投稿者「dipex-j」のアーカイブ

障害学生の語り

面接では「車椅子で何ができるか」という話から始まったが、率直にできることとできないことを話し、患者さんに関われるなら事務職でもいいと伝えたが、看護職で採用された

面接は事務部長さんと看護部長さんと人事の人と僕っていうので、すごい緊張、個室で緊張したんですけど、最初に、何できる?っていう話から始まって。もちろん車椅子なんで、何できる?っていう話から始まりました。
で…、移乗とかは、そのとこで、僕はやっぱり移乗とかできないものはできないって言うのは大事なことだっていうのは途中で…、何回か、他の今までそういう面接だったりで分かってきてたんで。できないことをできるって言っても、それはうそになるし、できないもの、だから移乗とか、そういった体位変換だとかっていうのは1人だと難しいですっていうのは伝えました。
ただ観察や、今まで学校で学んできた知識を使っての、観察だったり、そういった体を使わない作業で、作業だったり仕事であれば僕はやることができますっていうふうに率直に伝えました。ここは…、見栄を張らないほうがいいところだなっていうふうに思って伝えました。
で、そこから始まって、大変だったでしょうっていう、いろいろ話とかはさせて、していただいたり、いろいろあとはそうですね、将来何になりたいかっていう話をしました。将来どう、どういう人になりたいかっていうのを言われたときに、やっぱり自分はそういうコミュニケーションだったり、そういうのを取ることを、主になるコーディネーター系の仕事であれば自分もできるんじゃないかと。もしくはこれからは退院支援、退院した後のケアだったりっていうのを、もうスムーズにつなぐ部分っていうところだったりっていうのであれば僕もすることがしたいです、と、言いました。
で、それは酌んでくださって。ただ、僕はそこに加えて、ただ、看護職にこだわる必要は僕はありませんって、先ほど言ったように、その今まで培った知識を活かして患者さまに関わることができる仕事であれば、僕は何にでも、何でもやりますと、事務でも何でもやりますっていうのを言い切ったら、そうしたらそこの部長さんは、部長さんが……、あれですね…、ただの看護免許を持った事務で終わるか、それとも何か○(自分の名前)くん、えーと、僕に、僕にしかできないことを何か突き詰めた看護っていうのができるようになるのかっていうのは、最初の1~2年が一番大事になってくる、だからできるだけ看護師採用でのって、方向で考えてみますというふうに話をしてくださって、で、実際に看護師というかたちで採用のほうはいただいて、いただきました。

障害学生の語り

面接では「看護師は無理」と言われ続け心が折れかけたが、ある病院で「透析していることが患者に関係あるの?」と言われ、初めて普通に志望動機を聞いてもらい、そこに就職した

当然、履歴書には毎回いつものように人工透析をしています、週3回していますって書くんですね。書くんですが、行く先、行く先ですね、全てで同じ反応なんですね。履歴書見ながら、「透析されているんですね。看護師は重労働ですよ。まだ若いんで、他の仕事のほうがいいんじゃないですか。デスクワークもありますよね。そちらのほうがいいんじゃないですか」って言われるんですね。
なので普通、就職の面接っていうのは…、志望動機であったりとか、この病院でやりたいことは何ですかっていうのを聞かれるのが普通だと思っていましたので、その答えは全部、用意して行ったんです。ただ、そういうことをずっと言われる、続けるんですね。そうすると看護師になったらあかんのかなと、途中、思いだしてですね、だんだん、だんだんやっぱり気持ちが折れていくんですね。心が折れていくんですね。

