投稿者「dipex-j」のアーカイブ

障害学生の語り

体調を崩して休学したときに代わりにサークルの運営を担った後輩以外には病気のことは話していなかったが、それは障害があってもやろうと思えばできるということでもあった

――その、活発に全国からその情報を集めたり、後輩のためにその資料を残し、残したりというか、自分で、続けていくような、そのシステムを整えていく、その仕組みづくりみたいなのをすごくされたんだなって思ったんですが。そういうのをやっていたのは(大学3年の時に1年間休学して)復学した後にされていたんですか?

あ、いや。あの、在学中を通してやっていました…。なので、まあ。ただ、部員の中には、自分がこういう病気を持っているって知らない人たちが圧倒的に多かった…、んですけど。まあ、卒業するときに、あの、実はこういう障害があってっていう、まあ…、あってもなくてもこういうことはやろうと思えばできるんだよっていうことも、うーん。最終的に、そうやってまとめちゃえば済むんですけど。うーん。まあ、逆に言うと自分の場合は言わなくてもこういう活動が成り立っている部分があったので、そこがかなり良かったかなというふうには、自分の障害のこの種類としてはプラスに働いた部分かなっていうのもありますね。

でも3年生のときに体調を崩してたので、そのときにできていた後輩には、あの…、まあ、一応体調を崩して入院しているぐらいだったんですけど、あの、自分の代わりに、あの、運営をしてくれてる人たちには、あの、これこれ、こういう理由で休んでいるっていうのは伝えた覚えがあります。

――それはこう、伝えたとき、何ていうんですかね、ど、どんな感じの反応だったかってありますか。

あ、多分福祉系の大学だっていうこともあると思うんですが、「あ、そうなんですね」って感じでした。あまりこう、うん、気に留めてないって、いい意味で気に留めてないっていうか、っていう感じでしたね。

障害学生の語り

長い療養生活でパソコンに慣れていたので、大学ではノートテイクのボランティアサークルに参加した。廃部寸前だったが、1年生で部長になり卒業するまでに立て直すことができた

ノートテークという情報保障のボランティアをやっていました。聴覚に障害のある学生さんが、大学にはたくさんいたので、その方々が授業を受けるときに、先生の話していることを隣でパソコンやパソコンで入力したりとか、あとは手書きで文字にして伝えるというボランティアをずっとやってました。

――それは、何かきっかけがあって始めたんですか?

うーん。特にマインド的なものの部分はないんですけれども、パソコンをずっと、小さい頃からいじってたので、パソコンでできるボランティアってあるんだっていうのを先に、そこで知って、試しにやってみようかなっていう結構軽い気持ちで始めたボランティアでした。

――パソコンを小さい頃からいじっていらしたっていうのは何かこうおうちに、あったとか、何か、それもきっかけがあったんですか?

そうですね。やっぱり、まあ、病院にいたりだとか、うちで療養したりとかっていうことがあったので、父がパソコンを、1台、自分用にお下がりでくれたものがあったので、結構、ひたすら文章を打ったりとかっていうことをずっと小学校3年生ぐらいから、やっていたのでタイピングだけは自信があったんですが。そこで、ただ、それで何かつながるのかなっていうのはずっと疑問だったんですけれども、でも大学に入って、あ、こんなのあるんだっていうきっかけで始めました。

1年生のときに入ったんですけど、私の上は4年生の先輩しかいなくて、私が継がなかったら自動的に廃部になってた、んですけど。大学としてもあったんですが、まあ、そこだけでなくて、もっと勉強会をしようっていうので同好会がつくられたみたいなんですけれども、まだ校内に認知があまり広まって、認知度が高くなかったもので、なんで1年生の後半には自動的に1人だけ部長になってしまっていて、さあ、どうしようって思っていたりしたんですが。
まあ、卒業する頃には40人ぐらいの後輩がうまく、引き継いでくれて、で、今も結構活動はしているようです。なんで、できて10年ぐらい、ちょうどたつのかなと思いますけれど。

