投稿者「dipex-j」のアーカイブ

障害学生の語り

同行援護従事者の資格を取った時、せっかくならそれを活かそうと思い、そこから福祉系のアルバイトを始め、徐々にもっと深めたいと思って個人事業を始めた(音声のみ)(次に続く)

まあ、元々ものづくりがすごい好きやったんで、何か「福祉×ものづくり」っていうようなかたちで、何か福祉機器とかそういうのを、何かそういうサポートをするデバイスを作りたいなと思って、で、それで、あの、進路を変えずに今の大学に、あの、入ったんですけど、工学を学べるっていうので。ほんで、じゃあ、実際何か、そういう人らをサポートしている人とか、えーと、そういうの、という当事者とかは何を求めているんやろうっていうふうに思って、そういう仕事を探し始めたんですよ。
まず、あの同行援護従事者の資格を取ったんで、まあ、せっかくやったらこの、この資格を活かして、仕事をしようと思ったんですけど。ただ、僕の地域にですね、それを何か取り扱っている、あのバイトが全然なくて。で、まず、じゃあ、取りあえず視覚障害のほうは、いったん置いておいて、まあ、他の障害の何か、取りあえず何かないかなっていうのを調べて、ほんで、最初は放課後デイサービスを見つけて、あの、小学校1年生から高校3年生までの障害が、持つ子が、通っているデイサービスに働き始めて。
 ほんで、取りあえずそこから、さらに、資格を取らしてもらって、知的障害のある方の、外出支援をやったり、全身性障害の方の訪問支援とか、外出支援を、やっていくんですけど、そこから何か、何ていうんですかね、こう自分がイメージしてた福祉の世界と何かちょっと違うなって思ったんですよ。

何か、その自分が何か福祉の、自分が感じてた福祉の世界と違うなって思ったときに、こうすごいネットで調べ、いろいろ調べてたら、東京にある団体を見つけて。えーと、そこは「医療福祉エンターテインメント」っていうのを掲げて、まあ、クラブイベントとか、えーと、何か、いろんなイベントをやってたり、あと、何かテクノロジーをすごい活用して、子供のリハビリ、あのシステムを作ってたりとか、そういうのを見て何か、こう、自分が最初に思ってた福祉ってこういう何か、たの、すごい楽しいイメージが福祉やっていうのを感じて、あ、いつか何かこういうふうな団体をつくって自分も活動したいなっていうふうに思うようになって、ほんで、そこからこう、あの、いろいろ調べつつ、そうヘルパーの仕事をしてて。
 ほんで、まあ、そこからこう、いろいろ活動をやっていきながら、バリアフリー展っていう、こう関西最大級の福祉機器の展示イベントがあって、それに初めて行ったときに、えーと、NPO法人と株式会社両方の法人格を持っている、あの大阪の団体があるんですけど。そこ発達障害関連、発達障害を中心に、まあ、いろんな、あの障害を持つ子供のサポートをしている団体なんですけど、あ、やっぱりこういう活動をもっとしたいなっていうのをさらに何か思うようになって。
 で、そこから、こう大学に入って、まあ、そこから、それでようやく大学に入るんですけど、いろいろ出てて、何かしたいなって思うもなかなか行動することができずにいて。こう、まあ、いろんなこう何ていうんですかね、部活動、まあ、何か数カ月でやめちゃったんですけど、あの、こうプログラミングとか電子工作をする部活に入って。まあ、そこで福祉関連のことをやりたいって思ったんっすけど、まあ、それもなかなかうまくいかずで、すぐやめちゃって。
 で、その後、あの今の研究室に1回生から入らしてもらっているんですけど、まあ、そこで、こう、まあ、ちょっとずつ、何かいろいろやるようになって、んで…、何か2回生になってからは、こう、あの。違う。ま、1回生でまた何か研究さしてもらったんですけど、2回生でこう次の研究するときに、こう発達障害を持つ子供、まあ、僕みたいに字がうまく書けない子供向けの平仮名の学習教材を作ったんですよね、あの、研究して。
 ほんで、それで、さらに何かやっていって、ほんで、3回生になってからは何かこう、何ていうんですかね、こう、やっぱり何か、もっとこういう活動を精力的にやっていきたいっていうふうに思うようになって、あの…、何か、こう起業したいなっていうのを、おも、思ってて。何か、自分が働きたい会社が、その全然見つからなかったんですよ、何か自分がやりたいことにマッチしている会社が全然なくて。こう、ほんで、で、自分でつくるしかないと思って、取りあえず個人事業主になろうって思って、開業届出して、で、まあ、何か、いろいろやり始めたっていうのがきっかけですね。ちょっと話、長くなっちゃいましたけど。

障害学生の語り

鍋料理屋でバイトをしたが、店長にはクローン病とは伝えなかった。肉を扱う鍋料理屋なのに自分は肉をあまり食べない方がいい病気だと伝えると、気を使われると思った

――アルバイトは、どんなことをされていらしたんですか?

