投稿者「sakuma」のアーカイブ

慢性の痛みの語り

痛みと疲れやすさがあったため活発な子どもではなく、一人でいることが多かった。中学・高校では教員から心配されることがひいきととらえられ、いじめられることもあった

小さいときは、いわゆる頭痛持ちの子どもでした。本当にひっきりなしに頭痛が起こるので、子どもながらにノーシンとか、そういった、今でいうロキソニンとか、そういうお薬を本当に頻繁に飲まなくちゃならないという頭痛持ちの子どもでした。と同時に、足首だとかそういったところの関節に捻挫のような痛みがすごく伴うので、疲れてくると、すぐ痛みが出てしまうという。なので、小学校ときの遠足などの写真で、集合写真とか、あの、それぞれのスナップとかあると私はいつも疲れた顔をしていて(笑)、とても、あの、しょんぼり1人で足を引きずるように歩いている写真が多いので、なかなかな面白いなと今は笑ってしまうんですが。えー、小学校のときはそんなわけで、一般の元気なお子さんのように体育ができて、快活に縄跳びとか球技ができるような子どもではなかったので、どうしても1人、あの、みんなと外れていることの多い子どもでした。

中学・高校は、まあいじめだとかいろんなこともあったんですけど、やっぱり専ら、いじめの中心なのはやっぱり体が弱いということに一番あったように思います。あの、やはり先生方がすごくひいきしてくださったりとか、心配してくださったりというようなことと、みんなと同じようには生活、まあできないというのがあったので。ちょっとしょんぼり寂しい学生時代でしたが、まあ、でも、あの、音楽の仕事にその後進んだことで、随分あの、その後は明るく性格も変わりました。

慢性の痛みの語り

授業中も痛みに耐えて座っているだけという感じで、外出準備も大変に思え、引きこもり気味になってしまった

冬が、私は症状が出るというか、冷たくなったりとか、冷えたりするともう夏よりも余計に痛くなって。その時期的なものも重なったのか、退院してから、え、退院したのが夏…くらい。夏の前ぐらいかな。だったんですけど、夏越え、秋口ぐらいからもうまた症状が悪くなってきて、えー、もうまた引きこもりがちになって、もうリハビリ、なんとかリハビリには行くみたいな。でも、もうリハビリに行くのがもう外出ぐらいで、そのほかは家に閉じこもってしまうみたいな症状、状態になってきていたので。学校もあったんですけど、もう休んだりとか、たまに行ってももう、右利きなんですけど、ノート取ったりもできないし、もうずっと授業中も座ってるだけという感じで、もう痛みに耐えているだけみたいなふうに自分で思ってくると、もうこれはまず外に出る外出準備をするだけでも大変だしとか思うと、なかなか引きこもり気味になってきて。

慢性の痛みの語り

学校を休まなくてはいけないことが辛かった。同級生が就職活動をしている中で自分は卒業できるのか、将来、働くことができるのかとても不安だった

結局3回手術したので、もうその度に入院が結構長期に及んで、まあその入院生活自体もしんどかったんですけど、やっぱり私、大学生だったので、学校を休まないっていけないというのも結構つらくて。まあ普通に行かないと単位も取れないから、もう、このままではずっと、もうこの入院だけで済んで、もう学校戻って頑張ろうみたいなふうな見通しも全くたってなかったので、このまま、また手術繰り返したりとか、入退院繰り返しているんだったら卒業できないんじゃないかっていう、そっちの不安もあって。で、先生からはもう休学して、今は治療に専念したほうがいいんじゃないかとも言われてたので、結構迷ってるところもあったんですけれども、結局は、かなり休んでいたんですけれども、休みながらも行けるときだけ行って、何とか単位を取るっていう形で。一番初めの――にケガをしたのが大学2年生の冬だったので、何とか、3年、4年って一応上がることはできて、まあ卒業、結果としては今一応、卒業、予定どおり卒業できたんですけれども、かなりカツカツ(笑)で。
で、自分の中でも結構迷いがあって、普通に周りのみんなは、うーんと、4年生になる、えーと、3年生の冬ぐらいから就職活動が始まって。で、もう4年生の春から夏にかけては内定が決まってというふうなみんなの流れの中で、私はもう卒業できるかもわからないし、就職活動もみんなと同じようにはできていないし。今卒業しても、もうどうしようみたいな。このまま普通に一般企業で働いていくことできるんだろうかっていう不安がすごいあったので。うーん。治療、その、必要な治療。えーと、入院が必要だと思ったときに必要なだけ入院するというのは、もちろん自分の中では大事だったんですけれども、やっぱり学校とどういうふうに、学校も行きたかったので、どういうふうにしていくかっていうのは悩んでいたことです。

