投稿者「dipex-j」のアーカイブ

障害学生の語り

当時日本には手話に関する学術的な研究は少なかったが、留学中に手話言語学の勉強をしたりするなかで研究のヒントを得て、それを博士論文につなげた(手話)

以前の日本では手話に関する学術的な研究というのがまだ少なかったのです。はじめは(日本の)修士論文で手話の音韻論的な分析をしようと思っていたんですが、行き詰って、このままではまずいと思って。で、(アメリカに)留学中に手話言語学の勉強をしたりとか、あとはASL(American Sign Language:アメリカ手話)のクラスの聴者の人たちが、ゼロの状態からASLを習得していく様子を見たりとかしながら、研究のヒントのようなものを得て…、認知レベルでの手話の習得と分析っていうのも面白いのではみたいに思って帰ってきて、それでもう(留学前とは)まるきりテーマを変えて、博士論文につなげたという経緯があります

障害学生の語り

日本の感覚だと、障害に関する授業では自分に質問されるので待ち構えていたが、アメリカではそれはなかった。でも障害者に関してアメリカで話題になっていることを学べた

ア メリカは、まあ、バリアフリーだし、ユニバーサルデザインが浸透している分、その視覚障害の学生がそばにいても、ごく当たり前にサポートもするけれども…、本人にやる気がない以上はべつに特に手を伸ばす、その、サポートしてくれる気もないというか、だったので、僕が、ぽつんと、その何も語れずに、ディスカッションの輪の中に黙って座っていても、えー、物事はどんどん動いていく。
僕は、その日本にいる感覚だと、例えば障害についての、こう授業の輪の中に、障害当事者がいると、で、しかも外国人なので、「あなたの国ではこういうことについてどうなの?」というようなことを聞かれるんじゃないかと思って、聞かれたときに何かを言えれば、どうにかなるんじゃないかっていうふうに思って、ずっとこう待ち構えていたんですが。
で、なおかつ、ずっと(太鼓奏者として仕事をしており)その人前に立つ仕事をさせていただいていたので、何かその聞いてもらえるというふうに思い込んでいたんですけれども…、もう本当に心底、研究に打ち込んでいるアメリカの大学院生たちは、人に渡す発言の時間なんてないんだと言わんばかりに隙間なく、もうみんな語り続けますから、ただ、ただ、僕は取り残されていくだけ、で、しかも、(英語力が不足していたので)何の話をしているのかもよく分からない、そんな経験ばかり正直、その1年間していました。
 
それでも、例えば、日本語で言う、統合教育、向こうではインクルーシブエデュケーションというのが、法律の変遷がどんなふうになっていて、今はどんなことについて、議論がなされているのか。例えばその、アメリカで言うところのインクルーシブエデュケーションというのは障害が有る子も無い子も一緒とかっていうレベルではなくて、障害が有る子、無い子、黒人、白人、宗教が違うとか、英語が母国語かそうじゃないか、そういういろんな本当に多様な子供たちが一緒に学べるような、ツールってどんなものがあるだろうかっていうことについて、話し合っていたり。
あ るいは今日本では、一緒にその、障害が有る子も無い子も学んでいけるにはどうしたらいいだろうかみたいなことについて、長くこういろんな、例えば医療的にケアが必要な子についてどうしたらいいだろうかなんていうことについて、ずっと話し合いがなされて何十年もたっていると思いますけれども。
そういう、こう医療的なケアが必要な子供たちを、学校で受け入れるために、その看護師、ナースが常駐している必要があるんじゃないかみたいな話は、アメリカは確か20~30年前にそんな議論を終わっていて。今は…、えー、スペシャルニーズのある子供たちの親御さんが、例えばその子供のサポートを、依頼していくために同じような書類を何枚も、何枚も書かなきゃいけないっていうのは親にとってものすごく負担ではないか。だから似たような書類っていうのは、もう極力なくそうっていうその書類、親が書く書類を減らそうみたいな、所を、最近の。まあ、最近といっても僕が渡米したのは、もう10年近く前なので、もう今はもっと、もっと先にいっているんでしょうけれども、
その障害者であることで、何かを利用できないとか、ここの、建物に入れないとか、利用はできないみたいなことっていうのが、もうアメリカでは当たり前のように差別だというふうに定義付けているんだけれども、まあ、日本はいまだにそれを差別だというふうな定義付けすら、こう、できなかったり、えー、一般、あの法律でしていたとしても、一般の社会の中でこれは差別だよねというような共通認識がなされていなかったりというような、(アメリカと)日本とのやはり隔たりというのは、学問的にも学ぶことができましたし。