鍋、鍋料理屋さんでバイトをしてて。幾つかやってたんですけど、もう2年生の春ぐらいにその鍋料理屋さんのバイトを始めて、そこから卒業するまでずっと続けてたんですけど…。
でも、そこの店長さんには病気です、そのクローン病ですっていう内容は詳しくは説明していなくて。もう、そこまで体調が良かったんで言わなくても多分いけるだろうなっていうのと、あとお肉を扱う鍋料理屋さんだったので、自分がそういう病気を…、(肉をあまり)食べないほうがいいっていうのを伝えると、ちょっと気を使われるかなっていうのがあったので、で、他のバイトの人たちと賄(まかな)いも一緒に食べますし、お肉も食べるけど、体調さえ良ければいいかなっていうので。

――体調がいい時にお肉を食べても、そんなに大きく崩すっていう感じではないんですか?

そうです。1日食べたぐらいで悪くなるんだったら、もう何をしてても悪くなるだろうなっていう僕の中の理解…、だったので…、何て言うんですかね、その、バケツの中に水があふれないように、うまいこと調整すれば体調は良く過ごしていけるのかなっていうのがあったんで、そこの調整だけをして食べるときは食べるし、食べないときは食べないっていう。

障害学生の語り

飲食店のバイトは体力勝負なところもあって自分には難しいと思った。だが、色々なバイトを経験することで、自分が生きていく場所を探せると思えるような感覚があった

学部時代で言えば、あの、大学の近くで何だろうな、飲食店のウエイトレスさんみたいなことはしていました。でも、割りとこう体力勝負なところがあって、私、まあ、自分で言うのすごく変なんですけど割りとこう真面目にやるんですよね。で、何だろう、バイトに入る時間を、まあ、真面目にやっているとだんだん増やされていくので、ちょっとつらくなってきちゃって辞めるみたいなパターンが2度ぐらいあって、うーん、2度やってから、あ、ちょっともう駄目かなって思って、あの、そういったほう、何だろう、飲食店みたいな所はやらなくなったりっていうことはあります。

――ご自身にとって、まあ飲食店は、そういうことで体力的に厳しかったっていうこともあったのかもしれないですが、そのアルバイトをした経験っていうのは、そこでこう、どんなことを、あの何て言うんですかね、学んだというか、何かアルバイトを経験して良かったなとか、そういうことってありますか?

えーと、大学に入ったときもいろんな人に会うようになったなと思ってたんですけど、大学で会う人の範囲をさらに超えて、いろんな人と会うようになったんですよね。あの(巫女のバイトをしていた)神社って誰でも来る、それこそ初宮参りだったら赤ちゃんが来たり、そのお兄ちゃんである、ちっちゃいお子さんも来て。
で、一方で、あの非常にご高齢な方がいらっしゃって、まあ、正座ができない。じゃあ、どうやっておはらいを受けようかっていうときに、まあ、昔の、椅子みたいなもの、こういうものを使ってとか、その神社ならではの工夫もあるっていうところを、そのいろんな人が来る場を通じて知ったというのはすごくいい経験だったなと思います。
えー、辞めはしましたけど、やっぱり誰でも来るっていうのが飲食店も同じで、飲食店の雰囲気によってどんな人が来るとか、どんな時間帯は混むとか、あの、あんまり盗み聞きはしないようにはしてても、どんなことを話してるとか、どんなことをしてるとかっていう、うーん、人が好きだったのかもしれないんですよね。

――ご自身にとって、そのいろいろアルバイトでこう経験したことは、大学で…、もちろん高校生のときに比べたら大学のときは人間関係が広がったけれど、それよりももっと、いろんな人に会えるっていう、そういう場だったっていう感じですか?