慢性の痛みの語り

病気をきっかけに勉強したい気持ちが強くなり大学に編入した。仕事と学業の両立は大変だが先行きの見える人生を送ることができていることに満足している

私は、就職して、再就職して3~4カ月後ぐらいに、ある…資格試験を受験をして、合格しました。それがきっかけで、あ、ちょっと自信がついて、記憶力がこう普通のレベルになってきたのかと思いまして、無謀にもちょっと大学編入を、志してみようって思いました。
この病気を治るきっかけをつくったのが海外の文献だったので、もっといろんな病気の海外の文献をもっと読んでみたいっていう、こう、欲が(笑)芽生えてきまして、うん、勉強しようと思ってトライしてみたんですけれども。一からまた勉強し始めるっていうのがなかなかこう、どう踏み込んでいいのかわからず、編入学のための予備校に通い始めました(笑)。その当時、夜勤専従の常勤だったので、月当直20――あ、すー、10回ぐらい。16時間勤務を月10回、しながら、予備校に通って勉強して、半年ぐらい、に、こう、今の大学の試験を受けて合格しました

今まだこう、月曜に――平日、大学生活をフルで送って、で、週末は……夜勤を、16時間夜勤して。で、日曜日、またちょっと別の病――学校に行って勉強をして、ダブルスクール通っているんですけれども。端から見たら、「すごくストレスかかってるような日常生活だね」とよく言われますけれども、私からしてみれば以前の、その……、病気の治療をして、部屋に閉じ込められたような、日常生活に比べたら、まだ、だいぶ先行きの、見える人生というか、そういうふうなものが送られて、大変だけど、満足してます。

慢性の痛みの語り

薬剤師としてデスクワークはこなせるが、痛みでしゃべることができず、会議やセミナーなどに支障がでた

やっぱりしゃべれない。うん。で、まだそのときは、物は食べれてましたね。物は食べれてたので、いけてたんですけど、とにかくしゃべれない。じーっと黙って、まあデスクワークですからもともと、なので、その、じっとやってる分にはいいんですけど。あ、まあ、さっき言ったみたいにセミナーをやっているからセミナーやらなくちゃいけなくて、前でしゃべらなくてはいけないというのもできない。会議ができない、授業ができない。そういう、できにくいみたいなのがすごいやっぱりあったですね。それでも、テグレトールを飲みながら、だいぶ頑張ってました。

慢性の痛みの語り

痛みのため集中できなかったり、疲れで自分のリズムで翻訳の仕事ができないということがある

――その痛みは、あの、ご自身のお仕事にはどういうふうに影響がありましたか。ちょっとお仕事のことも差し支えない範囲でお話いただいて。

はい、はい。えー、翻訳・通訳で、主に翻訳の仕事のほうが多いんですけれども。まあ締め切りがある仕事なので(笑)、締め切りに間に合わさなければいけないというのはありますけど…。やはりこう、で、締め切りがあれば締め切りには間に合わせますけれども、通訳もやっているときは…やれるんですけれども……。翻訳なんかをやってて、こう、どうしても自分がもっと集中したいのに集中できないというのは、どうしても…、ありましたね。あとは、その痛みがあって、ひどいときにその夜寝られないとか、そういうときは疲れが残るので。そういう意味では、やはりこう自分が…、もっとやりたいリズムでできないなというのは、やはりありますね。
あの、痛み…、その一日中、痛みを意識しているわけではないし、痛みのことをずっと考えているわけではないんですけれども、おそらく知らず知らず気にしているときがあるので。時々あの、例えば出かけたときなんかでも、あの、子どもが、「ねえ、また手さすってるよ」って言ったりするんですね。だから、自分で意識してないんですけども、やはり手の感覚がおかしいので、知らず知らず、こう手を撫でているときがかなりあるらしくて。自分自身としては、その痛みのせいで集中できないとか、痛みのせいで疲れてるというふうには一々考えないんですけども、おそらく自分で意識しないでいても、どこかこう、手が言うことを聞いてくれてない部分はあると思います。

