それで、やっぱり1人で聞きに行くのは、それまで何でもなかったんですけども、やっぱり嫌でしたね。それで、両親が心配して来てくれるって言ったもんですから、もうこちらからはとてもそんな頼めないし、心配はかけたくないから、1人でそれでも行かなくちゃなと思っていたんだけど、「来てくれる」と言ってくれたときに、本当正直なところものすごくほっとしました。ただ、本当に、ただ来て、後ろにいるなんですけれども、別に何を話すわけではないんですけれども、それだけですごく楽に、楽になるもんですね、あれは不思議なもんで。
それで、先生に「がんっていう結果が出ました」って言われたときに、言われても、まだ何か人ごとのような感じで、だから、それほどがんになるなんていうことを予想していなかったんですね。もう、しばらくは先生の話を「はあ、はあ」っていう調子で聞いていて。とても優しい先生で、「だけど細胞を見る限りは、そんなに、何ていうか、おとなしいものだと思うから」って言って、安心させてくださるような話だったんですけども、でも、じゃあ、じゃあっていうふうに聞けば、「だけど、不確定」という、さっきも話しましたけど。だから、話しているうちに、どんどんどんどん頭の中が混乱していって分からなくなってきたんですよね。で、分かんなくなると、何ていうか、頭が真っ白になるっていうか、むしろ何も感じなくなるというか、その日は何かボーっとしてましたね。分からなくて。
で、1日、2日経っていくうちに、だんだんだんだん事の状態が分かってきて、それでまじめに考え始めたんですけども、それから、むしろ一緒に行った両親のほうがすぐに反応してました。それで、がんなんだっていうことを理解してました。で、両親も、やっぱりもう高齢なので、いろんな病気をしたりしてますので、がんっていう知識は私よりあったんですよね。それで、「大丈夫、今はがんは大丈夫」って、一番最初に私にそう言ったんです。病院を出たときに。「もうそんなにがんだから死ぬっていう時代じゃなくて、今のがんはかなり大丈夫なのよ」っていうことを言われたのを覚えています。
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最初は、乳がんであるわけがないと思って受けたわけですから、「影が気になる」と言われても、「そんなことあり得るわけないでしょう」というようなそんな気持ちのほうが強かったもんですから、だから、細胞診で何でもないっていうことが分かったときも、「ほら、やっぱり」と思ったんですけど。その後、ちょっと引っ掛かって、患者の会でやっている電話相談に一応電話をして聞いてみたんです。
で、「乳腺専門医が勘で、『これは』って言ったのは、かなりの確率で乳がんであることが多いです」っていうことを、そのボランティアの相談の方が言われたので、ちょっとその先生の言葉を、耳の奥にちょっと止めておかなくちゃいけないなっていうふうに思ったもんですから、もうとにかく子宮筋腫の手術をして、次にその乳がんを診てもらったところは、筋腫の手術をしてもらったところにも乳腺外科があったので、手術データなんかもあるので、そこの病院で次に診ていただいたんですけども。そこでもやっぱり先生は、「こうマンモでも出ないし、超音波でもちょっと気になるのがあるくらいだけどもわからない」っていうことで、「でも、気になる」って言って、また細胞診をやって、で、「グレーゾーンで乳がんとは出ていない」って言われたんですね。「だけど、やっぱり気になる」って。だから、2人の先生が「やっぱり気になる」って言うんですね。で、「ちょっと太い針で細胞を採りませんか」っていうことで、今までよりもちょっと太い針を使って細胞を採ったんですけど、それではっきりと出たんですけども。
最初は割合に細い針だったんですけども、でも、これはすごく個人差があるらしくって、痛い人は本当につらいっていう話は聞きますけども、何か私は不思議なことに全然痛くなかったの。別に麻酔も何も使いませんでしたけども、で、太い針(生検)のときも「鉛筆の芯ぐらい」って言われましたけど、「え、そんな太いの?」って思いましたけど、何にも感じなかった。痛くも何ともなかったですね。で、まあその細胞の部分を採るのに結構こう中で動かす、針を動かすんですよね。で、その動かす感じがちょっと気持ち悪いっていえば気持ち悪いですけども、それはもうそっぽを向いてて見ないようにして、そしたら、痛くなかったですね。だから、本当に個人差は大きいんじゃないのかと思います。場所とか、いろいろあるんでしょうね、あれも。だから、そうですね。痛い痛いって実際にはそういう話は聞いてたんですけどね、何か拍子抜けするような感じでした。