なので、1月の中旬に5つ目の面接を受けたんです。で、もちろん当然のように履歴書には透析をしていますって書きました。で、ただ、これが駄目なら、もう田舎に帰って、田舎は農家をしていましたので、もう農家の手伝いでもいいかなと、看護師を諦めて農家の手伝いをしようっていうふうに思っていたんですね。
で、5つ目の面接のときに、いつものようにまた始まるんですね、ルーティンが。こういうふうに、看護部長、履歴書見ながらですね、「透析されているんですね、○(自分の名前)さん」って、もう言われたんですね。で、もう心が半分折れかかっていましたので、その言葉を聞いた瞬間にですね、自分から言ったんです。「透析してたら看護師無理ですよね」、自分から言ったんですね。そうすると、その看護部長さんが履歴書をずっと見ていたのをですね、ぱっと目を上げたんですね。目を上げながら、私の顔をじっと見るんです。
そして…、「透析しているって患者に関係あるの?」って言われたんですね。で、初めての言葉だったので理解できなかったんです。で、看護、えー、看護部長さんがですね、「もう一回言うね」って言われたんですね。「病気で有るとか無いとか、患者に関係あると思ってんの?」って言われたんです。いや、ないと思います。「ないと思っているんだよね、あなたは。じゃあ、二度とそういうことを言わないで」って言われたんですね。
で、その後に、今までの面接ではなかった、この病院を選んだ理由は何ですか、この病院でしたいことは何ですかって聞かれていったんです。それ聞かれて、えー、もう面接が終わるときにですね、もう自分で気付かなかったんですが、その看護部長さんに「何で泣いてんの」って言われたんです。知らないうちに泣いていたんですね。
「ここの病院に就職するの嫌なん?」って言われたんです。いや、嫌やないですって答えながら。で、その看護部長さんに最後に言われたのが、「まあ、結果はどうなるか分かんないけども、私はあなたのような人と一緒に働きたいというふうに思っています」と。「まあ、結果は後日、お知らせしますね」っていうことで、面接を終えて、その後に合格って決まりましたので、で、そこに就職は決まりました。はい。そういう感じです。はい。

障害学生の語り

自分がクローン病で入院していた病院の就職試験を受けて、面接では「この病院をIBDの世界で日本一にします」と宣言して、病気を味方につけて希望通りに就職できた

――就活は4年生で行った感じですか?

そうですね。一応その(病院の)姉妹校だったんで別の、外部の方とは別の就職試験があって、それで、試験を受けて合格もらってっていう感じです。

――試験のときは、こう大学入試の、あの備考欄に書いたみたいに、やっぱりご自身のことは、その、書かれたりされたんですか。

そうですね。面接があったので、もうそのときに、その志望動機とか、どこで働きたいっていうのは全部その今まで話したような流れで、病気になってクローン病になったから看護師になりたくて、ここの病院に来ましたと。
で、高校生の頃は看護師になることが目標だったんですけど、でも実際勉強してたら、そのIBD(炎症性腸疾患)っていう世界が、まだまだ光の当たってないところで、入院してた病院がその分野で有名だったので、僕はここの病院に来て、その分野でこの病院を日本一にしますっていうのを、その面接官、の人たちの前で言わせていただいて。僕はここでこの病院でこういうことをやりたいですっていうのを、そこでも多分病気っていうのを味方に付けて、で、就職したっていう感じですね。

――その面接官とかは何か、ご自身にこう、ご自身が言われることに対して、どんな反応でいらしたんですか。

どんな反応。授業に来ていただいていた部長さんが、いてはったので、特にその病気があるからちょっと難しいんじゃないとか、その夜勤が難しいとか、そういったその実際の仕事の話とかも全然、してなかったようにも思うんですけど。どちらかというと大学4年間はしっかり体調管理して過ごしたので、働いてからも自分で体調の管理をして、他の人たちと同じように働いていきますっていうふうに言ったような気はします。

――こう具体的に、ご自身がIBDにちょっと、光が当たってないことを受けて、ご自身としてはどんな、こう看護をしますって言って、その面接に臨まれたんですか。

どんな看護、それは今で、今もちょっと…、アバウトというか、すごい抽象的でしかないんですけど…。多分、僕自身が病気ではあるんですけど、僕が頑張って働くことによって見てもらったら、他、見てくれる患者さんとかも希望は与えられるのかなっていうのもあったし、自分だから、できるようなことも、病気だからできることもあるんじゃないかなっていうのも思っていたし。
どういう看護をしたいってなると、何か実際その働いてからの話になってしまうんですけど、病気である自分と患者さん、同じ病気の人と接するときにやっぱり他のスタッフとかと信頼関係っていうのは違うなっていうところもあるんですけど、近過ぎるところもあるなって思って。病気じゃないと、分から、病気じゃない人じゃないと分からないこともあるのかなっていうのはあって。僕ができることって目の前にいる人に対してでしかないので、他のいろんな人がいろんなIBDの患者さんに対していい看護ができるようになったらいいなっていうのをそのときに言ったような、言っていないような感じですかね。