――その痛みがあるから集中できないっていうこととは別に、その、物理的にというか、例えばペンが持てないとか、キーボードが打てないとかそういうことはないんですか。

私はそこまではいかないんですけども。あの、朝起きたときに、朝起きて、すぐやれと言われたら、あの、難しいかなと思うんですけれども。そのひどく、その石のようにこわばって痺れているときは、きついかなとも思いますけども。朝起きて、いろいろ動いているうちに、まあ血がもう少し通ってくると、そのこわばり・痺れ・痛みが少し和らぐので、そのキーボードを打つ時間に――のころには、キーボードを打つとか、あの、ペンを持つということが難しかったということはないんですけども。

慢性の痛みの語り

職場を変えてもらったが痛みは消えず、どうしてもしなくてはいけないことは休み休み時間をかけてやったりしてやり過ごした

機械を扱って仕事をしてたんで。あのその、自分の判断で動ける部分もあるんですけど、機械が動いてるから、どうしても仕事のペースって機械に合わせなくちゃいけないじゃないですか。と、それと、その化学物質のちょっと触れる場所があって、皮膚炎がひどくなったのは、まずそこで、あの、職場を1回替わったんです。
でも、その替わった先でも、その痛みとかは、まああの、一応、化学物質には触れない、皮膚炎は治まったんですけど、痛みが全然消えなかったので、やっぱり体を使ったりとかも、ほかにものを運んだりもするので、だんだん体に負担のかかることをちょっとまずいなと思って。それも自分のペースでゆっくりはできるんですけど、でもその、例えば物をほかの職場に届けなくちゃいけないというときに、相手はもう時間が決まっているんで、いついつまでしなくちゃいけない。でも、僕は調子が悪いから、そんなに早くできないみたいなことがあったら、どうしてもその辺って、こう、自分にストレスになるじゃないですか。そんなのもあって、ちょっときついこともあったんで、ちょっと休みますみたいな感じが続くようになったという流れですかね。ちょっとうまく言えませんけど。

――なかなかその、自分で伝えきれなかった部分は、ある程度こう我慢して、ずっと仕事を続けていたというような状況があったんでしょうか。

もうどうでもしなくちゃいけないということがあれば、もう時間かけるしかないんで、休み休みやったりとか。あの、普通の人が例えば短時間でできることを、自分はちょっとゆっくりやってみたりとかっていう感じで、まあ何とかこう、やり過ごしてたっていう感じですね。

慢性の痛みの語り

夕方、痛みが強くなってもデスクワークは続けるようにした。任された仕事や立場上、今はなんとか乗り切って頑張りたい (テキストのみ)

午前中に少し、えー、肩が凝ったなとか、肩と首が、あの、凝って痛いなというふうに感じまして、忙しくて、あの、そのままにしておきますと大体子どもたちが帰って、4時、5時ぐらいなりますともうそのころには、もう頭痛がかなり進んでいまして、自分としてはもう、薬を飲まないとどうにもならない状況に大体なっております。ので、急いで、えー、薬を飲むんですが、飲んでも、うーん、もうあの、治まるっていうことはまずなくて、良くてちょっとさっきよりは軽いかなっていうぐらいになるぐらいで、ほとんど頭痛が治まるということはありません。
それで、でも、あの、仕事がありますので、えー、仕事をし続けていますと、えー、今度は首を動かしたり、目を開けたり、呼ばれても振り向くことがもう苦痛になってきてしまって、あの、痛みが両側、あの、波を打つように、グオン、グオンという感じで、あの、できず、物を書こうと思って下を向くと、痛みがまたガーンというふうに強くなって、下を向くこともできず、もうどうにもならないなと思って、でも自分のデスクワークだけはしなくちゃいけないと思って、あの、続けるようにしておりました。

このまま体のことを考えたり、生活リズムのことを考えたりすると、あと何年ハードな職場で、あの、続けようか、いつかはやはりもう少し、こう心と体にゆとりのある、えー、職場とか生活したいなというふうに考えてはおりますが、今はそうですね、任されたこととか立場もありますので、もう少し何とか片頭痛ともつき合いながら、何とか乗り切りたいという思いが自分の中で強くありますので、何とかやってみたいなというか、このまま頑張りたいなという思いが強いです。

