投稿者「hanaoka」のアーカイブ

認知症の語り

日本大震災の際に、母に「大丈夫と?」と電話をしたら、「かわいい人形を買ったけれど要る?」と返事をされて、「今、なぜその話?」と不思議に思った

一番最初におかしいなと思ったのが、えー、えー、2011年の、あの、3月の地震のときに、あの、「大丈夫?」っていう、あの、電話をしたんですね。で、ま、世界中、あ、日本中がものすごく大変なときに、その、うちの母の答えが、あの、「あなたにかわいいぬいぐるみを買ってきたんだけど、要る?」って言われたんですね。で、こんな大変なときにぬいぐるみの話なんかするの?ってちょっと思いました。

認知症の語り

母が毎日職場に来たり、1日に何回も電話してきたりで、親と縁を切る方法をネットで探した。あの時、逃げずにちゃんと向き合っていればよかった

うーん。…私一人っ子なんですけど、あのー、ほんとに、あの、母がもうずっと美容室経営してたので、あの、何て言うんだろう、変な意味ではなくて、あんまり構われてなかったんです。ま、あの、愛されて育っていますけど、そんなに、あの、普通の一人っ子さんとは違う。ま、要するに何でも一人でやりなさいっていう感じの母だったんですね。
なのに、30後半にもなって何で今さらこんなに構われるんだろうと思う。とにかくもう自分の、あの、職場に、…あの、時間、日にち構わず来て、来ては「ご飯一緒に食べよう」って言われると、「何なの?」って思う(笑)。うん。で、私も、あの、婚礼美容師をしていて、結婚式のお嫁さんをつくったりしてるんですけど、その、お嫁さんをつくる仕事、ま、ものすごく大変で忙しいんですけど、そこに、あの、「お母さんでーす」って、あの(笑)、で、私のことを呼び出すんですけど、その会場の人たちは、お母さんがわざわざ来るなんて何があったんだろうって大騒ぎをしてしまうわけです、みんな忙しいのに。で、「何?」って行くと、「ご飯食べよう」って。「何言ってるの?」って(笑)、「お母さんもう帰ってよ。お母さんだってお店あるでしょう」って言っても、「お母さん、今日暇だから」って言って、「もう私そういうことしてる場合じゃないの」っていうのをもう言って、無理やり帰すんですけど、それがほぼ毎日。

そのときは私ももう、どうしたらいいか分からなくて、毎日、その、自分と親の、その、縁を切るにはどうしたらいいかっていうのを検索していました、ずっと。
…で、ちょ うどそのとき仕事の関係で、例えば、あの、沖縄での仕事っていうのがあって、で、私はこのまま沖縄に行って仕事をすれば、母につきまとわれることはないと思って、で、沖縄に逃げようと思いました。…それもう、とにかく母に毎朝、え、毎朝、朝、昼、夜、電話が来てっていう状態から逃げたくって、で、ま、ほとんど母とは顔を合わせてない状態だったので、ま、その間にものすごく、ま、ひどくなったんだろうなと思ってるんですけど、うん。
…だから、私もちょっと母から逃げないで、うーん、ちゃんと向き合えば良かったんだなと思っています。…うん。

認知症の語り

温和で優しい母が祖母に手をあげたので、調べてみたら、人格がガラッと変わる、攻撃的になるということで、ピック病にいきあたった

あの、行動の範囲が広がるというか、行動的になるっていうこと、それからあと、あの、人格が変わるっていうふうには出ていて、あたしの母は、あの、とても温和な女性で、で、とても優しいんですけど、一緒に住んでいた祖母に何か手を上げたんですね。あの、あ、そんなことは絶対にない母なんですけど、何でそんなことになったかなと思って調べたら、その、人格ががらっと変わってしまう、攻撃的になるっていうのが書いてあったので、もしかしたらこれはピック病かもしれないと思いました。

認知症の語り

母はコンビニで120円のパンを万引きして現行犯として保護された。裁判所に、診断書を提出して診察を受けさせてほしいと願い出ても、門前払いされた

近くのコンビニエンスで、…あのー、以前からパンとか、その、お菓子とかを万引きをしていたと言われました。で、そのー、コンビニエンスの店員さんが「あ、あの人また来たよ」っていうことで、マークされていたようです。で、その日に120円のパンを取って、取ったところを現行犯で、あの、あの、店員の方に保護されて、そのまま警察を呼ばれたっていうことでした。うん。

