診断時:27歳
インタビュー時:33歳(2008年10月)
九州地方在住。2002年春、右乳がんで、右乳房切除術とリンパ節郭清、同時再建(エキスパンダー挿入)、術後化学療法を受けた。エキスパンダーは、術後アレルギー反応を起こして取り出すことになり、その後、再建はしていない。 当時、離島で授乳中の子どもと夫の3人暮らし。治療中は子どもと2人で九州の実家で過ごした。その後、夫も離島を離れ、現在は家族3人で暮らしている。
プロフィール詳細
2002年春、KKさん(仮名)の27歳の誕生日、右胸のしこりが以前より大きくなっていることに、夫が気づいて教えてくれた。自分では気づかなかったが、触ってみるとピンポン玉くらいの柔らかいしこりがあった。その当時、夫と授乳中の子どもと離島で暮らしていたので、すぐに、島の外科に受診したところ、精密検査を勧められ、九州の総合病院で検査を受けることになった。そして検査の結果、乳がんと診断された。20代ということもあり、授乳中だったので、良性のしこりだと思っていた。自分が乳がんと聞いてショックは大きく、わなわなと震えたことを覚えている。
翌日、親戚の勧めもあり、セカンドオピニオンを受けに、別の病院へ行った。そのときの医師の対応がやさしく、説明が丁寧で納得できるものだったので、セカンドオピニオンを受けた病院で治療を受けることにして、10日後には入院。右乳房切除術とリンパ節郭清、エキスパンダー挿入による同時再建術を受けた。術後、エキスパンダーのアレルギー反応があって、バックを取り出さなければならなかったが、その後も再建はせず、パットで補整している。
術後の病理検査の結果では、悪性度が高く、若年性で授乳期のがんであり、ホルモン療法もハーセプチンも効かないタイプだと説明された。補助療法は化学療法しかないと言われ、CEFとタキソールによる化学療法を受けることになった。治療中は、子どもと自分は九州の実家、夫は仕事のある島で別々に暮らしており、抗がん剤の副作用で体がつらいことに加え、子どもの世話もできず、将来を悲観して、精神的にもつらい時期を過ごした。治療後は、夫と話し合いの結果、夫が転職して、九州に住まいを移して、新しい生活を始めることにした。
治療が一段落して、病院の患者会に顔を出すようになったことが転機となって、気持ちが徐々に前向きとなり、先輩患者として、他の患者の相談に乗ったり、下着の試着を手伝うなど病院でスタッフとして働くようになった。その後、乳がんの啓発活動を経て、現在は、乳がんに限らない、すべてのがんの患者会を立ち上げ、運営にあたっている。将来の夢は、子どもの成人式とともに、発病20年となる乳がんの卒業式も一緒に迎えたいと思っている。また、これから、がん患者が安心して暮らせる環境づくりにがんばっていきたいと思っている。
翌日、親戚の勧めもあり、セカンドオピニオンを受けに、別の病院へ行った。そのときの医師の対応がやさしく、説明が丁寧で納得できるものだったので、セカンドオピニオンを受けた病院で治療を受けることにして、10日後には入院。右乳房切除術とリンパ節郭清、エキスパンダー挿入による同時再建術を受けた。術後、エキスパンダーのアレルギー反応があって、バックを取り出さなければならなかったが、その後も再建はせず、パットで補整している。
術後の病理検査の結果では、悪性度が高く、若年性で授乳期のがんであり、ホルモン療法もハーセプチンも効かないタイプだと説明された。補助療法は化学療法しかないと言われ、CEFとタキソールによる化学療法を受けることになった。治療中は、子どもと自分は九州の実家、夫は仕事のある島で別々に暮らしており、抗がん剤の副作用で体がつらいことに加え、子どもの世話もできず、将来を悲観して、精神的にもつらい時期を過ごした。治療後は、夫と話し合いの結果、夫が転職して、九州に住まいを移して、新しい生活を始めることにした。
治療が一段落して、病院の患者会に顔を出すようになったことが転機となって、気持ちが徐々に前向きとなり、先輩患者として、他の患者の相談に乗ったり、下着の試着を手伝うなど病院でスタッフとして働くようになった。その後、乳がんの啓発活動を経て、現在は、乳がんに限らない、すべてのがんの患者会を立ち上げ、運営にあたっている。将来の夢は、子どもの成人式とともに、発病20年となる乳がんの卒業式も一緒に迎えたいと思っている。また、これから、がん患者が安心して暮らせる環境づくりにがんばっていきたいと思っている。
インタビュー42
- 夫が右胸のピンポン玉のようなしこりに気づいたが、まさか20代で乳がんになるとは思わなかった
- 医師が母親の方を見て告知したので、誰のことかと聞いてしまった。自分はびっくりしすぎてすぐには涙が出ず、母が先に泣いたので慰める方が先になった
- 離島在住だったが、治療のため離島を離れて、実家で世話になった。最終的には夫と話し合い、引っ越すことにした
- セカンド・オピニオンを受けたところ、診断結果は同じだったが、医師の説明が納得できるものだったので、その病院で治療を受けることにした
- 疲れたり、手に怪我をしてばい菌が入ったりすると、腕に赤い斑点が出て熱が出てしまうので、乳腺の医師を受診して抗生剤を処方してもらっている
- 同時再建で生理食塩水の入ったパットを入れたが、術後3日後ぐらいにアレルギー反応が出て、取り出さざるを得なかった
- 頭がちくちく痛くなってきたら、髪の毛が抜けはじめた。抜けた髪の処理が嫌で夫に頼んでバリカンで剃ってもらったら、意外とすっきりした
- 補助療法は抗がん剤のみだったので、その後無治療になるのが怖くて、きのこ系の健康食品を飲んだり、浄水器を購入したりしたが、高いし、おいしくないのでやめてしまった
- 健康食品をやめたが、何もしないのは不安で、遠くまで免疫療法を受けに行った
- 単純に胸が二つあるというだけでうらやましかった。子供に授乳できないことが悲しく、夫婦生活でも夫に申し訳ない気持ちになった
- 退院後早い時期に勇気を出して、夫に傷を見てもらったところ、「よく頑張ったね」と受け入れてくれたことがありがたかった
- 夫は悩みを人に話すタイプでないので、つらかっただろうと思う
- 2,3歳のころは「ワニがお母さんのおっぱいを食べた」と言っていたが、7歳になった今は怖さまではわからないかもしれないが、「乳がん」という言葉は知っている
- たくさんの友達に連絡して情報を得られたのはよかったが、「がん=死」のイメージが強く、幽霊を見るように見られたり、話してない人に伝わっていて複雑な思いをした
- 自分が生きられないと思うと妊娠は考えられなかったが、元気になるともう一人ほしくなった。でも夫は体の心配をして、もう子どもはいいと言う