投稿者「dipex-j」のアーカイブ

障害学生の語り

ある看護師に「そこら辺にいる15歳のガキ」だと言われ、「自分は人と違う」という思いから解放された。彼自身も透析をしており、彼のようになりたいと思った

(人工透析を始めるための入院で落ち込み、夜、食事もとらずに部屋に一人でいたら)いきなりですね、いきなりですよ、「何してんねん、受験生、電気も付けずに」って言われたんですよ。で、あれっと思って見たら、そこに立っておられたのはですね、先ほどまで透析室で透析を受けていた、看護師さんが立っていたんですね。私はびっくりしまして何も言えずにいたんです。そうすると、まあ、汚い言葉ですけども、「早く飯食って勉強せなあかんやろ、もうすぐ受験なんやから」、また言われたんですね。で、私はそれまで、自分がどうなるんかも分かんないっていう状況の中だったし、もう死んでもいいんちゃうかなっていうようなネガティブな気持ちでいましたので、(それなのにその看護師が)自分の気持ちを無視してですね、それがしゃべりまくるんですね。なので、イラッとしてですね、(その看護師に)背中をまた向けたんです、ぐるっと回って。だから、出て行くのを待ったんですね。が、その人、出て行かないんですよ。で、出て行かずにですね、また言葉を続けるんです。で、その人は、あの、こんなふうに言いました…、「透析やって人生終わったとか思ってんちゃうやろな。あほやな、おまえは」って言われるんですね。で、「俺から見たら○君(インタビュイーの名前)なんか、そこら辺にいる15歳のガキと一緒なんやで。早く飯食って寝て、明日は透析室で待ってるわな」って、「ほんならな」って出ていったんですね。
で、最初は腹立っていたんです、何言ってんねん、この人と思っていたんですけども、だんだんですね、その人がおっしゃった、「そこら辺にいる15歳のガキと同じ」っていうのがですね、すごく自分の心の中でどんどん、どんどんその言葉が大きくなっていくんですね。

えー、何かっていうとですね、あの、小学校のときに、えー、腎臓の病気というのを分かりまして、その後、長い入院生活の後、学校に戻るんですけども、最初はみんながですね、仲良かった友達も今までどおり遊んでくれるんです。遊んでくれるんですが、あの、だんだん、だんだんよそよそしいといいますか、何か腫れ物に触るような感じになっていくんですね。
で 、そういったことを考えるとですね、その男性看護師さんがおっしゃった、「そこら辺にいる15歳のガキと同じや」っていう言葉がですね、そういった自分自身は人とは違うんだっていうものから開放された瞬間になったのかなっていうように思ってます。で、その後に、高校のほうに無事合格をしたんですけども、それも後かな、えー、半年ぐらいした後に、その、「15歳のガキと同じや」ってその乱暴に言ったその男性看護師がですね、その人も人工透析を受けているっていうのが分かったんですね。で、(その男性看護師は)そこで働いていましたので、あ、こんなふうに透析をしながら働いておられるんだいうのを見ながらですね、自分もこんなふうになりたいな、人のためにというよりも、かっこいいなって単純に思ったんですね。
で、なので、その後に、看護学校に行きたいっていうふうに、両親に言いました。

障害学生の語り

社会人を経て、一人暮らしを始めたタイミングで時間が自由になり、前から大学で学びたかったので、大学に行き始めた

当時はですね、なかなか発達障害受けてくれる発達の、作業所もなかったんですけど、そこでね、たまたま発達障害受けまして、あの、診断受けて発達、あの、そこで作業所行き始めて、そこの作業所のね、だから教会関係だったんですね。教会関係でそのつながりでですね、アパート空いてるっていう話だったんですね。
それで当時、うちの弟がですね、結婚するってことになってまして、いずれうち出て行かないといけなかったんですね。うち出て行かないといけない、もめるのも面倒くさいですから、じゃあ独り暮らししますって話で独り暮らし始めて、そこで時間が自由になるわけで、前からやっぱりね、あ、放送大学すごくやりたかったなっていうのはあって放送大学に行き始めましたね。それ、2010年の話ですね。