障害学生の語り

障害学生を多く受け入れる大学だったので、オープンキャンパスで障害のある在校生と話ができたらいいだろうと思い、オープンキャンパスの学生スタッフとして活動した

大学の2年生の後半ぐらいに寮生活にも慣れてきた頃、ちょっと気持ちにも余裕が出てきたので、大学に入学する前からやってみたいと思っていたオープンキャンパスの学生スタッフに、こう応募というか参加して、えーと、それは卒業する間際までやっていたので2年弱ですかね、行っていました。
で、先ほども少し出たかもしれないんですけど、私の在籍していた大学は、障害学生を多く受け入れている大学でもあったので、えーと、オープンキャンパスのときにも車椅子の学生であったりとか、障害をもった学生が、多くオープンキャンパスに来てくださることもあったので、えーと、同じ障害をもつ学生として、私の、うーん、大学生活を送る上で感じていることだったりとか、受験する際にこう、受験する前に行っていたことだったりとか、私が感じる学校の雰囲気だったりとか、そういうものを障害をもった受験生に伝えたいなっていう思いがあって活動していました。

――で、実際、じゃあ、(来てくださる)障害学生の方もその、入学前に見学に来られる障害学生というか高校生ですかね。

高校生、はい。

――実際話をされたりとかいうこともあったんですか?

はい。えーと……、割とこう、車椅子の、同じ車椅子の高校生であったりとか…、うーん、あとは…、視覚障害の方であったりとか…。障害をもって大学生活を送る上でやっぱり一番気になっているところが授業のサポート体制が、えーと、どうなっているかっていうところが皆さん不安が多かったみたいで、私の所属しているそのサークルでどういう活動をしていて、サポートを受けられるんですかっていう質問であったりとか、そういうものを多く、こう、受けたりすることがあったので、えーと、私が受けているその定期テストのサポートで、配慮であったりとか、そういうところも含めて受験生にお話ししたりとかもしていました。

障害学生の語り

中学の時に始めた車椅子の50メートル走とスラロームを大学まで続けてやっていて、その中でたくさんのことを教わった

――中学校ぐらいから陸上のその、を始められた。

そうです。やりました。

――具体的には、何の陸上の競技?

えーとね、車椅子にスラロームという競技があったのと、あと50メートル走を普通に走る競技があったので、それに関わっていて、そこで、えーと、けっこう、中途の障害のある方と・・・。まあ、もちろん先天の脳性麻痺の方もいらっしゃったんですけど、ものすごく年上だったんで、ほんとに頼れる諸先輩方にいろんなことを教えてもらったと思います。

――最初にご自身が、あ、陸上をやってみようかなと思ったのは、何かきっかけがあったんですか。

えーと、それは小学校のときの先生が、そういうことにずっと関わっていらっしゃって、で、小学校卒業したら行きなさいということで、もう訳も分からずに行ってみたら、そういうすてきな人たちがいっぱいいらして、で、行った、関わり始めたということですね。

――では、ご自身が、その何て言うんですかね、自発的に、例えばテレビで見てとか、そういうことではなくて誘って、われて。

じゃないです…。はい。誘われて、で、はい、いろんなことを、その教わったかなと。

――で、中学生で始められて、それは高校、大学までっておっしゃいました?