障害学生の語り

ある大学に応募した際、履歴書に病気のことを書いたら、指導教員に「難病患者に助教が務まるのか」と問い合わせが来た。それ以降、病気のことを書くのをやめた

そうですね、大学教員の、ちょっと順を追って話しますと、大学教員になろうって決めてから何度も履歴書を出してるんですけど、ある大学に履歴書出したときに、「難病の患者に助教が務まるのか」っていう電話が私の指導教員にかかってきたんです。で、うちの指導教員としては、やっぱり困惑しつつもそういったことがあったと伝えてくださったんですけど、すごく私はそれが嫌だったんですね。で、大学、今大学教員である自分の指導教員は、「一緒に働く者として、あの、そういったことを聞きたくなるかもしれない」とは(言っていて、指導教員が意味するところは)、あの、別の視点を持てという、ことなんだと思うんですが、言っていただいたんですけど、私はそれがすごく納得できなかったんです。せめて私に直接言えばよかったのにって今でも思っているんですが、それ以降、あの履歴書に自分の病気のことを書いていません。それは、いろんな法律なんかもちょっと調べて、書かなきゃいけないものではないというふうに分かったからです。

障害学生の語り

仕事をしていく上では重要なことだと思い、夜間透析をしていると履歴書に書いたところ、「病気をしている人が看護師なんてありえない」といわれた

情報収集する段階で、えー、まず透析をしながらというか、障害を抱えながらできるのかなっていうところは、学校の先生に相談をしたんですね。相談をすると、「いや、大丈夫、大丈夫よ」ってみんなおっしゃるんです。なので、大丈夫だなって自分では思っていましたし、実際にその透析をしながら働いているっていうのを見てきましたので、大丈夫、自信はあったんですね。で、ありましたので、就職には問題ないというふうに考えていました。

ただ、1つ目の受けた病院がですね、もちろん履歴書のところに、週3回透析をしています、夜間透析をしていますっていうのを書くんですね。もちろん自分が恥ずかしい部分でもありませんし、仕事をしていく上では、もちろん重要なことになってくると思いましたので当然のように書いたんです。書いて、で、就職試験を受けました。
で、面接のときにですね、もういつも面接官が見るんですよね、看護部長さんがこうやって見ながら、「あ、透析されているんだよね」っておっしゃるんですね。あ、やっています、夜間透析していますって答えると、「病気をしている人が看護師なんてあり得ないわよ」、1つ目の病院で言われました、看護部長さんに。それを聞いたときにですね、あれ、学校の先生は「大丈夫よ」って言ってたのに、実際働いている人いるのに、何でこんなこと言うんやろうと思ったんですね。
でも透析をしていても障害を抱えていても看護師として自分はできることあるんと違うかなってずっと思っていましたので、その後も就職先を探していったんです。

障害学生の語り

大学院1年の時にインターンに行った会社で、筆談でのコミュニケーションを希望したところ、全く嫌な顔もせず受け入れてくれたので、改めて試験を受けて入社した(筆談)

実のところ、その説明会で、ま、いろいろお話を聞いた会社には行かなくて、えーっとまあ、言い忘れていたのですが、院1年の夏にインターンに行った会社があって、就活の終わりごろにその会社のことを思い出して、改めて受けたらいい感じだったので、ま、そのまま入った、という流れです。

――えーっとその院生の1年目でインターンに行かれたっていうことなんですけど、そのインターンに行く時に、あのこれはえーっと、やっぱり開発系の会社とかだったんですか。