母がおかしい、おかしくなってるということで、まあ、えー、ちょっと身内、身内に助けを求めていたところで、で、ちょうど、その、警察に捕まる前日に…親族と一緒に母を、ま、無理やり病院に連れていく計画をしたっていうのも説明したんですけど、あの、まるで聞き入れてもらえなくて、見た目が普通なので、あの、で、年齢も、あの、年齢ですし、「認知症かもしれないんです」って言っても、「そんなのは通用しないよ」っていうことを警察に言われました。

検事さんにも、あの、「お母さん、何も悪いことしてない」ってしか言わないみたいで、で、証拠の映像もあったので、その、取ったことは間違いないんですけど、あの、万引きをしようと思って取ったのではなくて、あの、病気でそういうことになったんですが、あ、検事さんからしてみたら、これだけ証拠が残っているのに罪を認めないのは、あー、許せないことだったのかもしれないですね。はい。

まず、精神科の病院に行って、で、ま、母はこういうことになっていて、ま、全部お話をして、説明をして、たら、やはり病院の先生が、あの、ピック病の疑いがあるので、あの、一日も早く診察をする必要があるという診断書というか、あの、一筆書いてくださったんですが、それを持って裁判所のほうに行ったんですけど、もうまるでやはり話を聞いていただけなくて、門前払いで、あの、自分の母親の罪を、あの、かばう娘にしか見えないって言われ、言われました。で、そのときは、あの、母のした罪を、あの、なかったことにしてくれっていうわけではなくって、いったん、その、病院に連れていくっていうことを許していただけませんかとお願いしたんですけど、やっぱり駄目でしたね。全然話が通じなかったです。

……で、あ、母はもうものすごく真面目なので、あのー、悪いことは一切しませんし、うーん…、うん、うーん、ほんとに、あの、仕事しかしない、してなか、してこなかった母親なんで、あの、旅行に行ったことも、え、聞いたことないし、…遊びに行ってる、行った姿も私には記憶にないので、うん、何でこんな真面目にしてきた母がこんなことになるのかなって、ちょっと(笑)思いました。

認知症の語り

夫は、毎朝、卵焼きとウインナーを食べて、9時45分に家を出てパチンコに出かけ、昼の食材を買って12時15分に帰宅する生活を繰り返した

主人もこう、決まった時間に家を出るようになって。それで決まった時間に、9時45分になると家を出ていって、12時15分になると帰ってくるっていう生活が毎日続いて。それでもう、あのー、お互い自由に生きていった時点で、えーと、夕食は私が作るけれども、もう朝とお昼は自由に好きな時間に自分たちで食べましょうということで、ま、私も夕飯以外、作らなかったんですね。それで、そのときに主人がそれでいいってやっぱり言ったものですから、もう、でも何を作るかなと思って見てたら、毎日、卵焼きとウインナーを焼くんですよ。それで、そのとき、ウインナーも決まった銘柄のウインナーじゃないと怒るんですね。
それで卵焼きを焼いて、ウインナーを焼いて、毎日それを食べて。それで、「お父さん、冷蔵庫に他の食材もあるのに毎日同じなの?」って聞いたら、「そんなの俺が食べるのに、おまえに言われることはない」と、「俺が好きで食べてるんだから、いいだろ」っていうことで言ったんですね。それで、それを思ったときに、まだ現職で仕事をしてる頃に3カ月間、冷やし中華を食べ続けたことがあるんですね、夏に。それで、あの、ご近所のお友達が「いいわね、いっつも冷やし中華で。夕飯決まってるからメニュー、簡単でいいじゃない」って言って笑われたことあるんですけれども、今思うと、それがやっぱり病気の一歩だったんですけれどね。

それで帰ってくるときに自分のお昼を食べる食材を買って、それで12時15分ぴったりに帰ってくるんですよ。それでパチンコに行って、えー、そんなもうかってるときに、ぴったりぴったり帰ってくるのがおかしいなって思ったんですよ。それでいっつも、あのー、それを普通だったらば、お金に換えてまた次に使うとか、そういうのが多分あったんでしょうけれども、それもやっぱり主人の多分その病気のこだわりだったらしく、まあ、お砂糖を持ってきたり、おしょうゆを持ってきたり、もうそういうものを持ってくるんですね。
だから主人的には後ろめたい気持ちがあって、私のためにと思って持ってきてるのかなって思ったりもしたんですが、それがやっぱり異常だったんですよ。お砂糖となったらもう、「要らない」って言っても持ってくるんですね。それでもうご近所に配ってあげるほど、お砂糖、おしょうゆ、油、そういうのがもう決まってて。それである程度私が言っても、あのー、「そんな、人がせっかく持ってきて文句を言うのか」みたいに怒るんで。もう、うーん、主人がなすがままに放っておいたんですね。