そうですね。あの、分かってもらえない人もいるんだっていうのを授業の中で知ったのも、まあ大学でしたけど、その、もっといろんな人がいるっていうところも一緒にその同じ段階で知れたので、あの何だろう、狭い中で受け入れられなかったら、それでつらい思いをして終わるのかっていったらそうじゃない。あの、いろんな、その世界があって、いろんな価値観のある人がいて。だから、自分が生きていく場所っていうのは、探しが、探すことができるんだなってどこかこう、そういう言葉で覚え、何だろう、学ばされたわけではないんですけれど、あの、どこかで感じ取ってはいました。

障害学生の語り

アルバイトは、小学校のプールの監視員やテストの採点、模試の丸つけなど、色々やった。居酒屋の皿洗いのアルバイトでは、聞こえないことで嫌な思いをして辞めた

(アルバイトは)いろいろやったんですけど、あの、小学校の、夏のプールの監視員もやったし、あとテストの採点、進研ゼミとか何とか模試、高校生がよくやるような何か模試の丸付けのやつもやったし。あと居酒屋の何か皿洗いとかもやったんですけど、あれはやっぱり聞こえなくて嫌な思いをして、もう辞めてやるって辞めましたね、はい。

――差し支えない範囲でいいんですけれど、聞こえなくて‥‥。居酒屋、居酒屋さんとかって結構多分大学生とかはよくやるアルバイトかなと思うんですけど、その聞こえなくて嫌な思いっていうのは、どんな感じのことだったんですか?

あの元々やっぱり接客は苦手というか、聞き取れなくてご迷惑をお掛けするので、厨房(ちゅうぼう)の皿洗いってことで入れてもらったんですけど、結局洗っていると後ろから何か注文の話とかされても聞き取れないので、うまく答えられないから…、何て言われたんだったかな。何か、今はもう思い出せないですけど、聞こえないふりしてみたいなことを言われたんだったか。聞こえるのに聞こえないふりしてみたいな、多分そんなようなことを多分ずっと言われてて、うん、もう嫌になったんだと思います、きっと。うん。

――その、小学校のプールの、監視員とか、あの採点、模試の採点とか、そういうのは何かこう大学のつてとかでアルバイトを探してきたんですか?

うん、うん。そうですね。はい。で、プールの監視も1人じゃないので友達とできるので、割と良かったし、採点も、結局うるさい所で何かするわけじゃないので、答えを教えてもらってひたすら丸するだけ、だったので、それは良かったですね。はい。

――結構こう、たくさんアルバイトはされていたんですか。

たくさんといっても、その3つかな。あ、家庭教師もしてました、一時期。これも大学の先生のつてというか、うん、聞こえ、難聴のお子さんの家庭教師もちょっとさせてもらったりしてましたね。はい。

障害学生の語り

盲導犬の話を含めて自分の経験を語ったことがあり、これを聞いた人からの講師としての講演依頼をきっかけとして、いろいろな学校で有償で話をしたり授業をしたりするようになった

まあ、もっと言うと実は、大学の後半ぐらいから、うーん、いろんなきっかけがあるんですけど、まあ一番おっきいのは、その、ある学校で、盲導犬の話を含めて自分の経験を語ったことがあるんですね。で、それを聞いた先生が、あ、自分の学校でも、きちんとそのボランタリーじゃなくて、まあ有償で、その何とかお金を付けて、講師っていうかたちで、まあ数千円なんだけど、でもちゃんと講師料を出すから、授業をちゃんとやってほしいって言って、そこの学校で授業を持って、クラブ活動も持つことになったんですよね。
で、そのクラブ活動とか授業を持っていることが、まあ何かいろんなとこで知れてきて、いろんな学校から、うちの学校に、ちょっとお話に来てくださいとか、まあ、それはボランタリーなんですけど、というお話がどんどん広がって、その大学の4年生ぐらいから大学院の、にかけてずっともういろんな学校を回ってお話をしたり、授業をしたりする経験が結構あったんですよ。
で、その、ただ自分のお話をするっていう授業もあったんですけど、そうじゃなくて本当にある先生とは、もう…、きちんと、何ていうんですかね、授業としてその、私の経験をただ私が一方的に市民として語るっていうよりは、目的を2人で定めて、例えばこういうことを子供たちが考えてくれるといいねとか。それも、あの福祉とかそういうことではなくて、その子供たちの成長のために自分と向き合うとか、自分の負の部分をこう、いかにその何かこう、自分の持っている負の部分といかに向き合うかとか、あと自分をいかに肯定できるようになるかとか、そういうことをこう知ってもらうきっかけにするにはどういう授業の形態を取ったらいいかとか、どういうワークショップをしたらいいかとか、そういうことをやりながら授業づくりみたいなこともしていたりする、したこともあるんです、実は何年か。
そういう経験もしてたので、その…、教えるなんていうことは全然できない。私はもう、だからアシスタント的に入るだけなんだけど、まあ呼んでくださって私の経験とか私が提案したワークショップとかを一緒にやることで、あの子供たちと関わる経験が結構あったので。まあ、主に高校生なんですけど。
それ以外にもボランタリーで小学校から、もう小学校も、中学校も、保育園も行ったことあるかな。保育園も、あの、入って一緒に遊んだりしたこともあるしって。だから、そうやって何か障害のある自分がいろんな人と関わりを持つことで、その人たちの中に、何か子供たちの中に変化があったり、気付きがあったりするといいなみたいな思いはずっと持っていたので、そういう活動と、この修士論文と並行してずっとやっていたって感じで、大学院は。