障害学生の語り

最初に目指していた大学院については、「聞こえないからはねられた可能性もある」という話もあった。だが結果的には、受け入れてくれた大学で学べて良かったと思っている

私、政治学、ポリティカル・サイエンスを研究したかった、勉強したかったので、そういうところがある、Ph.D.のプログラムある、先輩たちもみんな留学してたので私もそのレールに乗ろうと、いろんな大学に先輩たちが行ってたような何かアイビーリーグとか、UCなんとかとか、そういう高いところにアプリケーション出したんですけど、何か通らないんですね。
で、まあ、TOEFLとかGREとかいろいろ試験あるんですけれども、GREの点数そんな、わる、良くなかったっていうのもあるのも一因かなっと思いましたし、あとTOEFLのリスニングの試験があるんですけど、そこの部分、私聞こえないので、あの、米印になっててトータルの点数が出ないんですね。なので、それを提出すると、もしかしたら書類段階ではねられてたかもしれないっていうのもあって、真相は全然分からないんですけど。
で、実際、私を受け入れてくれた大学の先生が、「もしかしたら、聞こえないから多分、はねてた可能性もある」っておっしゃってたので、うん、全然真相は分からないですけど。なので私は、あのアイビーリーグとか、UC何とかみたいなトップレベルなところじゃない大学に留学行ってます。でも、結果的に、そのランクですごい良かったと思います。うん。

障害学生の語り

大学3年の時実習でアメリカへ行ったが、慣れない土地でファストフード店などに入るときなど、周囲の人の動きに合わせて行動することが難しく、友人のサポートが必要だった

援助という意味では、やっぱり、友人の援助というのは非常に、助かりまして、大学の普段の授業では大体、何とかなってたんですけれども、大学3年生のときに、私は、あの、外国語学部だったので、特別授業で「アメリカ事情実習」という授業がありました。この授業は3週間、アメリカの東海岸に滞在しまして、最初の、3週間ある授業だったんですけれども、最初の1週間はペンシルベニア州のとある大学で、サマースクールのような形で1週間授業を受ける。2週目はワシントンD.C.に滞在していろんな政府機関を見学に行って、アメリカと日本の外交関係について実際の政府機関の方たちから話を伺う。で、3週目は国連本部に行って勉強して、あとはひたすらニューヨークで遊ぶという、あの、ま、とても楽しい実習があったんですけれども、この実習では基本的に、あの、食事は各自で調達だったんですね。
で、あのー、カフェテリアに、大学の授業の間は、カフェテリア使えましたけれども、でも、夕ご飯とかは地元のレストランとか、近所のデリとか、ファストフードとかに、行かなきゃいけないわけなんですが、そこで、あのー、やっぱり私は、慣れた場所ではもう一人ですたすた歩き回れますけれども、初めての場所で、こう、周囲を見渡して状況を把握するっていうのはとても苦手です。ましてや、あの、ファストフードですとか、あるいは、セルフサービススタイルのレストランなんかで、どういうシステムなのか周りの人の、様子を見てとって、同じように動いて、スムーズに会計まで済ませるというような芸当はなかなか難しいわけなんですね。
で、まあ、やっぱ正直、結構、自分は大学3年間で、一人でいろいろできていたので、最初のうちは、自分が周りの実習に参加している同級生のペースについていけないことにも結構ショックを受けましたし、レストランなんかでも全然自分だけ何か分かんなくて、何か、あの、とんでもないところに立ち止まっていて、周りの人がちょっと邪魔そうにされたりするようなこととかもあったりして、ちょっと、あの、私って、実は結構手が掛かる人間だったんだなと思って、あの、結構へこんだんですけれども。
ただ、あの、大学1年からずっと一緒にいた、友人がですね、常に私の、手引きをしながら、アメリカを一緒に回ってくれまして、こう、いろいろね、周りで、デモなんかしてる人がいると、「あ、何かああいう、あんなことを書いてある札を持ってるよ」とか、「あ、何か変わったパフォーマンスをアピールしてるよ」とか、いろいろ周りの様子なんかを教えてくれたり、レストランなんかでも、こう、さりげなく、いろいろ教えてくれたり、して、3週間の実習の間ずっとサポートしてくれまして、おかげで、非常に最終的にはとても楽しんで、帰ってくることができたっていうのは、友人にしてもらったこととしては非常に印象に残ってますね。…はい。

