元々、あの私、実は行きたい大学があったんですけど、そこ遠かったんですよね。で…、今の大学を決めた一番理由は、駅から近いからです。
で、その当時……、ヘルパーによる通学とかも認められていなかったので…、親が送り迎えしなきゃいけないってことになって、親が送り迎えできる範囲でって考えるとそこしかなかったです。
で、ちょうど、その当時、私がやりたいことができる環境、環境というか、学科があったので、そこにしたっていう感じです。
どうしても、この大学に行きたいとかでもなく、うん…、実現可能な選択肢の中から選んだ感じ。
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その中で、まあ、自分も入院して1週間ぐらい落ち込んでたんですけど、そのときに看護師さんが、まあ話し掛けて、全く病気とは、関係のない話をよくしてくれていたっていう印象がすごいあって。で、そのときだけ、その患者としての自分というのじゃなくて、この自分本人を見てもらっているような感覚にすごいなったのがあったんですけど。
まあ、それが多分心のどっかにあって、その看護師さんっていいなっていう印象があったのと、そのときの主治医であったり、師長さんであったりが、もう将来看護師になりなさいっていうふうにずっと言っていただいてて。
まあ、そのときは何も考えてなかったんですけど、たまたま入院中の病院で、あのポスターがあって、その入院してる大学病院が新しく医療系の大学を開学しますと。で、そこで看護学部もできるって言うので、何かほんわりとその自分の病気、クローン病と関わっていきたいなっていう思いはどっかしらであったので、ちょうどそのタイミングが良くて看護師になろうかなっていうふうな感じで、看護師っていう道をそのとき選んだ感じです。
受験、大学選びっていうところで他の大学も考えていたんですけど、やっぱり自分の入院している病院で働きたいっていう思いが強かったので、その入院の大学病院がつくっている大学であればそのまんまエスカレーターで上がって、今のここの入院している病棟で働きたいっていうのがあったので。
で、看護師になろうと思った後にも、やっぱり自分が病気になった意味って何かあるのかなと思ったときに、この病気と関わっていったらいつかその意味は見つかるのかなっていうふうなこともあって。で、それだったらこの大学、推薦入試があるっていうのを調べたらあったんで、取りあえずそれで受けてみてっていう感じで大学を選んだんですね。
あと、まあ同じ系列の大学だったので、もう先生の主治医の、あの診断書とか、いろいろ、あの、言っていただけるから、病気があったとしても入りやすいのかなっていうふうに考えていました、そのときは。
えーと、私は、まず、高校を卒業するときに一番に思っていたことは、まず実家を出ること、が、まず一つで、県外にまず出るというのが一つと、親元を離れるということと…、っていうのが、まず第一で。まあ、将来の夢もないし、何かしたいわけでもないし、まあ、とにかくこれだけが目標で、いました。
で、自分自身は難聴だということとか補聴器をしていることは、うーんと、誰にも言ってなかったので、自分が言ったことはなかったので、親が担任の先生にだけは言っていたんですけど自分からは誰にも言ったことがなくて、ずっと隠して生活をしてきていたので…。
大学に行きたいというよりは家を出たいという気持ちだけでいたので、大学、さあ、さて、どうしようかってなったときに担任の先生が、まあ、やりたいことがないんだったら教育大に行ったらいろんな専門の先生がいるから、そこに行っていろんな勉強をして、何か好きなことを選んだらいいんじゃないかっていうのと。
あと、その、ある教育大だと、その聞こえない人に対する、支援というか何か、あなたにとっていいことがあるかもしれないから、ここはちょっとお勧め、まあ、お勧めというか推薦できなくもないよという話をいただいたので、推薦してもらえるなら、と思って決めました。はい。
まあ、もう一つは、そういう勉強のストーリーとは別に、日常生活の全てを親に頼っている生活自体に先がないとどこかで思っていまして。
だから何というんでしょうか、一方では数学は勉強したいという文脈と、もう一方では、あの、親のほうが先に死ぬのでしょうから今のままの暮らしは持続可能ではない。なので早めに、その親元から離れて、えー、親や家族以外の人に支えてもらう暮らしを構築しておきたいというふうにも、これは、まあ中学ぐらいからずっと思ってきたことだったので、その2つの、文脈ですかね。こう数学勉強してみたいっていうのと、親に頼らない暮らしを構築したいっていうことの2つの文脈が合流して…、あの、逃げようと、逃げようと言うと語弊ありますけれど、えー、親元から900キロメートル以上離れようと。