あ、開発、IT系のソフトを作っているところです。

――こういうインターンの時とかは、ま、ご自身が聞こえないということとかを、あの、相手の会社に伝えたりとか、そういうことはされるんですか。

はい、まあ、伝えました。で、その時、インターンの時は、基本的にしゃべりはやめて、全部筆談でコミュニケーションを取ってもらった。そのとき、社員の人は全く嫌な顔をせずふつうにコミュニケーションをとってくれたので、いいところだなと思った。
でまあ、実際に試験を受けて受かった後に、配属予定の職場、インターンのところとは違う部署、の見学に行った時も、似たような対応だったので、会社全体として障害者に理解がある、特別なことを言わなくてもスマートに対応してくれる会社だなと思って入った、という流れです。

障害学生の語り

自分の視力障害を説明した文書をつけていろんな自治体に応募した。小さい自治体からは断られたが、県庁では充実したインターンシップを経験することができた

私は大学3年生のときに、大学があっせんしているインターンシップの制度を使って、県の国際課、県庁の国際課で、実習をしました。確か1週間だったと思いますね。インターンシップという形で実習をさせていただきました。これ応募するに当たっては、大学側が指定した応募用紙と別に、ご参考文書という形で「私の視力障害について」という文書を用意して、実習先の方には一緒に渡していただくようにキャリアセンターにお願いしました。
 
大まかな内容としては、コンタクトレンズを使用して矯正視力が0.1であること、それからパソコンや、蛍光灯がまぶしいために遮光レンズを掛けていること、それから、近視であるため遠くは見えないんですが、手元で行う作業は目を近づけて、えー、見ることができるので可能であること、それから、顔を近づけても見えない場合には長時間の作業では、ルーペや拡大読書器を使えばできること。それから、パソコンも、えっと、設定で画面を大きくすることで使えること。で、外を歩くときには白い杖を使っているが、道を覚えれば一人で歩けること。で、それから、初めての場所やまぶしい場合には介助が必要であること。それから、屋内は一人で歩き回ることができること。で、何かご質問があればどうぞというふうに、文書にまとめて出しました。
で、これを出したことで、正直私は、幾つかの自治体にインターンシップの要望を応募をしたんですけれども、やはり小さい自治体は、このような文書出したことで、ま、ちょっとそれだと受け入れは難しいと言われてしまうようなこともありましたけれども、最終的には県庁のほうで受け入れていただきまして、担当の方も非常に私の状況をよく理解してプランを組んでくださいましたので、非常に充実した実習を、行うことができましたね。

――具体的にはどんな、インターンシップの内容だったんですか。充実してたっていうことなんですが。

えー、そうですね、午前中は基本的に、皆さんの本業の仕事も忙しいので、午後に見学に行くところの予習などで一人でちょっと文書なんかを読んでることが多かったと思います。で、午後は、外出される職員の方について、他の、私は国際課ということで、ちょうど外国人との共生を考える部門の実習をしていたので、地元のボランティア団体の方ですとか、えーっと、もう少し県より小さいレベルの自治体の担当者の方ですとか、会議に同席さしていただいてお話を伺ったり、まあ、そういう。
あと、JETプログラムっていう、海外から来る若い学生さんというか、学生さんに限りませんね。若い社会人の方にアシスタントティーチャーとして、英語の授業に入っていただくプログラムがあるんですけども、その説明会の運営補助をしたりですとか、そういういろんな立場の方とお話しする機会をいただいて、何か自分がしたというよりもですね、ほんとに社会で働くいろんな人から話を聞くことで、働くということの具体的なイメージをつかむことができたということは非常に大きかったですし、社会人の中で、ま、自分の障害をうまく説明しながらやっていくということについても自信がつきましたし、
で、最終的に、最終日に、こう、県への提案ということで、外国籍の児童・生徒へのサポートをどうすべきかということを、自分がいろんなサポートを受けて地元の小学校の普通学級で通っていたという経験から、専門機関との連携ができるということをもっと当事者にアピールしたほうがいいというふうなことを、生意気にもですね、プレゼンなんかして、いろんな機会をいただいて、あの、帰ってきました。

障害学生の語り

大学院2年目に、AI系の研究開発をやりたいと思って就活を始めた。一般向けの説明会より1対1で話が聞けそうな障害者向けの説明会に絞って情報を集めていた(筆談)

基本的にはエンジニアになりたいと思っていました。でも、なんだろう、ちゃんとどういう仕事をしたいか決めたのは就活シーズンに入ってからでした。まあ、それまではぼんやりと「エンジニア」くらいでした。