障害学生の語り

アメリカでは自分で電話を使うことができ、テレビにも全て字幕がついていて、これはすごいことだと思った。情報保障の重要性を実感した(手話)

自分 にとって大きな経験といえば、アメリカで暮らしていた間、自分で電話を使うことができました。テレタイプ(聴覚障害をもつ人が使う文字電話の機器)を使って、誰にでも電話をすることも、電話を受けることもできました。日本では、経験がなかったことなので、ろう者でも電話ができると、本当に世界が広がったように思いました。
で、他の国の留学生と一緒に、途中から寮を出てシェアハウスみたいな形でアパートを借りて2人で生活するとか,いろいろな手続に行くときも、当たり前に一人で出かけて行って、筆談をして契約や手続きを進めていました。
それまでは,私の中では1人では無理だろう、聴者や両親と一緒に行ってやってもらう、みたいなイメージを持っていたから、へえー、一人でできるんだとびっくりました。
また、テレビを見ると全てに字幕がついているから、ニュースなども全てわかる。これはすごいことだと思いました。情報保障とか、情報アクセスの保障がきちんとあれば,ろう者もできることが大きく広がる。(そのことを、)頭ではなくて、経験から実感できたと思います。多分その時の経験から,帰国した後に、大学院を卒業して仕事を探すときにも、手話通訳が必要だとか,情報保障の準備の依頼などの交渉をするとか、学会で手話通訳の制度を学会の組織としてやってください、みたいに制度を進めるために、自ら行動する基礎力を身に付けられたと思います。
いま大学で働いていますが、手話通訳者をつけて仕事をしている人は珍しいと思います。(通訳をつけて働く場合、)自分以外の人にも、お給料を払う必要があります。自分以外に,支援者のお給料も大学から払わなければいけません。そのお給料があれば、自分は聴者と対等に仕事をすることができる。
ある意味、聞こえない自分だからできる仕事もあるから、そのお給料は無駄ではないみたいなことを分かってもらえるように交渉する。それができるのは、アメリカでの経験を持っているからだと思います。

障害学生の語り

アメリカではごく当たり前に誘導やちょっとしたサポートを申し出てくれる人がたくさんいて、一度カウントしたら15分間に6人の人が声をかけてくれたことがあった

え ー、ごくごく当たり前に、誘導を申し出てくれる道行く人がたくさんアメリカにはいて、1回カウントしてみたら15分間に6人の方が、ちょっと一緒にあそこまでだったら誘導するよとか、あ、目の前の信号青だからもう渡っていいよとか、そのまま行くとごみ箱にぶつかるから右に、もうちょっとこう、よけたほうがいいよとか、本当にこう、その人が、負担にならない、ちょこっとした、サポートっていうのを当たり前にしてくれるっていう、世の中であるという、ことを実感して。
えー、まあ、学問的な学びにおいては本来、能力があれば学べたであろうことの本当10%、20%いくかいかないかぐらいしか、学べなかったとは思うんですけれども、実際にアメリカという土地にいたことで、現地の人たちが障害をどういうふうに取り扱うのかみたいなことについては、かなり、肌で感じることができたので。
まあ、そういう意味ではとても、(現地で学問をしようと思っていた)当初とは方向性はだいぶ異なりましたし、挫折感というのを、まあ、生まれて初めてに近いぐらい大きな挫折を味わったんですけれども、それでも、うーん、何かこう現地で学びたいと当初思っていたことに近いことは、学べたと思いますし。

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アメリカでは、耳が聞こえない人が使うサービスがすでにメニュー化されていて、その中から選べばいいという状態だったので楽だった。日本とは学生の負担が違うと感じた

現地 にいる日本人留学生に相談したら彼女が掛け合ってくれて、で、そこの障害サービスのスタッフの方から連絡がきて、進んでいきました。うん。

――じゃあ、本当に、ご自身としては本当に困ることはなくて、むしろすごいいろんなことを吸収できた感じ。

うん、うん。

――それは、やっぱり日本と、日本でも大学院に行って、大学も行って、大学院にも行って、アメリカにそういう短期で行かれてみてやっぱり、あ、違うなっていう感じでした?