高校、高校から、えーと、国体に準じた大会で全国障害者スポーツ大会っていうのがあるんですけど、高校生からそこに顔を出すようになって大学までずっとやって、で、こっちの大学に移ってきて、ちょっとできるとこがなくなってって感じですかね。

――じゃあ、もう本当に土日は、それの練習に通うっていう。

まあ、月1~2回とかですけど、体を動かす機会はそんなにないなかで、非常に面白かったですね。

――で、大学、向こうにいらした間は、ずっと続けていらした。

やっていました、やっていました。大学の間はわりと、やっていました。はい。本当にたくさんのことを教わったので。はい。

障害学生の語り

高校時代から引き続き、大学でも囲碁部に入っていた。他大学との対局や町中の碁会所、一般の大会での出会いを通じて、同じ学生でも雰囲気の違う人たちや全く世代の違う人たちと関わることができた

あ、うーんと、そうですね。高校時代から囲碁を打っていて、で、大学も囲碁部に入って、ずっとやっていたんで。まあ、大学の囲碁部ってあの関東学生囲碁リーグとか他の大学の、えー、囲碁部とその対局をするっていうような大会もあるんですね。なんで、そういったことを通じて他の大学の、まあ、学生さんとこう交流したりっていうことはありましたね。で、そうすると、また雰囲気が違ったり、自分がいた所は、その共学だったけど、その女子大さんと、うちの大学の、えーと、女子部が対局すると、また雰囲気が違ったりですとかっていうところで、同じ学生っていうくくりの中でもいろんな人がいるなっていうのは、あの、本当に思いました。

今 思えばやっぱり囲碁もいろんな世代の人と関わるツールだなって思います。そのやっている最中は、やれ関東学生リーグで勝たなきゃとかっていうことが付いて回るわけですけど、まあ他の大学と交流するっていうのもありましたし。当然町中の「碁会所(ごかいしょ)」っていうんですけど、あの、まあ、おじいちゃんなんかがよく行くイメージかもしれないんですが、あの囲碁を打つ場所に行けば当然世代の違う人とも会いますし。いっときですけど、そのお子さん、自分の子供に囲碁を教えたいから誰か相手してくれないかって言って小さい、2人のお子さん連れて来た方がいらっしゃって、えー、その子の囲碁の相手をしてた時代もあって、逆にこう、いきなりこう年齢が、まあ幼い子供たちと囲碁を打つときもあったので、何かこう、そういう、やっぱり囲碁も私にとっては何だろう、他世代と関わる場だったなって思います。
で、まあ、女性なので、女性の…まあ、学生の大会もあるんですけど、それだけじゃなくて一般の女性の大会っていうのも、えー、まあ、都道府県レベルで、大会があって全国大会があるみたいなのがあるんですけど。そういう所に行くと、あの、お強い方々がちょうどうちの母ぐらいの年だったり、今高校生ぐらいの子を育てているお母さんだったり、またちょっとこう、それまでとは違った世代の女性と関わって。まあ、孫のように、毎年、その一般の女性の大会は年1回なんですけど、あ、「今年も来たわね」なんて言って、えー、かわいがってもらったりですとか、声を掛けてもらったりっていうのも、あって。
何かこう、それも何て言うかな、例えばうちの母親だけだったら、その1つの、えー、やり取りだとちょっとこう母の理解って進まなかったかもしれないところがあって、あの、どうして…何だろう…接し方が変化していったのかとか分からない部分って、例えばあり得るんですけど。ちょっと母とは離れた世界で母に近い立場の人とか、あるいはその上下ぐらいの年代の人と話をすると、まあ全部ではないんですが、少しこう母を理解できるようになっていくところが、まあ感じられて。そういった点でも、あの、非常にこう自分にとっては意味のある出会いだったり、交流だったりしたなって思います。

障害学生の語り

それまで全く未経験だったがバスケットボールのサークルに入った。聞こえないことで周りが困ったかもしれないが、単に「鈍い人」みたいな感じでやっていて、自分はそれなりに楽しかった

――あのサークル活動とか、そういうのって何かやってました?

あ、サークル入ってました。学部1~2年のときにバスケットボールやってます。

――それは、えーと、前から、し、あ、しょ、中学校とか高校からやっているんですか?

いきなりです、いきなり。

――それは、ちなみに何でバスケットボールだったんですか。

な、何だろう、何ででしょうね。何か、当時テニスサークルとかはやってて、みんなテニスやるもんだみたいなのがあったけど、ちょっとひねくれてたんですよね。

――聞こえないと分かりづらいんじゃないかなと思ったんですけど、それは問題ない?