やっぱり早期発見というのは大事だっていうことは、本当に感じています。だから、私なんて本当に45過ぎまで乳がん検診を受けたこともなかったのに、運が良かったんだと思うんですけども、特に乳がんは早く見つかればそれだけ治る病気だと思いますし、こう同じ乳がんをやっている友達なんかでも、「怖い病気じゃないのよね」って言うんですよね。ただ、やっぱり亡くなる方がいるから軽くは考えられないけども、かなりの人が治るし、だから、そんなに怖がらないで、とにかくきっちり、検査を受けて、それでそんなに進行が早い病気ではないので、まあ心配することもそれほどはきっとないんだろうなと思います。
でも、実際、家の中に入ると、主人も何も本当に全く語らない。「大丈夫か」の一言もなく。で、今になって思えば、主人も本当にどうしたらいいか分からない状態で、もうとにかく、どう接したらいいか分からないからっていうことで、多分、葛藤はしてたんだと思います。でも、そのときは、そんなことはね、もう全く考えられない。相手のことなんか考えられない。何でうち帰ってきて、2階に上がってきて、私の部屋のドア開けて、「ただいま」、「おかえり」、「大丈夫か」って、何でその言葉掛けがないの? できないの?ってずっと思ってたんですね。で、やっぱ体調がいい日だと、お友達が「体調よくなったら出ておいで。ご飯、食べに行こうよ」っていうふうだったんで、体調がいいと外に出て、ご飯食べたりとかはしてたので、主人も、「外に出れる元気があるときは、おれも本当は助かった」って。今になって言うんですけどね(笑)。そういうのを本当は自分がやってやれなかったっていうね。まあ、それはもう、今、本当に。そのときはもう、何で? 何で?っていうのがあって、家を出るっていうことで。で、もう主人も、「自分がいて嫌な思いするんだったら、離れてもいいよ」っていうようなこと言ってくれたから、じゃあ、別居っていう形でね、したんですけどね。
10ヶ月後に、復帰したときに、やることはないけど(笑)。今までさんざんすごく忙しくて、会社の中で動いてたのが、「やることがない」って言ったら、「取りあえずリハビリ。もう会社に来るだけでもいいから、慣らして」って言われて。その、(会社に)来ることをまず、リハビリをするような感じで、3ヶ月。まあ、あの、産業医の先生が「1ヶ月半は午前と午後、どっちかの勤務で」っていうのがあったので、まあ、産業医の先生の、このご指示もあったっていうことで。で、午前か午後か。でも、「午前行っても、午後行っても、ずっとやることないんだけど。私ってもしかしてこれ(クビ)?」とかって思っていたんですが。
やっぱりちゃんと会社はそれなりに考えてくださってて、体調のほうもだいぶ安定したときにね、「じゃあ、今までやってた仕事と全く違うんだけれども、やってもらえるか?」ということがあって、初めて私、経理なんてやったことないんですけどね(笑)、経理の仕事、総務関係の仕事って言われたときに、もう本当にありがたくてね。「もうこの年になってできません」とかそういう問題じゃなくて、わざわざ(ポジションを)作ってくださった、今までの仕事はもうストレスが多いからってことで外して。で、与えてくださったっていう、すごいありがたいと思いましたね。
取りあえず、言わなきゃいけないっていうのもありますので。まず検査結果が出た段階で、乳がんだっていうことで上司に伝えたんですね。で、そのときの私の気持ちもそうだったんですけど、上司もすぐ治るもんだという感覚だったんで、「あ、そう。じゃ、手術して、1~2ヶ月ね」っていうような感覚だったんですね。
で、だんだんと……。あれ、何か様子が……。私もそうなんですけど、会社側も「どうもだんだん深刻になってってるよ。これはちょっと」っていうふうになってきた段階で、私の中でも、「これはもうすぐには復帰したいって思ってもできない。で、会社のほうにも迷惑かけちゃいけない。早いとこ言わなきゃいけない」っていうことで。