障害学生の語り

自分に障害があって人から何かしてもらうことも多いけれど、自分も何かしてあげられるかもしれないと思ったのが、介助のアルバイトを始めたきっかけだった

アルバイトは学部、学部4年か。あ、あともう1個、あの車椅子の介助のアルバイトとかもしてて。

――それ、それをどこで見つけたんですか?

何か大学の掲示板に貼ってあって、えーと、「介護者募集」って書いてあったので行って、週1回、結局、すごいお世話になって私のほうが、えーと、10年ぐらい通ってました。

――それは何かあれですか、施設?

うーんと、個人のお宅で車椅子の介助。うん。

――それは、そんなにこう関係が続いたのは何か、楽しかったというか、という感じでしょうか?

うん。まあ、楽しかったというか、そこのご本人とお母さんも一緒に住んでおられたんですけど、お母さんがまた面白い人で、何かおしゃべりしに通っている感じで楽しかった。

――じゃあ、結構長いですね、10年ぐらいっていうのはすごい長い、長いけど、その間ずっと通って、その車椅子のこう押したりとか、どっか出掛けたりとか、そういう介助をされた?

うん。あの、ご本人の体のお世話とかもしたし、外出の介助とかもしたり。うん、うん、うん。

――もと、元々そういうのに、関心があったっていう感じだったんですか?

うーん。多分、真面目だったので、そういうこともしなきゃな。一応、そう、大学入ってから仲いい友達がボランティアとか始めてたので、私もそういうことするかなと思ったんですけど、私の場合はアルバイトでちゃんとお金もらってやって。

――でもちょっとそういうことにも、まあ、せっかくだからやってみようかなみたいな?

ん?

――せっかくだからそういうことも、大学生だからいろいろ経験してみようかなって思った感じですか?

うん、うん。やっぱり、そう、自分に障害があって人から何かしてもらうことも多いけれども、自分も何かしてあげられるかなとも思ったと思います、当時。

障害学生の語り

履歴書に盲学校と書くのでそんなに簡単にバイトはできないと思っていたが、スーパーで採用された。「丁寧な仕事で、安心して任せられる」と褒められて、自信を得ることができた

で、実は私、1回だけアルバイトもしてみました。ただ正直アルバイトは何かね、就職活動並みに履歴書をいっぱい出さなきゃいけなくて、やっぱりね、恒久的に使う正社員なら、いろいろ配慮したりして働かせるっていうのも受け入れやすいのかもしれないんですけど、アルバイトは正直ね、来てくれれば誰でもいいわけですから。それでわざわざね、ちょっと手が掛かる人採用しようというのはあんまないですから、やっぱりそう簡単にアルバイトみたいなんか、自分でタウンワークとか、読んでいろいろ電話したりしたんですけども、やっぱり履歴書に、あのー、盲学校って書いてある時点で、やっぱり採用担当者の顔が変わるんですよね。うん。やっぱりちょっとアルバイトっていうのはそう簡単じゃないなっていうのがあったんですけど、結局普段通ってたスーパーの、が、アルバイト募集してたので、ちょっと電話してみたらですね、意外に、こう、スムーズにいきまして、ちょっと目悪いんですけどっていうのも、でも、正直、スーパーっていう職場の関係上、外国人の人とかも多くて、何か、あの、日本語通じるんならそのほうがありがたいよみたいな感じもあり、全然問題ないよというような感じで受け入れてくれまして、えっと、何か結局デリカコーナーで、スーパーのお寿司を作る。スーパーで売ってるお寿司を作るアルバイトを、2カ月ほど、えーっと、経験した、しました。
ここで、非常に、先輩、指導役の先輩としてついてくださった、こう、パートの、方、年配の方が非常にいい方で、あのー、非常に丁寧に私の、特性も理解した上で、バイトの指導をしてくださって、ま、そういうんで非常に丁寧な仕事で、安心して任せられるとか、非常に褒めていただきまして、あの、ま、このアルバイトをやったことで、最悪、仕事できなくなったり、ま、路頭に迷ったとしても、私はパートができるんだというふうな、自信っていうんですかね、あの、得ることができて、非常にいい経験だったなと思ってます。