900キロメートルというのはなぜ算出されたかというと、当時の公共交通機関で日帰りが無理な距離というおおよその距離で、で、そういうふうなことを高校3年生で思うようになりました…。
なので、えーと、まあ、一人暮らしをするっていうことも一つの当時の私の目標でしたし、えー、まあ、どちらかというとそちらが主な大きい目標ですね。
それで、親は反対しましたけれど…、あの、今ここで、じゃあ一人暮らししないと、ここでやはり自分の……、全くビジョンはないけれどもここで譲ったらいけないことだけは分かるというような感じで、えー、親の反対を押し切って選んだようなところがありますね…。
で…、当時はほんと狭い世界だったので、親を説得する材料もそれほど知恵がなくて、受験勉強で現代文の過去問を解いているときに、芥川龍之介の遺書が出題文になっていたんですけど、そこでその、そこに書かれていたのが自殺した芥川龍之介が子供に宛てた遺書で、どんなに反対、されても、お母さんからどんなに反対されても自分の道を貫きなさいと、それがやがてはお母さんの幸せになるからっていう出題文を見たときに、あ、これは使えると思いまして、夕食時にそれをそらんじたんですけれども、母親を前に、これで説得できるんじゃないかと思って。
しかし…、全く効果がなかったのをよく覚えていますけど…。なので交渉は、あの、少し必要でしたけれども…、そういう理由で大学を選びました。
えー、何かこう、大学で点字受験が認められてるところを探すのには、まあ一校、一校、一応電話して聞くしかないので電話したんですけど、意外に認めてもらえなくて、大体36校ぐらい電話したのかな、私立。で、(点字受験ができたのが)6つぐら、6つだったんですよね。
――そうすると、もう受験自体はそんなに交渉したりとか、相談したりとかはなかったんですか?
あ、だから36校電話したうちに当たったとこにしか結局受けに行かなかったから、もう36校の30校は、だから、もう考えに入れなかったんで、初めからね、そこのどっかに行きたいとか、どこかで行きたいところにこう何としても、何というか、こう認めさせるとか、そういうのはしなかった。もう、あるところに行ったっていう感じ。
で、大学を探したら、普通の大学は、まず面接があるんですね。で、面接は、どうしても、逃げたかったので、面接ないところを探しました。
――面接が嫌だと思われていた理由をちょっとお伺いしてもいいですか。
今でこそ、パソコンが普及して、パソコンが庶民の生活の中に入ってくるのが当たり前な時代になっています。
でも、私が学生になろうとしていた頃は、パソコンは高級品で、まあ、“ボンボン”が持つものだろう、超一流の貧乏人には関係ないなって思ったことと、今でこそ代替コミュニケーションが普及して、iPod、パソコン、トーキングエイドなんかでガンガン話をしてもあんまり何も言いませんが、昔は結構それが駄目なことなんだ、悪いことなんだっていうふうに、言われる風潮が強かったんです。だから私もパソコンで話をすると、大学は私を通さないだろうっていうふうに、思っていました。
大学に入ろうとしたきっかけというのは、学校の友達とかが大体大学に、入るって言っていたので僕もそういう、そういう何て言うの、そういう雰囲気とかに乗っかって、自分も大学に、行こうというふうに、考えてました。
あと、大学に入るに当たって、まず、大学を、こう探すときに、オープンキャンパスに何カ所か行きましたね。で、オープンキャンパスに行って、えー、何だ、設備面とか、エレベーターがあるかどうかとか、そういう教室にそういう設備が整っているかどうか、バリアフリーかどうかとか、そういうことをちゃんと、そういうのをチェックしましたね。
そういうのをチェックして…、入る、どの大学がいいかっていうのを、決めましたね。
(高校受験の受験拒否がトラウマで、大学は障害のことを伝えずに受験をしたら、)一番ひどかったのは大学名言いませんけど、あの、(受験の試験が)終わった後にツカツカって人が来て、「ちょっと別室へ来てください」って言われて、あんた何で黙って受けたんだというような、障害があるのに何で受けたの?みたいなことを平気で聞いてくる学校がありました。ありました。そういう時代ですよね。
――ちなみに、それは、何て答えたんですか、その「何で黙って受けたんだ」って言われて。
何だろう。何だったかな、覚えてないね、もう。全くやり取りは覚えてないんですけど、そういうことが1回、2回あったことは。1回かな。もう1回かな。あったことはうっすらと覚えてますけど。何言ったかとか、言われた瞬間に頭真っ白になったし、もう自己採点する気もなくなるし、もう…、この学校には来てやんねえやぐらいで終わるので…。それ、全部終わった後でした。問題解いた後に、その後に言われるわけですね。それはショックですよね…。