もう全然、世界が違うっていう感じでした。日本だと、自分で交渉して、サービス、そもそもサービスも存在していない日本で、自分で交渉して、こう自分で環境整えていかなくてはいけないのに、もうその当時アメリカだと、もうメニューがあって、もう聞こえないんだったらこういうサービスがあるのであなたはどれを選びますかみたいな、選ぶだけでいいみたいな、全然違いましたね。

――そ の障害をもっているっていう、そのご自身の立場からだとやっぱりアメリカのほうが学びやすい感じですか?

そうですね。学生である限りはアメリカのほうがすごい手厚いっていうか、手厚いのと、あと学生に負担が少ないですね。既に、もうメニュー化されているものから選ぶっていうのはすごい楽ですし、あとアメリカは法律がある。あの…、ADA(障害を持つアメリカ人法)っていう法律があるので、その法律は、アメリカでは法律に違反するっていうのを非常に恐れる傾向が、あの、訴訟社会なので法律を守っていないとなると訴えられる可能性があるので、法律は守ろうと頑張るんですね。なので、ADAっていう法律があるからサービス付けなきゃみたいな感じになってくるので、学生のほうはすごい楽ですね。
日本だと、法律確かにありますけど努力義務だったりして、まあ、なくても大丈夫でしょうみたいな雰囲気になっているところもあるので、そこら辺はやっぱ負担の度合が全然違うと思います。

障害学生の語り

大学卒業後の演奏や講演活動は順調だったが、10歳で失明した自分が太鼓と出会ったというステレオタイプな話をしていることに疑問をもっていた時、留学の機会を得た

僕の演奏活動や講演活動というのが、大学卒業して間もないときから結構順調にいきまして、少なくない出演料を頂いて、あちこち伺うというようなことが、もう1年、その活動を始めて1年、2年ぐらいした頃には比較的、普通というかコンスタントに、なかなかに大きなお仕事を頂いてっていうことは、続いていたんですけれども。
ふとしたときに、その、例えば、その頃僕が話していたことというのは、小学校4年で失明した自分が太鼓と出会って、いろんなご縁の中で、その今日、太鼓打ちとして人前に立てているんだっていう、非常に言葉は悪いかもしれないですけどステレオタイプのこう障害のある音楽活動といいますか。
それは何かもう過去だけで商売をしているような感覚というか、今の自分ってどうなんだろうっていうふうに考えてしまって、うーん、中身が薄いなという漠然ともう、何やっているんだろうっていうようなことを、えーと、活動が始まって3年目ですね、2009年の頃にすごくその悩みまして。
でも…テレビに出させていただいたりした影響で、どんどんその、大きなお仕事がきて。で、時々その仕事がすごく評判が良かったはずなのに、ちょっとネットで調べてみると、そこに居合わせた方、その演奏を聴いていたであろう方が、すごく僕のことを、こき落としている、文章と巡り合ってしまったりとかっていうことがあって。
で、まあ、ショックも受けつつ、でも、もう僕の実力ってこんなもんなのかもなっていうことをすごく、思っていて。実力に伴わない状況に自分が今、状況のほうが先にいってしまって、実が伴っていないんじゃないかなっていうことをすごく考えていた頃に、たまたま太鼓仲間の一人というか、太鼓仲間のご夫婦が、アメリカで学者をしていまして、彼らが一度みんなでアメリカにおいでよというふうにお膳立てをしてくれて、演奏のこうツアーを組んでくれたんですけれども。
(その時にニューヨークでジャズを見たり、アメリカの大学を見学させてもらう体験をして、)自 分が、考えたこともなかったような世界が存在しているんだということを、当時は、僕は海外って行ったことはなかったので、その本当に、世界って広いんだなっていうようなことを思いまして。
で、まあ、もしかしたら海外にしばらくいるという経験をすれば、まあ一つ大きなチャレンジにもなりますから、それを経た自分として語れること、それから演奏とかもいろいろ変わるんじゃないかな、なんていうことを、まあ、考えて、渡米を決意しまして。で、幸いその、奨学金というか、ご助力いただける所にも、合格ができまして、渡米を実現するんですけれども。