――はい、ありがとうございます。あれですね。最初、最初に、そのバイトの、アルバイトをしてみようかなと思った何かきっかけみたいなのはあったんですか。

またちょっと、これはやっぱり大学生なのでちょっとやってみたいなっていうか、うん、アルバイトもちょっとやってみたいなっていうふうな気持ちで始めたっていう感じですね。

障害学生の語り

一番長く続けたのは神社の巫女(みこ)さんバイトで、体調面でコンビニよりも安心してできるんじゃないかと、親に神社に連れていかれて始めたのがきっかけだった

えーと、(アルバイトは)幾つもやってはいますけれど、そうだな、初めてやったのが、ちょっと人のつながりで、多く、その一般的に募集しているものっていうんじゃなかったんですね。あの、還暦ぐらいの女性の方に、パソコンの使い方を一から教えるみたいなことをやってくれないかと言われて、で、祖父母の介護の話とかをしていたときに、それを、聞き付けた知人が、高齢の方とやり取りがあるんだったら、まあ、そういった所を、やってくれないかって言われて、えーと、それが人生で初めてのアルバイトでした。

――それは大学の、割りと早いうちから始められたんですか?

そうですね。あの、何年生。1年生の、いつだったかな。でも、1年生の頃です。

――それ以外にこう、どんなアルバイトをされていらしたんですか。

えーと、一番長くしていたのはあれですね、神社の、巫女(みこ)さんですね。

――それはどんなことがきっかけで、巫女さんのバイトをされたんですか。

あの宿舎が、大学の寮が、まあ、非常に安かったんですが、まあ、安いのでみんな入りたがるので、2年生以降が抽選になるんですね。
で、えーと、抽選を外れたので外に出なきゃいけないから、えー、もうちょっと稼がないと、奨学金ももらってはいたんですが、それだけではやれないとなって、まあ長期休みを使って何かこうできるアルバイトをといったときに、やはり親が、やはり心配をしまして、あのコンビニのアルバイトとか、も、考えてはいたんですけど、そういうとこよりは、あの、より安心できる場所があるんじゃないかって言って親が、あの近所の、神社で、あのアルバイトをさせてくれるんじゃないかって言って、私を神社に連れて行ったというのが、きっかけですね。

障害学生の語り

演劇を学ぶために入学した大学だったが、中の人間関係がよくなかったので、学外の即興芝居のワークショップに参加して表現する楽しさを学び、青春を味わうことができた

うちの大学の授業で演劇をするっていう授業があったんです。で、そこで、まあ、えーと、さっきもちょっと言ったんですけど上京をするときに、上京は演劇をしたいからって来たので、あ、大学にあるんだと思って参加して。
参加したら参加したで、その中の人間関係がみんな下手だから、何か、何か分かんないけど争いが始まって、で、何か意味が分かんなくて。何か、もう、そのときぐらいから大学だけ、大学で頂点取ったら何がいいんだろうみたいな、そういう何かよく分かんないけど、だいが、うち、うん、自分の大学の人がそんなに好きじゃなくなったんですよ。
で、演劇はしたかったから、その、まあ、何かこれ、大学の、話からずれるんですけど、まあ、2016年9月23日かな、その日に、まあ、即興芝居っていう、インプロっていうんですけど、インプロに、のワークショップに何か初めて行って、それで何かインプロワークショップっていうものにはまってインプロをやってと思って。
で、大学2年生とか、大学3年生とか、授業は行けるけど、行くけど、ほぼ、そこ、そっちで出会った仲間としか会わないとか、会うとしても、いつ、ね、「いつメン」っていうんですかね、いつものメンバーみたいな人としか大学の人は会わないみたいな。何か、周りが何か、分かんないけどコミュニケーション能力がなくて、驚いて…、な、何でなんだろうみたいな。