当時、僕が、特別支援教育の勉強をしっかりやりたいっていうのもあって、子供好きっていうのもあったから、そこで勉強したいっていうのもあってね、いろいろ見てみたら、ね、わりと特別支援教育の科目とかもあったし。
まあ、放送大学ってね、教養学部なんで、いろいろ面白そうな科目があったんで、好奇心強かったんですね、いいなと思って入れました。入って、非常に楽しかったですね。

障害学生の語り

ロボットを作ってみたいと思い、ロボットを作るにはどうしたらいいかと高校の先生に聞いたら、まずは大学に行って研究室に入るのがいいとアドバイスをもらった(筆談)

私が進学を決めたのは高校2年のころです。確か冬。きっかけは、えーっと、高校2年の夏休みに、近くの大学の先生が高校まで来てくれて、まあ、ロボットの体験授業をしてくれました。そこから、まあ、ロボットを作ってみたいなと思って、大学に行こうと思いました。こういうきっかけなので、ロボットを作りたいということで工学部に進学を決めました。という流れですね。

――どんなロボットを作りたいなと思われたんですか?

夢の夢の話なんですが、まあ、ドラえもんをつくりたいと思っていました。昔からドラえもんが好きだったので、それを作りたいと思いました。

あの、大学に行くかどうか、は、小さい頃は全く考えてなかったです。というか、高校2年くらいになって初めてそういうものがあると知った、というレベルです。

――そうすると、中学とか高校のはじめの頃っていうのは、高校が終わったらどうするっていうのは何か?

高校卒業したら、地元の大きな会社の工場で、会社の歯車になって働く、というのが多いです。

――そういう風に思っていた。で、結果としていま大学院まで行かれて、今こうやって、工学系の開発の仕事をされているっていうことについては、やっぱりあの、その、ドラえもんの先生、ドラえもんの先生じゃないんだけど(笑)、そのロボットの先生に会ったことがきっかけで、こんなにこう、人生がわーっと開けたという感じなんでしょうか。

その先生の影響が大きいです。まあ、その先生と、その先生を連れてきてくれた理科の先生がいて、ロボットを作るためにはどうすればいいのか相談した。そしたらまずは大学に行って勉強して研究室に入るのがいいよというアドバイスをもらった。そこから具体的に考え始めた。

障害学生の語り

脚本家になりたいという夢があり、それが大学に行きたいと思った最初のきっかけだった。大学に行き視野を広げる経験をしてみようと思った

――そもそも大学に行きたいなって思い始めたのは、もう、あの、だいぶ前からですか?

そうですね。初めてその担任の先生に打ち明けたのは中学校、うーん、いつだろう…、1年か2年のときで、親に言ったのが高校2年のときか、だったと思います。

――はい。そのときは、こう何で大学に行きたいっていうふうに思われたんですか。

何か、あの…高校の同級、ど、あ、中学校のときに、何か夢で、脚本家になりたいっていう夢があって、えーと、文学とかいろいろ文章を、書けるために大学に行きたいなって思ったのが一番最初のきっかけで。
だったら…、大学に行って世界を、視野を広げるっていうか経験をしてみようかなって思いました。

障害学生の語り

大学進学を考え始めた時期は覚えていないが、小学校から地域の普通学校に通っていたので、みんなが行くから行くもんだろうと思っていた

――まず、大学進学を考え始めた頃って、いつぐらいからだったんですか。

明確には覚えてないんですけど、大学行くもんだろうと思ってました。

――行くもんだろうと。

うん。あの、特別支援学校じゃなくて普通の地域の学校に通っていたので、周りが障害のない友達ばっかりだったので、「あ、みんな行くんだから自分も行くんだろう」と思ってました。

――周りの方と、地域の学校に行かれてたんですね。

あ、そうです。

(高校は)都立高です。

――その(普通学校の)中学校からその高校に進学するに当たって、何かその進学のために、特別なこう、ニーズに合わせたサポートというか、あとその高校選択のときに何か困ったこととか、まあ、あのー、自分でこういうふうに工夫されたっていうようなこととかがあったら、教えていただきたいんですけど。