今までは会社のこと優先に考えてきたんですけど、会社って結構非情なもので、病気になっても何一つ、何もやってくれないっていうのがね、分かった部分もあって。これはもうはっきり言わないことには、隠したりとか、言いたくないことも、伝わらなければ、同じことの繰り返しなんだなと思って。もう「実は、がんで、こういうふうで、転移してて、もう私、髪の毛もないし、会社行きたくないし。で、ましてやそのストレスの多い職務で、はっきりいってがんになったの、このストレスのせいかもしんないよ」みたいなこと(笑)。本当にもう、要は自分を守る本能か何かでたぶん、そういう言葉が出たんだと思うんですけど。もう隠してもしょうがないし。実際、本当のことを伝えないと、会社は動いてくれないと思ったんですね。だからもう、本当に正直に、もう隠さず普通に、話をしたら、会社側がちゃんと考えてくれたっていうのがあって。
11月の半ば。9月に始まって、完全になくなったのが、1ケ月ぐらいで。もう本当に完全に、ツルンという感じでなくなったときには、もう。体中の体毛が全部抜けるんですよ。眉毛から睫毛から全部。で、顔も腫れぼったくなっちゃって、「これは、ああ、すごく嫌だな」っていう。もう、もうとにかく嫌だなって。もう人に会いたくないっていう気持ちもあるんだけれども、何か、自分の中でね、「家にこもったら絶対に駄目になっちゃう」っていう何かが働いたんでしょうね。お友達も、そのときに、「外に行こう。行こう」って。「嫌だろうけれど」。人混みは駄目だって言われてたから、「人混みじゃないところで、例えば、日帰りの温泉で、貸切湯ができるところもあるし、ね、そういうところ行こう。おいしいもん、食べに行こう」って。かつらは、一応、用意はしてあったんだけれども、どうもかつらに違和感があって。その用意をしたのがね、髪の毛があるときのサイズで用意しちゃったから、合わなくなったので、で、合わないから、なかなかやれなかったんですね。で、「バンダナをして、その上にかつらやってても、どうしてもずれちゃう」って言って。で、そのかつらを直しに行くにもね、おしゃれ専門店のところで買ったやつだから、すごく抵抗があって、もうずっと帽子かぶって、お友達からいただいたその帽子とか、バンダナとか。で、お友達が、一緒にね、「じゃあ、一緒にバンダナやろうよ」って言ってくれて。もうとにかく、どっか行くんだったら、同じその100均で買ってきたバンダナをみんなで巻いて。そういう友達がいたから、家にこもらずにいられた。
もうとにかく全摘したときも、2日間見れなかったんですね。痛いとかそういう問題じゃなくて、感覚的にね、もうないっていうのは分かるんですけど、傷痕も「お風呂入っていいよ」って言われたんですけど、入院中に。お風呂、シャワー浴びてても見れない状態だったんですけど、少しずつ、やっぱ受け入れていかなきゃいけないのかなっていう。これ、私がもう、本来持ったポジティブな性格なのかもしれないですけど、「もうこんなんじゃ家にこもったってどうしようもないな」と思って最初に見たときは、まだ、あの、糸が溶けてない状態、すごい痛々しい状態で。ああ。でも、しょうがない。そのときは、もう取ってしまえば、あのー、よくなるんだって思ったから、もうしょうがない。
マンモ(グラフィ)の施設があるところ、今はもうだいぶ増えたかと思うんですけど、3年前?2年前?ちょうど今年で3年目になるから、そのころは、この住んでるところで、マンモグラフィがある大きな病院、3ヶ所しかなかったんですね。で、一つの病院は、あんまりよくない(笑)っていうのか、インスピレーションが悪かったので。で、2個目の、もう一つの病院は、できたばっかりの病院だったんで、うーんって考えて、迷った挙句、まあ、なじみのあるところに行こうかって言って行ったんですよ。
で、行ったら、たまたまその専門の先生がいらっしゃったばっかりで。で、ちょうどそのお隣の奥さんが乳がんになったときは違う先生で、専門じゃないから、(隣接している県の)ほかの病院に回されたって、お隣の奥さん。で、私は、「いや、もう今、その先生、いらっしゃらないよ。今、専門にいらっしゃってるらしいですよ」って言って、「ああ、そう」って。何か本当にね、ラッキーだったなって思って。