認知症の語り

夫は54歳で息子が大学在籍中に会社を勝手に辞めてしまった。話し合いにも応じずに、以来互いに干渉しない生活が始まった

それで、あのー、その頃ちょうどお仕事をして、うーん、「30年仕事したので、そろそろ辞めたい」ということをちょっと言ったことがありまして。で、そのとき息子がまだ大学生だったので。娘はもう社会人でしたが、あのー、息子が大学生でちょっと大阪のほうに行ってましたので、あのー、息子が、じゃあ、卒業するまで頑張って働いて。そしたら、まあ、お父さん、自由にしてくれてもいいわよっていう話をしてたんですね。
ところが、そういうお話をしてる矢先に、あのー、仕事の配置転換がございまして。多分、今思うと、そこで新しい仕事が多分、覚えられなかったらしいんですね。で、私にはその話はしなかったんですが、あのー、それでまたちょっと辞めたいっていうような状況になりまして。そうこうしてるうちに今度、実の母親が、主人の母が亡くなりまして。忌引で2週間、1週間か。1週間ほどちょっとお休みを頂いてる間に、あのー、行かなくなってしまったんですね。
それで、あのー、行かなくなって、私はそのときにちょうど私の実の両親が、77のお祝いで旅行を予約してたので。あのー、主人の母の葬儀の後に、すぐ旅行に出たんですね。そのときには「あしたから、じゃあ、お仕事だから、これを着て行ってね」っていうように言って、お洋服も全て用意してあって。帰ってきたら行った気配がないので、「あら、お仕事どうしたの」って言ったら、「僕はもう辞めたから行かない」って突然言われまして。で、「えー、何それ」って、「家族に相談もしないで勝手に辞めるわけ」って私が話したら、「おまえにね、何で相談する必要があるんだ」と、「働いてるのは俺で、俺が決めることだ」ってこう、言ったわけですね。
「だったら、お父さんは家族を家族と思ってないのかしら」って言ったら、「そんなことはない。しかし、あのー、仕事を辞める辞めないは俺の問題だから、おまえに相談する必要はない」。それでちょっと、あら、この人どうしちゃったのかしらっていうのは思ったんですが、その後もいろいろ話し合いをしても、もう一切話し合いに応じないんですね。「もう僕は辞めたから行かない」と。それで、あのー、「困ったらおまえが働けばいい」みたいなぐらいのことを言いましてね。それでお互いにもう話が平行線になったので。
まあ、どこでもそうかと思うんですけど、突然そう言われて、私ももうこれ以上話し合いをしても、もう話にならないなっていう方向だったので、私ももうきっぱり諦めまして。まあ、しょうがない。家に2人主婦がいてもしょうがないから、まだ、あの、私も、ねえ、40代だったので、「じゃあ、いいわ。お互いにね、自由に生きましょう」っていうことで私が提案して。それこそもう、あの、お互いを干渉しないで、「じゃあ、これから先は、お父さんも勝手にもう辞めて自由な生活をするのであれば、私ももう自由な生活をさせていただくので、それでいいかしら」って言ったら、「それでいいよ」という返事だったんですね。

認知症の語り

夫は自分の失態を指摘されたときなど、部屋にこもって同じ言葉を何度も繰り返し連呼している。忘れちゃいけないことを繰り返しているのだろうか(テキストのみ)

お風呂も汚くして出るもので、「これは何? これ浮いてるのは何なの」って言ったら、「風呂のあかだろう(実は便)」って(笑)。言うことがいいので。ほんとにねー、「何よ」ってひっぱたいてあげたくなるような感じだったですけど。そういうようなことで。必ずそれで、何か、そういう時にまあ、自分の部屋にこう、戻って扉を閉めて、何だかんだ部屋で言ってるんですよね。自分の名前を呼んだり。誰かのえー、連呼するんですよね。O君、O君とか、9階、9階とか。何だかんだつって、自分でその何だろう、忘れちゃいけないような何か、おかしいっていうことも分かっているんでしょうね。頭にしょっちゅう手がいくし。どういうふうにおかしいんだっていうことが説明できない。

それで、「T.M.、T.M.」(自分の名前)とかって。その頃からかな、私の名前がその連呼の中に入るようになったんですよね。「Y.M.、Y.M.」。私の名前が入ったって(笑)。何かね、多少何かがあったんでしょうね、やっぱりね。私しかいないから、日曜日とかそういうような時は、デイサービスがまだない時には、私が立って歩くと、何だかんだって私の後ろをくっついて歩いたりね。