一応、特別支援学校も考えはしました。行きたかったわけじゃないですけど。

――それは、あのー、もうちょっと突っ込んで聞いてもいいですか。

はい。

――特別支援学校に行きたいわけではなかったっていうのは、どういうイメージをお持ちだったんですか。

あのー、基本的にそれほど勉強しないというイメージ。何か、何となくですけど、やっぱ大学は行くもんだって思ってたので。

――さっきもおっしゃってましたね、「大学は行くもんだ」。

うん、みんな行ってるから、みたいな。だから中学生のときは、「高校行くんだよね」と思ってたし、高校生になったら「大学に行くんだな」と思ってたので。

障害学生の語り

特別支援学校の高等科にあんまマッサージ、はり・きゅうの資格が取れる課程があった。自分は行きたいと思っていなかったが、親に泣きつかれて資格を取った

そうですね。その1つの学校の中に、幼稚部、小学部、中学部、高等部普通科、高等部専攻科理療科、高等部保健理療科っていうのがあるんですね。
学校によってももう1つ、2つ増えている、その高等部がもう1つ課程がある所もあるんですけど、大体がそういう形になってます。同じ場所に、あるんです。

――じゃあ、ご自身もそのまま同じ場所の高等部理療科まで行かれた?

そうです。同じ専攻科理療科まで、ずっと。

――理療科まで行かれたっていうことですね。

はい。通う所はずっと、そういう、まあ、小学校4年からですから、3かけ、3+3+3+3+、えーと、12年間過ごしたわけです。

――そこの、理療科に進もうと思ったのは…、何かきっかけがあったんですか。

うーん。行きたいと思ったことはないではないんですけど、本当はそのまま高等部普通科を卒業したら、プロミュージシャンとして生計を立てようと思っていたんですけど…、両親が泣き付いてきまして、どうしてもいいから…、うーん、どうしても…、はり・きゅうで、マッサージの資格は取ってほしいってお願いされたんで、しようがないかなっていうところでしたかね。
音楽で生計を立てるなんていうのは、いつ売れなくなるかもしれないっていうふうに、思っていたらしくて、確実にその、収入が得られると期待される、そういう、その医療のほうの仕事に就いてほしいっていう、願いがあったようで、もう、それを聞き入れたっていうかたちですね。

障害学生の語り

予備校は、集団だと難しいと思ったので個別指導の学習塾を選んだ。参考書も、自分が見やすいものを選んでいた

あの、受験する上で結構大事なのが予備校ですよね。で、えっとー、私は、弱視なので、結局やっぱり先生が黒板にバーッと書いているのをみんなで聞きながら、聞いていけるような、こう、集団授業の予備校は1回だけ見学に行ってみたんですが、やっぱりちょっと難しいかなと。あるいは、ビデオを見て勉強するようなサテライト形式っていうようなのもちょっと難しいかなということで、結局、えー、先生と1対1で参考書解きながらやる、個別指導の学習塾に通わせてもらいました。
で、その学習塾に入塾するときも、「私ちょっと視力が悪いので、あの、教材はちょっと拡大コピーして使わせてくれないか」とか、ちょっと、こう、「先生の解き方の説明なんかしてもらうときはやっぱりちょっと顔近づけて見るのでね、あ、ちょっと先生、びっくりするかもしれませんけど、ご了承ください」とか、そんな感じの話をして、「いいですよ」と言ってくれた学習塾で、勉強を続けていました。
そうですね。で、参考書とかは、あのー、本屋に自分で見に行って、やっぱり、印刷がね、小さかったりとか、色が薄かったりとか、いろいろ使いにくいものやら、使いやすいものやらいろいろあったんで、いろんな、あの、参考書を見て、分かりやすいものはもちろんですけど、何より自分が読みやすいものという観点で選んで、参考書を買って勉強をしていました。

障害学生の語り

内申点は全ての科目の平均点なので、車椅子の自分は体育がネックだった。結局、体育は履修の権利を放棄して、推薦をもらった(テキストのみ)

