと副作用が出る人がいるんだけど、思いがけず少なくて、長く薬を飲み続けられた」とおっしゃっていました。ただ去年の今ごろ、「もうそろそろ限界だろう」と言われていて、案の定、おばあちゃんのお葬式ごろから血尿が出だして、それで6月ぐらいで抗がん剤を中止しました。8月9月とずっと血尿が続いて、10月ぐらいにも少し出たと思います。半年ぐらい休んで、「また様子を見て次の治療を考えましょう」と言われていました。
私自身は、肉眼でわかるような変化が尿になかったため、その後血尿は止まったと思い込んでいましたが、平成22年11月末にひどい血尿が出るようになりました。泌尿器科で検査の結果、医師からは「ほかに原因は考えられない(抗がん剤の副作用が原因ということ)。5年あまりかけてそういう体質になってきたものがその薬をやめたからといってすぐ元には戻らない」と言われました。薬の副作用でもろくなった膀胱内の粘膜や血管から出血を繰り返している状態です。内視鏡的手術によって出血しているところや出血しそうな所を焼き付けるとともに、止血剤を服用することでひどい出血は収まっています。また、止血剤を飲み忘れると出血があります。止血剤が有効でコントロールができていますが、この状態が今後も続くとなると止血剤の副作用はどうなるのかと心配になります。
病気とつきあうということはこういうことなのかと、あらためて実感しています。がんの進行に対する不安だけでなく、治療に伴う二次的な体調の変化(悪化)をできるだけくい止められるように毎日の微妙な変化に気を配り、少しでも健康的な生活ができるよう心がけていかなくてはと思います。

乳がんの語り

一度虫さされで腫れたが、10年経って今のところ浮腫はない。日焼けや虫さされ、湿疹などに気を付けている

浮腫で、あのー、2回目、リンパ取って後、取った後、浮腫で手が腫れるかもしれないと。1回目の後も、もう取っとうから可能性はあったらしいんやけどね。うん。で、まあ、今んところ腫れずに済んでるので。ただ1回、イラムシにかまれて腫れたんです。で、ほれは消毒と注射で治ったんですけど、「今度、何かあったらもう治らんだろう」とも言われてるし、「浮腫で腫れた場合はもう職業は、教員は続けれんだろうな」とも言われてるんで、どうぞ、ね、腫れんようにとも思いながらです。ほやから、日焼けも駄目、蚊にかまれるのも駄目、あのー、使い痛めみたいなのも駄目、ほれから、ちょっと私、アレルギーがあって、湿疹みたいなんができるんですけど、何ヶ所かできてるうちの「こういうタイプのものがここにできたら、ほれも浮腫、腫れる可能性があるよ」とも言われてるんです。で、ほれがちょっと最近ひどくて、実はこの辺にもできかけとったんで、もうとにかく皮膚科へ行ってもらった薬、小まめにつけて治さなくっちゃって。うん。だから、今の体調を維持していくために、いっぱい病院通いしてます(笑)。

乳がんの語り

何が原因で乳がんになるのかわからないが、若い人でも乳がんになることを知って、娘には早い時期から検診を受けさせようかなと思っている

どんな体質だったら乳がんになりやすいか。早い時期には、例えば高学歴でとか、あのー、乳製品をよく食べている人に多いとか、外国では高学歴な、教員であるとか、保育士さんであるとか、看護師さんであるとかに多い病気だっていうふうに…、ほれが合っているのか間違っているのか分からないんですけど、聞いたこともあるんです。でも、そう、そうとばっかりではないような気もしますし、何が原因なんかっていうのはこう…、私が調べて分かる範囲の話でもないですので、娘のことを心配もしながらも、その辺は何にも考えてない(笑)。心配だけして、何もこう建設的には考えていってないっていうのが実情なんですけど。
ただ、あのー…、結婚してなくても、早い時期から検査だけは、この子は受けさせとかなんだらいかんかなっていうふうには思ってます。っていうのは、一番最初の私の入院のときに、同室に、20代、二十歳になったばっかりの大学生のお嬢さんがやはり乳がんで入院してました。ああ、こんな若い人でもなるんだっていうんが、私にも、自分のこと以上にショックだったのもありますので、娘にはひょっとしたら10代の終わりから、マンモグラフィーぐらいは受けさそうかなっていうようなんはどっかに思ってます。

乳がんの語り

娘の授乳中にしこりに気づいた。お乳が詰まっていると思ったが、断乳してもしこりが続くので、義母に相談したところ、それはおかしいと受診を勧められた

で、あのー、娘ができて、最初、ほのー、息子のときもそうだったっていうことも、もう丸っきり忘れていたんですが、うーんと…、娘がお誕生日も近いし、もうあと1~2ヶ月で職場も復帰しなければいけないからっていうころ、まあ、10ヶ月を過ぎていたころだと思うんですけど、そのころから、あのー、右のお乳は出にくいな、もうはっきりと、吸うても吸うても出よらんなっていうことが気になるようになりました。で、こう、触っていくと、何かぽつんとあるような気はするんですが、それがどっかお乳の乳腺が詰まって、そこにお乳がたまっている、しこりができていると私は勝手に思っていました。で、娘もそうやって出にくいのは分かっていても、右のほうばっかり好んで吸うので、左のほうを吸わせると、お乳にむせて吸いにくいっていうようなことがありまして、もう右ばっかり吸うので、まあ、詰まり…、詰まってはいても、娘にとってはこっちがいいんだろうっていうことで。娘が好むから気にならないっていうような状況がありました。
で、もう8月ぐらい、9月のお誕生日の子ですから、8月ぐらいにもうお乳をやるのを極力控えよう、夜だけにしようと思ってしていくと、左のあの溢れるようなお乳が自然に止まってくるの…、くるんです。出にくくなってきていたんです。で、夜だけはもう、あのー、お乳を作って飲ませるのが面倒かったので、あのー、飲みたいと言うてきたら、そのままお乳を吸わすっていうようなことをしていましたが、右のほうのあのぽつんと詰まったような、柵ができたようなところがいつまでもあります。で、ちょっと気になって家族に話すと、「それ、ちょっとやっぱりおかしいんでないか」と。「ほれ、乳腺が詰まってるったって、いつまでも」、おばあちゃんも「それはおかしいんでないかな」って。「詰まっても、あのー、断乳していると自然になくなっていくもんやし、そんなんがあるっておかしいよ」って言われて、「病院、1回行ったら?」と言われたんやけど、あんまり、私自身はそう深刻に受け止めてなくて。で、乳がんっていうほうに知識もあんまりなかったので。
というのも、子ども2人母乳で育ててたら、絶対そんなん(乳がん)はないと思い込んでいたところがあって。うん。でも、あんまりおかしい。完全に断乳してしまって、職場復帰も果たして、娘のお誕生日も過ぎたのに、まだある。おかしいなと思って、娘の健診と一緒に産婦人科の先生に相談したように覚えています。