認知症の語り

夫は新聞を取りに行くのは自分の仕事と思って、マンション1階の新聞受けを何度も見に行く。汚れた衣服やステテコ姿のままで、目が離せなかった(テキストのみ)

うちは9階にいたんですが、新聞は、1階の新聞受けに入るんです。で、その新聞は取ってくる。ずーっと取ってきてたんで。自分はその、取ってくるんだっていうことが仕事だと思って、エレベーターに乗って取りに行くんですよね。何もない時はそれでいいんですけど、汚れたまんま、朝きれいにしてっていう後ならいいんですが。夜、夕方に夕刊も取ってきて、汚くなった、洋服のまんま行ったり。パンツを脱いでステテコで行ったり。何か着てればまだいいっていうような感じで。もう扉の外は公道ですから。目が離せないっていうか、まあそんなことがあって。

徘徊(はいかい)とかっていうまではないんですけども。とにかくそのー、自分の仕事、新聞を取りに行くってせいぜいね、そういうことなんですけど。それをもう夜の夜中に、1時や2時、3時ごろに出掛けるんですよね。何度でも行くんですよね。それでも、まだ、「新聞屋さん働いてない時間でしょう」って言ったら、言うことがいい。「ちょっと見てくるだけ」って。何かその体裁を整えるのがやっぱり、どう悪くなっても最後までありましたね、そういうことがね。

認知症の語り

夫は、食べたことも忘れてしまい、色々と食料をあさるようになった。冷蔵庫の生肉や、柔軟剤やタワシも口にしてたようだった(テキストのみ)

食事はまあ、やっぱり食べてももうすぐ忘れてしまって、すぐおなかすいたって。そういうことがあったんで。寝てからも、冷蔵庫の中をあさるんですよね。それで、夜中にあさった跡がまたあって。生の肉のトレーを置いといたら、トレーしかなかった。そんな感じとか。あと、その冷蔵庫の中にあるもの、タッパーの中にあるもの、野菜室。冷凍室のものはそれぞれまあ、袋に入ってるからなかなか、(手を出すことは)なかったんです。あとは、キムチだとか、辛いものはゆずこしょうだとか(そのまま口にして)。紙パックなんかはね、その焼酎が紙パックで売ってますよね。で、それで、買って飲んでた。ビールと合わせて飲んでたんですよね。そういうもので、離せなかったらしい、酒がね。そういうことをしてて、焼酎も少し水で薄めながら飲んでたんです。それもやっぱりだめで(そのまま飲むようになって)。
で、面白いのは、たわしとか、柔軟剤。柔軟剤も口にしていたことあったんですよね。たわしがあったのはびっくりしましたけども。うろうろして、そいで、音がするんで何かと思ったら、トイレで水を飲んだり、もうめちゃくちゃですね。

認知症の語り

朝の洗面で手出しをすると、「うるさい」という感じで、夫の手が至近距離から飛んでくる。本人が無意識だとわかると、相手にできないなと感じた(テキストのみ)

その、前頭側頭型っていうといろんな個人差があって。で、ある人はおしゃべりばっかり。ある人は、鬱で。うちのほうは欝のほうだったんですけどね。で、そうこうしているうちに自分で思うことが口に出せない、行動に出せないってことで手が出たり、大きい声を出したり、そういうことが始まってたんですね。

洗面所でね、まだ(ヘルパーさんを)頼んでない時に洗おうかって、顔も洗わなきゃなんないでって。洗面所に連れて行って一緒に洗おうって言ったら、向こうは洗う気がないのに、私が一生懸命になって洗おうかなんてやってたもんだから、それが気に入らなくて蹴飛ばしたり、その汚い手で私をなぐったり、げんこつが飛んできたり、ほんとにね。近場でしょ、洗面所は。だから私も思い切ってお返ししたりしてね(笑)。そうすると、きょとんとしてるのよね。さっき話ししたことを忘れたっていうことと同じように、体の動きがそういうことも忘れる。忘れるっていうか、意識してないんでしょうね。もう反射的に返してるんですね。

きょとんとして。私がやった時には「痛いな」とか何とか、きょとんとして、「何でこんなことをすんだ」っていうような顔をしてたんですよね。それに対して返しはなかったですね。やっぱりそれで、それきり1回で、私も1回ではちょっと、慣れきれなかったかもしれない。何回かやったんだろうと思うけど(笑)。あ、やっぱり駄目なんだと。やっぱり、記憶とかそういうところには残ってないんだとかっていう感じはね。

そういうことがあるんで。これはちょっと相手にはできないなっていう感じで。そういうことなのかなっていうことで、一つ一つ何か、勉強していくみたいな。私のほうもね。そんな感じで、やってました。