内申があるので…、内申点が悪いと推薦をもらえないじゃないですか。
で、身体障害があって何がネックかというと体育がネックなので、平均点、平均の内申で全部足して割ったのが平均の内申になっちゃうので……、どうしようかな…。
で、私がどんなに体育について調べて素晴らしいレポートを書けたとしても、ですけど…、5にはならないわけですよ…。だって本当に体育やっている子からしたら不公平だし、配慮があることと不公平なことは、また別だと思っているので。
不公平があったらいけないなと思う中で……、良くても3ぐらいしか付かないのが分かり切っている中でどうしたかというと…、体育の授業を受ける権利を放棄したんですね…。体育は受けません、なので点数も要りませんというふうにして、私の通知表の体育の欄は…、白紙というか棒線がこう1本引かれたような状態なので。そうすると……、足されもしない割られもしないので、体育以外のものの中で平均内申が出たので、それで推薦をもらえました。

(体育の授業を受ける権利を放棄したという)そこのね、あの、経緯を、詳しく覚えていなくて、大変申し訳ないんですけど。多分…、当時の私からそんな発想が出てくるとは思いづらいんですね。そこから考えると学校のほうが、じゃあ内申どうするかっていうときに体育がネックだよねっていうところまでは…、私側が出したと思うんです。
なんだけど…、こういう方法があるよねっていうのは高校がやってくれたかもしれない。

障害学生の語り

AO入試では、「資格AO」のために福祉資格を取得し、「論文AO」のために論文の準備をした。ディスレクシア(書字障害)があり、論文の手書きが大変だった(音声のみ)

大学に、入るときは、まあ、最初は普通に試験で受けようと思ってたんですけど、やっぱりちょっと成績があんまり、良くなかったっていうのもあって。
そのときに、えーと、資格AOっていうのがありまして、こう大学が指定している資格一覧の中から、どれか資格、1個取れば、それでAO入試に入れるっていうやつがあって。
その中で同行援護従事者っていう、これ、もう僕が障害者福祉の世界に興味を持つようになったきっかけになる資格(仕事)なんですけど、ガイドヘル、視覚障害のガイドヘルパーの資格なんですけど。

で 、まあ、それで先生に、この資格取ってみたらっていうふうに言われて(もらえて)、で、その資格を取って、何か、一応何か論文AOもあったんで、何か論文AOと資格AOの両方の準備をして、まあ、両方同時に受けて、受けて、で、まあ、結局大学側から、論文と資格どっちにするんですかって電話がかかってきたっていう感じですね。それで(資格AOのほうで)大学に受かりました。

論文AOのほうでも何かすごい、あの…、何か、だいぶ夏休みとかはもう毎日のように、一応ね、その論文AOが手書きなんですよ。(発達障害のディスレクシアのために、手書きが苦手なので)だから何か、一回全部パソコンで打って、ほんで、担任の先生が国語の先生やったんで、こう文章おかしくないのか、ないか毎日確認してもらって、で、それで修正して。
ほんで、ちょうどあの入ってた部活が工学系の部活やったんで、その先生にそういう、工学系の情報のことを聞いてっていうのを毎日繰り返して。ほんで、それで最終的に、いい文章になったら、あの、それをこう指定の、用紙に書き写すっていう…、作業をして。
で、何か、論文AOでも通るっていうふうに先生が言ってくれてて、それで、でも一応資格AOにしとこうみたいなので資格AOで入って

障害学生の語り

推薦入試のための作文は、高校の先生に問題を準備してもらい見てもらった。面接も、何人かの先生に練習をしてもらって本番に臨んだ

で 、受験までに、えーと、どんな準備をしたかっていうと…、作文と面接だったので、作文はその受験指導をしてくださる先生が論文の問題を用意してくれて、それに対して自分の意見を書くっていう練習を続けたりとか。
あと、放課後もその学校に残って、その意見文を書くっていう…、練習を続けた、続けたりとか、あと自分の、思ったこととかをスムーズに書けるようにというか…、そういった要点をまとめる練習みたいなのを中心にして、えーと…、受験のその準備を作文のほうではしていって。
そうですね、面接のほうでは、何人かの先生に面接を、面接の練習をしていただいたときに良かったところと、もうちょっとこうしたほうがいいよっていうところの…、ワークシートみたいなのを担任の先生に作っていただいて。
えーと、それをもとに、それを面接官の先生に渡して終わった後に記入していただいて、1回終わったら…、その評価を書いてくれた紙が返ってきて、それを次に生かしてっていうふうなかたちで、何人かの先生と面接を重ねていきました。