大学、がもう嫌だと思ったので、で、だけどしたいことをしなくちゃと思って、まあ、愛媛にいるときからずっといろいろ調べてて、だけどインプロって何やねんって謎だったんですよ。で、行って、行ったらですね、最初に教わった人がこう言うんですよ。あ、とても簡単なゲームだったんですけど、その、ただ単に目の前にいる人の名前を呼んだり、そのリズム良く拍手を回すみたいなゲームだけで何か…、それを、し、できただけで、これが、ぎ、「これができたら、みんなインプロができるんだよ」って言ったんですよ。
で、僕はできることが人生で…、多分ないって思ってたんですよね。だって、縄跳びできない、自転車できない、お箸ちゃんと持てない、字が汚い…、えーと、バランス感覚がない。まあ、もっとないです。もっと、いろんなことができないっていう自分がいて、何か、初めてその、これができるよって言われたから、あ、できるんだ、僕でもって思って…、何か、ここにいますね。はい。

――インプロに会ったこととかインプロ自体、ご自分の今言葉で表現するとすると、自分にとってどんな意味があるものかなって思いますか。

ああ…。さっきも言ったんですけど、人間にしてくれたなって思ったし。だけど…、インプロっていうのは…、何か青春なのかなって。野球球児が…、野球が青春って言うのと同じで、さっきゃ、サッカー選手がサッカーが青春って言うのと同じで。
僕はやっぱり、その高校は応援団で青春を味わったけど、大学での青春っていうのはやっぱインプロなんだなって思いますし、インプロで出会った友人たちとも最近ではずっと、その関係がちょっと、わ、悪かった人とかもいたんですけど、最近ではちゃんと仲良くなれるし。何か、ちゃんと何だろう…、人を見れる、人と話せる、人と対話できる、人と、人と何かをするっていうことの楽しさ…。まあ、集団行動は苦手だけど、いろんな言葉に刺激を受けてちょっと大変だけど、人と何かをするっていう楽しさとか、自分を表現するっていう楽しさを何か教えてくれたというか……、っていう感じなのかなって思います。はい。

障害学生の語り

学内の手話サークルに通ったこともあるが、健聴者ばかりで手話の歌の練習をする程度だったので、学外の聴覚障害学生のグループに参加して、コミュニケーションを取っていた(手話)

大学に入った後、手話サークルなどにも通っていました。友だちも手話を覚えてくれました。また、大学の中の交流だけではなく、他の大学にも行っていろいろな人と会うこともできました。まあ、正直言って、大学の中の思い出というのはあんまりないんですけれども、どちらかというと聴覚障害学生の、えー、サークルの思い出がたくさんあるように思います。聴覚障害者学生のグループ(正式名称:全日本ろう学生懇談会)によく参加していて、ろう者の学生とよくコミュニケーションを取っていろいろな経験をしました。例えば、グループの集いに参加するなど、また、ろう者の友だちと一緒に遊びに行ったりというようなことがありました。ですので、大学の中での思い出はあまりないんです。
というのは、みんな、まあ、健常者、健聴者ばかりでしたので、手話も、まあ、少しだけできるというような状況でした。コミュニケーションができる人、まあ、そのレベル、まあ、コミュニケーションがやっと取れるくらいのレベルでした。ですので、なかなか大学の中での友だちと一緒に遊びに行くというのは、そのような機会はちょっと少なかったんです。

で、私、実は手話サークルにはあまり参加はしていませんでした。手話サークルは、コミュニケーションというよりも手話の歌などの練習をすることが多かったんです。また、みんな健聴者ばかりでしたので、なかなか入りづらいような面もありました。ですので、手話サークルにはあまり参加はしていなかったんです。

――じゃあ、その外のですかね、学生の団体では、そこではどんな活動をされたり、そこでの友人とどんな、遊びというかをされてたんですか。

まず、その団体の活動のお話をしたいと思います。その団体は、一年間に一度、全国からみんなメンバーが集まって交流をすることがあります。 その場所は毎年いろいろ全国各地で開催されます。2泊3日くらいの予定で交流をします。例えば、いつもの、普段の悩みを話し合ったりですとか、またテーマ、課題などを決めて、それについて教えてもらったり。また、夜には、みんな一緒になっていろんな活動について話し合ったりというような、一年に一度ぐらいですけれども、そのようなこともあります。
また、地域、地域で、そこの。関東。関東地域で集まってという集まりもあります。それもいろいろな活動を行っていて、例えばボーリング大会、また何かのテーマを決めてそれを議論するなど、また誰か講師をお呼びして講義をしてもらうなど、いろいろな活動をしていました。 また、大学生活についての悩みなどを他の学生と話し合ったりもしました。そして、情報交換などというような活動がありました。またそれ以外には、個人的に何人かの人で集まって夜ご飯を食べに行ったりというようなこともありました。