――就活シーズンと言うのは、大学院に行ったときのですか。

ああ、そうです。大学院の2年の頭くらいですね。

――大学院の2年の頭くらいだと、ご自身でも指文字の研究をしながら就活をされたのかなあと思うんですが、そのあたりでは、どういう仕事をしたいかというのは、具体的にはじゃあ、どんな仕事をしようという風に考えられていたんですか。

ああ、まあ、具体的には、えーっと、AI系の研究開発をやりたいと思っていて、それで就活をしていました。

――えーっと就活を、就活をされ、していた時には、AI系の研究開発だと、具体的にはどんなところが就職先として挙がってくるんですかね。業界と言うか。

ああ、なるほど。業界としてはメーカー系。えーっと、まあ、社会的影響が大きい、まあ、作ったものがいろんな人に使われるようなところを中心に探して、実際に就活では、その会社の社員とお話しする機会をもらって、まあ、実際にお話をして、自分がその会社でやっていけるかどうかというのを、結構感覚的に見て、良さそうなところをえらびました。

ああ、聴こえないことで就活をどうしようかというのは、えーっと、まあ、まず基本的には、障害者の採用を受け入れていますというところがあって、そういう会社がまとめて集まって説明会をするイベントがあります。そこに行って情報を集めていました。逆に言うと、そういう説明会以外は行っていないので、情報が結構偏っているというのはありますし、

――ご自身としては、それ以外の一般のところを見てみようとか、そういう思いはもとからなかったんですか。

ああ、そこはあんまり考えなかった。まあ、一般の説明会は倍率が高くてなかなか希望の会社の話を聞けないという話を聞いていたので、逆に障害者向けの説明会だと1対1でお話ができるので、じっくり話せるほうがいいかなと思ってそっちを中心にいっていました。

障害学生の語り

最初は大学のキャリアセンターが開催しているセミナー等と並行して障害者向けの就職セミナーでも情報収集をした。医薬翻訳をやりたくて片端から関連企業の説明会に参加した

まあ、就職活動について具体的な話が出だしたのはやはり大学3年生に入ったときですね。最初は大学側のキャリアセンターが、開催している、例えば自己分析ですとか、業界の大まかな概要ですとか、就職活動の心構えのような、全学生向けのセミナーに出て、何となく情報収集をしているという感じでしたね。
で、それと並行して、えーっと、障害者向けの就職セミナーっていうのも、幾つかあるんですよね。有名なところでは、サーナとか、クローバーとかいわれている、就職情報サービスが当時は非常に有名だったので、その、主にその2社のセミナーなどにも参加しまして、障害者採用の情報収集も始めていました。
えー、最初のころはとにかく大学側、大学にも、うちは東海地方でそこそこ大きい大学だったのもあるんで、某超大手自動車メーカーの、こう、系列会社ですとかね・・・を中心に、たくさんの企業が、説明会を大学で開催していました。なので、その大学で開催されている説明会などに出て、まずはどのような業界が世の中にあるのかとか、そういう情報収集をしていました。
それと並行して、いわゆる障害者向けの就職集団説明会にも顔を出して、どういう企業が集まってるのかとか、どういう職種が募集されてるのかというふうなことの情報収集をしていました。もうその障害、障害者向けの就職説明会の、会場では、高校の同級生にもよく会いましたね。それぞれ大学、バラバラに大学に行っていた同級生たちがまた集まってきているというふうなこともありました。
そうですね、で、そうやっていろんなセミナーに片っ端から行く中で、とあるセミナーで、こう、自己分析をするようなワークを通して、やっぱりそういう人の役に立ちたいとか、困っている人の力になりたいというのが、私の働く上での大きなモチベーションかなというふうなところから、医薬品業界は私の、やりたいことに近いんじゃないかということ、それから、医薬翻訳っていう翻訳の分野があって、自分が今、興味持って勉強している翻訳っていう仕事も、スキルも活かせるんじゃないかというところで、そういう医薬品メーカーで、そういう翻訳の仕事ができたらいいなというふうな希望がだんだん固まってきたのが、3年生の夏ぐらいかなだと思いますね。
で、その辺りから、いわゆる大手の就職情報サイト、これは一般学生向けですよね。何ちゃらナビ、何ちゃらナビとかいろいろあるような、大手の就職情報サイトで、とにかく情報がないので、医薬品、いや、医薬品じゃないや、えーっと、医療ドラマのエンドロールに、制作協力って出てくるメーカーの名前を片っ端からメモして、片っ端から検索したりとか、いろんな形で、とにかくどんな会社があるのかというふうに情報を集めまして、正直ちょっと、そういうメーカーは募集が早いので、ちょっと動き始め遅い感じだったので、説明会の空席なんかも少なかったのでですね、とにかく空席があるとなったらどこにでも行きましたね。一番遠いのは九州まで行きました。行ってとにかく説明会に出て話を聞いて、情報をひたすら集めるというふうな形で活動をしていました。