それは多分、困っていたと思います、周りが。それには私、気付いていなかったと思う。うん。

――でも何となく、あの、そうか、気付いていなかったらできるのかも。

何か、互いに気付いていない感じ。私が聞こえてないことにも気付いていないみたいな。で、困っていることにも気付いていないみたいな。

――でも、そうすると一緒にできちゃうんですね。お互い気付いていなければ…

多分、いや、ただ単に鈍い人みたいな感じで、やっていたんだと思います。うん。

――でも、ご自身としては楽しかった?

私は、うん、それなりに楽しかったですけれども、やっぱりこう教えてくれる人いるんですけど、その人の話とか全然聞こえてなくて適当にやっているから、ちょっと効率は悪かったかもと思います。うん。

障害学生の語り

ライフセービングに熱中し、夏は毎日海水浴場の監視活動、それ以外の時期も毎週末練習で海に行っていた。トランシーバーでのやりとりは難しかったが、できる範囲で頑張った

――大学時代に、あの手話サークルには入らなくて、えーと、ライフセービングに。

ライフセービング。

――熱中していたっていう話だったんですけど、ちょっと、せっかく大学生のことを聞いているので、サークルの話もちょっと伺いたいんですが、ライフセービングって何ですか。

あ、多分イメージするのは海水浴場での監視活動、おぼれた人を助けるんでしょう、みたいなことはよく言われるんですけど、おぼれた人を助ける以前に、まず事故が起こらないようにするっていうのが一番の目標で…。で、夏だけじゃなくて年間を通して活動をするんですけど…。ねえ、どんな…。まあ、メインの活動は海水浴場開設期間中の監視活動、1カ月半ぐらい、7月から8月にかけてやっていて、で、もう、その期間はもう毎日クラブハウスに寝泊まりして朝から晩まで、もう海に行っているって、そういうことをやり。で、監視、監視期間の前後は、まあ、週末海に行って練習会をやったりとか、そういうことをやっていました。

――元々、それは何で始めたんですか。

勧誘されたため。何か、うん、自分の家も海に近かったのもあって海は抵抗なかったですし、あとは、結構チャラチャラしているっていうよりは、ちょっと何か真剣にできるものがいいなって思って、で、何となく入って、真っ黒になってっていう。

海水浴場開設期間以外も週末はそこに、クラブハウスに行って金曜日の夜に入り、土日と海で練習をするんですね。まあ例えば、ボードをこぐとか、スイムするとか、あとは救急、応急手当とか。心肺蘇生とか、いろんな練習を…、やる。

――実際に、そこで事故が起きたら助けに行くんですよね。

そうです、そうです、いろんな。でも、まあ、事故、まあ、死亡事故は幸いにないんですけど、やっぱりちょっとおぼれて助けに行くとか、あとは…、サーファーも多かったので、サーファー、サーフボードのあのフィンがこう、ざっくりこう当たって、そういうFA(First Aid)的なことをやったりとか、そういうのはありました。

――それは、どのぐらい、何、最初入学したときぐらいから何年間か。

あ、もう、卒業するっていうか、まあ、卒業するまで海に行き続けていたので。

――も、もう楽しかったっていう感じ。

楽しかったですね。まあ、しんどいんですけど、良かったなと思います、入って。

――元々、そういう体を動かすこととかいうのが好きなんですか。

いえ、いや。運動神経はそこまでよくないんですけど。でも、泳ぐことも抵抗なく、まあ…、やっぱり聞こえない中では結構大変な活動だったなと今思えばあるんです。例えば、トランシーバーでやり取りとかするんですね、監視中って。それもすごい聞くしかないから、頑張って聞き、周り見つつ動いたりとか。まあ、頑張り過ぎると体調にもやっぱ、すぐ影響は出るので無理せずの範囲で。例えば、私はもう海に入らず浜辺のほうで、まあ、ファーストエイドとか、迷子の対応とか、そういうふうに特化して頑張るとか、そういう、こううまく、こう自分ができる範囲で関わってき続けたかなとは思います。

障害学生の語り

病気だからこれができないというのは嫌だったので、高校・大学通じて野球をやっていた。主治医からも「自分で管理できて体調がいいならしたいことをしたらいい」と言われた

――えーと、部活に入られている。

高校も、大学も入ってましたね。

――こう、高校は野球でいらしたんですよね?大学は?