障害学生の語り

耳が悪く留学は無理だと思っていたが、アメリカで博士号(Ph.D.)を取った指導教官に影響されて挑戦した。障害学生のためのサービスを知り、自分も留学できると思えた

もう私、やっぱ耳が悪いので英語も聞こえないし、しゃべれないし、留学なんて絶対無理だって思って、もう日本の大学でひっそり生きていこうと思ってたんですけど、たまたま指導教官がアメリカのPh.D.(博士号)を取られてて、政治学はやっぱりアメリカが最先端だっていう考えの方だったんで、やっぱ留学しないと駄目なのかなって思うようになって、で…、留学をしようと思って挑戦しました。

――その挑戦のためには、その英語だって聞こえないしってご自身は思ってたけど、やっぱり相当そのために準備をされたんですか?

留学の前に夏だけ2カ月ぐらい、と、統計学のセミナーっていうところ、ミシガン大学か、で、統計学のセミナーをやってて、で、そこのサマープログラムにちょっとだけ参加したことがあるんですね。
で、そのときに、すごいリベラルな大学で障害者に対するサービスも充実していたので、ここに参加した経験が、これなら私も留学できると思わせるぐらいのサポートぶりだったので、それが良かったです。

――具体的には、そこでどんなサポートがあったんですか。

授業全部に、あの、カート(CART:Computer Aided Realtime Translation)って、字幕を打ってくれる人が付いて。付くので、授業全部字幕が出ますし。あと周囲の人たちも理解があって必ず筆談してくれたり。なので、むしろ一緒に行った日本人の研究、院生友達よりも私のほうが全然吸収が、吸収するものが多かったですね。英語が苦手な友達よりも私のほうが字幕とか、ノートとかあるし、会話も苦手な友達よりは私のほうが筆談でいろいろ会話できちゃってたので、何かむしろ私のほうが有利じゃん、みたいな感じの経験があったので、私も留学できると思いましたね。

障害学生の語り

学部の1年生の時、語学の必修クラスの担任が留学プログラムを持ってきてくれて参加した。当時からアメリカでは障害学生に論文をタイプするサービスがあって楽しかった

たまたま語学の必修クラスの担任が留学のプログラムを持ってきてくれて、「どう?」って言われて。
で…、お金なかったんで、そんときちょうど何か、大学で募集してたんですよ。文章書いたら、奨学金とかお金が通ったんですね。で、アメリカの大学も何か知らないけど文章書いたら奨学金が通って、それでレポートを書いたのがどこ、どこかにあるんだけど。うん。
そこで初めて、ADA(Americans with Disabilities Act:障害を持つアメリカ人法)がある、やっぱり障害者運動とか本当に小さい頃からいろんな勉強しましたから、ADAがあるアメリカに、もう本当に見たっていうのはそん時だけだけど、その1カ月、3週間か、体験して、向こうに行ったら、えー、論文をタイプして、障害学生に論文をタイプしてくれるサービスっていうのものがあるんですよ。そんなのにこう出会ったりして…、楽しかったですね。もう今考えると障害学生って初めて意識したのは、多分そこだったのかなと。うん。

――1年生のときにそんな経験をして、それ行ったことで、そのご自分の障害に対する、な、何かこう考えとか、何かこう変わったみたいなことってありますか?

やっぱり多様性っていうことを、いちばん学んだのかな…。障害だけじゃなくて、あの、ネイティブアメリカンの人たちがたくさん、授業に出てきてるんですよ。で、いろんな人種とか本当に多様な環境で、いろんな人が学ぶっていうことを知ったのがそのときですかね。