まあ、そういうことがどういうことかっていうことが分かるには、そこから10年ぐらい、10年ぐらい時間がかかって、まあ、あんときのあれはこういうことかっていうことが分かるようになるという感じです。
うん。でもね、歴史的にひもといていくと、やっぱ、1985年ぐらいから特に、あの○大(中部地方にある大学名)とか、あっちのほうでは障害学生の待遇改善運動みたいなのが、起こっていたのは、その時代ですよね。
まだ他の大学ではほとんど認識がない時代で、数少ない視覚障害の方で、今じゃあ有名な方、えー、もう亡くなっている方なんかは、その時代、もうちょっと前に、大学に入っていく、これは障害学生支援の黎明(れいめい)期というか、まあ、黎明期以前、前史にあたるような部分だっていうことが、えー、分かるのは、えーと…、やっぱり10年ぐらいかかる、かかった後で、当時、わかこま(八王子市にあった自立生活センター・「情報」という視点から障害者支援を行っていた)が大学内の調査をするのは94年なんですね。だから、私(が大学に)入った次の年。
当時、私、そのことを知りませんけどね。うん。だから障害福祉の発展が始まっていく、そういう中を、(自分は)生活していたんだなということは分かる。
病気自体は、もう最初から、あの願書にも備考欄にクローン病でということは書いていて、それを隠して進学するっていうつもりは全くなかったですし、それで落とされるんだったら、そこの大学には行かないっていうような感じで。
今は、今だったら(診断されてから)15年たって、ある程度病気である自分っていうのは確立していると思うんですけど、(大学入試の)その頃は、まあ、まだそこが一致していないところもあったんで、そこ(入学した大学)で、病気を持ちながらも、それはそれとして、自分は自分として進んでいけたのは、その先にもつながっているのかなとは思ったりしますね…。あと、何かありますかね。
――じゃあ、そのときにその、ご自身にはもう願書の所に、もうしっかり書いて、で、そのことを、例えば入試の面接で聞かれたりとか、そういうことはありましたか?
面接がなかったので、もう何も、そのまま合格っていう通知がきて、ですね。何か、その受験して、合格してっていう流れの中に病気は全然関係なく…、受けたっていうのはありますね。
AO入試なんで、面接とか、あったんです、ですけど、その、その面接の時間を人よりも1.5倍近く長くさせてもらったり…、させてもらって……、長くしてもらったり、あとは…、そうですね…、長くしてもらったりしました。してもらいましたね…。だから、ちょっと…。
でも、質問されることは大体みんなと同じだったんで……、そのときはすごく汗かいたって、汗だらだらで、集中しなきゃいけないんだけど、集中をするのも、もう大変で…、いざ面接本番になると、汗でもうべとべとで…、1人で1対2の面接だったんで、まあ、いつもは、横にヘルパーとか母が、いるんですけど、そういうわけにもいかなかったので、1人でもうしゃべって結構大変だった、大変だったです。大変だったんですね。うん。そうですね。あのとき、結構つらかったです。
まあ、でも合格したんでよかったと思ってます。
――そのときは、こう面接の会場の中にヘルパーの方が入るとか、そういう選択肢はなかったんですか。
そう。はい。そういう選択肢は、なかったですね。そういう選択肢は考えたこともなかったというか…。うん、そうですね。考えたことはなかったから…。
でも何か、母が介助なのは何かそういう、何か、何でその、そういう…、何て言うたっけ、関係が深いから駄目ですみたいなこと、ことは、言われたかな…。そういう…、ヒントを与えるんじゃないけど…、駄目だって言われたような気がします。
――その、ご自身がこう話をしているときに汗をかいてしまうっていうのは、これは体質でいらっしゃるんですか?
そうです。はい、そうですね。体質ですね、これはもう。常に力が入っているので、常に緊張、筋肉が硬直したり、緊張しちゃったりしているので、それも汗が常にかいている、常に筋肉が緊張しているので…、汗がもう、汗をかくんですね。
――やっぱり話をしているときとかのほうが、汗はかきやすいとかありますか?
はい。やっぱり話をしていると、どうしても緊張しちゃうんで、やっぱ、汗をかいて、そのときに…。
あとは汗をかくときは、実はこう計算するときとか、本を読んでいるときとか、そういうときは結構…、脳で集中したりしているときは結構汗をかいたりしちゃいますね。そういう…、そういう、勉強をしているときとかもそうですね。