※写真をクリックすると、動画の再生が始まります。
インタビュー時年齢:35歳(2019年8月)
障害の内容:聴覚障害(難聴)
学校と専攻:大学・障害児教育(2002年度入学)
東北地方出身の女性。生まれつきの難聴。4世代の大家族で育ち、小中高は普通学校に通ったが、聞こえないことを誰にも言わないで過ごしていた。大学進学を機に実家を離れて、初めて聞こえない人と交流を持ち、授業にはノートテイクをつけ、手話も学んだ。大学時代は自分の聞こえ方と向き合う機会が多くあった。現在は、夫と義両親と四人暮らしで、小学校の教員として働いている。
語りの内容
(アルバイトは)いろいろやったんですけど、あの、小学校の、夏のプールの監視員もやったし、あとテストの採点、進研ゼミとか何とか模試、高校生がよくやるような何か模試の丸付けのやつもやったし。あと居酒屋の何か皿洗いとかもやったんですけど、あれはやっぱり聞こえなくて嫌な思いをして、もう辞めてやるって辞めましたね、はい。
――差し支えない範囲でいいんですけれど、聞こえなくて‥‥。居酒屋、居酒屋さんとかって結構多分大学生とかはよくやるアルバイトかなと思うんですけど、その聞こえなくて嫌な思いっていうのは、どんな感じのことだったんですか?
あの元々やっぱり接客は苦手というか、聞き取れなくてご迷惑をお掛けするので、厨房(ちゅうぼう)の皿洗いってことで入れてもらったんですけど、結局洗っていると後ろから何か注文の話とかされても聞き取れないので、うまく答えられないから…、何て言われたんだったかな。何か、今はもう思い出せないですけど、聞こえないふりしてみたいなことを言われたんだったか。聞こえるのに聞こえないふりしてみたいな、多分そんなようなことを多分ずっと言われてて、うん、もう嫌になったんだと思います、きっと。うん。
――その、小学校のプールの、監視員とか、あの採点、模試の採点とか、そういうのは何かこう大学のつてとかでアルバイトを探してきたんですか?
うん、うん。そうですね。はい。で、プールの監視も1人じゃないので友達とできるので、割と良かったし、採点も、結局うるさい所で何かするわけじゃないので、答えを教えてもらってひたすら丸するだけ、だったので、それは良かったですね。はい。
――結構こう、たくさんアルバイトはされていたんですか。
たくさんといっても、その3つかな。あ、家庭教師もしてました、一時期。これも大学の先生のつてというか、うん、聞こえ、難聴のお子さんの家庭教師もちょっとさせてもらったりしてましたね。はい。
インタビュー26
- 高校を卒業するとき、一番にまず実家を出て親元を離れることを考えて大学を選び、支援の受けやすさのイメージで学部を選んだ
- 自分より聞こえない先輩にはノートテイクがつくが、自分の場合は、聞こえるでしょ?と言われた。その先輩は、情報保障の必要性をうまく説明できていたのだと思う
- 実習では、理解が得られず大変だった。悪い癖が抜けず、初対面の人に配慮を求めていいかどうかすぐに判断してしまい、実習先では対話のための努力もしなかったように思う
- 最初のオリエンテーションで、今がチャンスと思って難聴だと周囲に伝え、ノートテイクや情報保障のことを聞こえない先輩に教えてもらって、徐々に使うようになった
- アルバイトは、小学校のプールの監視員やテストの採点、模試の丸つけなど、色々やった。居酒屋の皿洗いのアルバイトでは、聞こえないことで嫌な思いをして辞めた
- 自分でノートテイクを利用しながら、大学のノートテイク活動の運営にも関わったことで、情報保障のノウハウなどを学び、職場に出てから必要なことなども持って卒業できた
- 聴覚障害に関する日本の基準は、世界とはかけ離れており、他の国だと自分より軽度でも支援がある。日本は検査も音が聞き取れるかだけで、言葉の聞き取りの判断がない
- 大学で聞こえない人に会い、早く聞こえない人の仲間になりたいと思った。だが次第に聞こえない人との違いを知って、自分は聞こえない側にはいけないとも感じるようになった
- 友達は、自分が聞こえていないことを分かっているような時も、教えてと言わないと教えてくれなかった。友達と言えども、教えてと言わないといけないんだなと思うようになった
- 大学の一時期、人と距離を置きたかった時期があった。親友はそれに気づいて、詮索することなく受け入れてくれた。自分の聞こえについては、ずいぶん彼女に整理してもらった