大学も野球。

――大学で、その部活をやるに当たって何て言うんですかね、運動の制限とかは、その何かをしてはいけないとか、そういうのはないんですか?

一応先生から言われてるのは、その、まあ、しないほうがいいかもしれないけど、でも、できるんだったらしてもいいよっていうことだった。主治医の先生も、したいことは、し、したらいいんじゃないっていう、あの、自分がちゃんと管理できて体調がいいんやったらしたらいいんじゃないっていうスタンスだったんで…。で、まあ、病気だからこれをやりたくないっていうのは、あ、これができないっていうのは嫌だったんで、病気があるから何か別のことをやりたいし…、野球もやりたかったしっていう。

高校時代の野球部はやっぱり高校生の野球なんで大変でしたけど、大学の野球部といってもそんな毎日練習するわけでもないですし、ちょっと週末に試合やってとかぐらいなんですごい、き、気楽に行ってたので全然負担にも何もならなかったですね。

障害学生の語り

新入生が買ったパソコンの使い方を教えるバイトを短期で経験した。学生が教室に集まり、ついていけない人をフォローする内容で、聞こえないことは特に困らなかった(筆談)

アルバイトは、大学で、短期のバイトをしました。大学の生協、大学の生協が、いたいけな新入生に変なPCを売るというのがあって、変なPCなので、アフターフォローが必要。そのアフターフォローをするというバイトをしていました。具体的には電源ボタンがどこにあるか教えるだけという、まあ、美味しいバイトでした。

――そんな変なPCなんですか。あの、じゃあ、大手のメーカーの物じゃないっていうことなんですか。

ああ、大手のやつなんですが、いろいろ使いにくいPCだった。中に変なソフトもいっぱい入っていて、やたら高い。

――そういうアルバイトの時に、学生さんたちは、まあ、手話もできなければ、まあ耳が聞こえる人たちで、ですよね。その時のコミュニケーションはあんまり困らなかったんですか。

ああ、まあ、基本的には、みんなひとまとめの教室に集まって、一括してPCの使い方の指導をする、というもの。でまあ、私は、後ろで指導についていけない人がいたら
フォローするというものだったので、教える内容は決まっている。ので、聴こえないことを説明しなくても、困っている人がいたら後ろから状況把握して適当に教えるだけで良かったです。

障害学生の語り

1年生の短期留学の経験から、2年生は長期で留学しようと思っていた。TOEFLを受けたが、時間内にマークシート形式の回答用紙に回答することができず、留学は断念した

明らかに制限を感じたのは、まあ、大学2年生のときに、1年で短期で(アメリカ留学に)行って、本当は2年生のときに、長期で留学しようと思ったんですよ。
で、TOEFLを受けたんですよ。本当に、TOEFLは時間でやるものなので、本当、半分も成績が出ない。うん。時間、時間(の制限)を感じたのはそんときですね。あとマークシートが、もうほとんど書けなかったし。
でも、(手が不自由でも回答がしやすいように、塗りつぶすマークシート用紙から)チェック回答(の用紙)に直すとかいうことも、当時できたかもしんないけど。

――普通に受けたんですか、TOEFL?

そう。

――もう、あの、みんなと同じマークシートで?

そう、そう。そう、そう、そう。だから、500点取ったら留学できるよみたいなことを言われて400点とか、390点とか、そんなもんしか取れなかったのかな。