障害学生の語り

自分で個人事業を立ち上げ、障害や病気を持つ人と一緒に企画する講演会や、障害のある子とない子が一緒に行うモノづくりなどの活動を行っている(音声のみ)

そうですね。何か…、こうずっとやってたのが、えーと、そうですね…。そういう障害とか病気を持たれている当事者の人と一緒に、何かプロジェクトとかイベントを企画したりとか、えーと…、そういった方向けの何か講演会をやったりとか…。
 あとは、えーと…、何かアイディーラボっていう、「ものづくり」っていうのをキーワードに、こう、まあ障害が有る子供も、無い子供も何か「ものづくり」をキーワードにこう一緒につながって、あの、3Dプリンターとか、電子工作とか、プログラミングとか、ものづくりを通してこう一緒にお互いに楽しめるような、こう何ていうんですかね、インクルーシブな、ワークショップを、あの、まあ、いろんなとこに出向いてやってて、それをやっているのが一つ、そことやってて。
 ほんで、あともう一つが、えーと、これが、さいき、あの、えーと、去年末ぐらいに始めたことなんですけど、障害をもたれている方って結構、えーと、診断度合いとか、えーと、手帳の有無とかで、あの福祉制度がうまく使えなかったりする人が結構多くいてて。ほんで、何か、そういった方々の、保険外の自費での訪問支援サービスを今は事業としてやっているというふうな感じですね。この3つかな、まあ、そういう、まあ、イベントプロジェクト、企画と、えーと…、まあ、ものづくりワークショップと、えーと、訪問系サービスの3つを中心にやってます。

あんまり何か、先ほど言ってたような、あの、訪問系サービスとかをするの、もう全部、あの「当事者トーク」も、何か、一番は何か、何ていうんですかね、人と知り合う、何か活動をやっていく中で、こう人と会ってこう新たなプロジェクトとかサービスをどんどん考案していっているんですけど、一番は多分自分のためでしょうね。
 何か…、やっぱり何か、その「可能性をクリエートする」をスローガンに掲げているんですけど、やっぱり何か時々自分自身の可能性を狭めて、まあ、今でこそそうなんですけど何か、自分自身の可能性を狭めてしまったりとか、あの、結構自分自身のこう将来についてすごい悩んだりとか、やっていってて。だから、そういう自分を何とかしたいっていうのが多分、結構根本的にあるのかなっていう。

何かほんまに…、あの、今、自分がサービス提供する側ですけど、何か常に、何か今自分がやっていることって、ほんま常に自分が提供されたい側なんですよね。何かそれ、そうっすね、何か今のサービスも、も、自分が提供されたいし。だから何か結構こうワークショップとかやるときも、結構主催者ってこうちょっと、司会みたいなのでやって、ちょっと立っているだけじゃないですか。もう、だから、もう参加者に混ざり込んで一緒に考えたりとかして、やるときも結構あって…。
 だから何か、そういう場を、つくる。何か、元々やっぱり何かその大学とか、高校とかで何か、あの、まあ、大学入ってからは、が、そのリアルな友達っていう、みたいなのが、なかなかちょっとこうできにくかったんで、だからそういう場をつくって何かつながるようなことを、常に何か求めていたような、そう思いますね。