慢性の痛みの語り

痛みのために休職・復職を繰り返した後、しっかり2年間休んだ。復職するつもりだったが会社からもう雇い続けることはできないと告げられ退職となった

――先ほど、お仕事を今はしていらっしゃらないっていうことだったんですけど、痛みが出始めたときはお仕事をされていたということでよろしかったでしょうか。

はい。あの、仕事してました。で、あの、だいぶ、うん、ちょっと何年までしたというのは……、あの、ちゃんと見ないとわからないんですけども、かなりの年数働きました。会社のほうも結構その配慮してくれて、2年間休んだら退社ということなんですけど、その2年というのがきちっと決めてなかったので、ばらばらの2年間ということで休んでも、書いてないから。あの、続けて休んで2年間なのか、ちょくちょく休んで2年間なのかという決まりが決めてなかったので、ちょくちょく休んでもうトータルとして2年間は休んでいたんだろうけども、決まりが決めてなかったので、そのことは、もうあの、なかったことにしてくれて働けてたんですけども。腰椎の圧迫骨折(38歳)をしたときに、えーと、もう、「2年間しっかり休んで治してから出てきてください」というふうに言われて、しっかり2年間休んだら、「はい、退職してください」っていうふうに言われたので、うまくあの、会社のほうも考えたんだなっていう。でも、今までこう、2カ月休んだりとかが多かったのに働かせてもらったので、しようがないな。でも、ずっと働きたいな。そのときは生活ができるか、すごい不安だったので、もうどうしても働きたいというふうに言ったんですけども、会社としても、もう雇い続けることはできないと言われたので、もうしようがなく退職はしました。

ショックでした。それ、聞いた(とき)。もう本当に、えーと、1回目来たときは、あの、「退職ですよね?」っていうふうに。もう本人も退職するって考えてるだろうなっていうふうに人事の人が思ったみたいで、「退職ですよね?」というふうに言われたんですけども、私としてはもう働くつもりでいたので、「働きます」っていうのをかなり言ったので、そのときは、「いったん、じゃあ、社のほうに戻って、上司と相談してきます」ということで帰られました。2回目来たときに、「もういろいろと上司と相談したけれども、今までのその働いた状況、何度も入退院を繰り返してたりするので、その、会社として雇っていくのはちょっと困る」ということを言われて、「もう辞めてください」って言われて。その人たちがもう帰った後というのは、もうショックが大きくて、もう今まで堪えていたものが大爆発して大泣きをしました。

慢性の痛みの語り

20代は男性の多い職場できつい仕事を割り振られても「生理のためつらい」と言いにくく、無理を重ねていた。そのような状態が続くことに限界を感じ退職する決心をした

それからあの、遠足や移動教室で山登りにつき合わなければいけないときがある。で、20代のまだ、新人のまあ、要は元気のいい教師であるっていうふうなことになりますと、もう誰よりも、一番若さがあって、元気があるだろうからということで一番体を使う部分に配置をされてしまう。でそういうときに、たまたまその1年に、まあ3回ぐらいあります非常に大変なときに当たってしまったりしますと、その、苦しいんですけれども、「今、生理中で生理痛が重いので、ちょっとつらいです」っていうふうなことはやっぱり言えない、わけです。で、当時あの、中学校の中では確か男性の先生が7割ぐらい。で、女性の先生が3割ぐらいで、えー、幼稚園や小学校に比べると男性のほうが多い。そしてまた、あの、生徒たちもちょうど思春期の生徒たちが何百人もいる。そういうふうな中で、非常に痛いな、苦しいなって思うんですけれども…、やっぱりそれがこういう理由で先生は具合が悪いんだっていうことが言えない状態で、こう、ひた隠しにしながら、もう表向きは誰よりも元気で、もう誰よりも本当に仕事が楽しく。仕事が楽しいのは本当にそのとおりだったんですが、苦しいのは、いかんともできないので。その非常にこう離れてしまった気持ちを抱えながら、何かどこかでこう自分と周りをだましながら懸命に仕事をしていくような状態で、社会人としての最初の日々を過ごしていました。

ただ、そのうちに、もうあの、仕事をしていて最後のころになりますと、やはり会議をしているときに、「あ、でも、あなたは体が弱いから、あの、この仕事になっていただきましょう」というふうに、男性の同僚から言われることもあり、それはあの、本当に切ない、あの、し、またつらい、あの、言葉だったなというのはあります。やはりそういうことがだんだん多くなるにつれて、「あ、やはりもうこれは30までだな」ということで決心が変わらなくなりました。
ただ、あの、やはり周りでは、「本当に、後悔はないの?」、その持病のせいで辞めるということをあの、ほかの人は知らないですので、あの、管理職からもやっぱり一時の気の迷いでそういうふうに言っていることで、後で後悔するんじゃないか。先の人生は長いというふうなことで、随分あの、考え直すようには言われたんですけれども、やはり自分ではもう限界だと思っていたので、あの、「決心は変わりません」というふうなことで、あの、話をしていました。