で、まあ1月ぐらいから、まあいろいろと前のT病院から、いろいろかかってやっていたんですけども、去年。去年は、絵の展覧会をですね、私が世話役で、私が元おった会社のOB、これはまあWでもいいしょうね、W社の大体8名ぐらいでスタートしたんですが、そのOB絵画展の世話役をやっているんですね。絵の展覧会を京橋で。そのそれでそれを終えないと、前立腺がんの治療に入るわけにはいかない。
それから、まあPSAが、10も超してないし、まあ大したことないなあと。で、私の知っているところでいくと、前立腺がんの、がんの仲間でも前立腺がんで死ぬんじゃなくて、大体が肺炎で死ぬ人が多いんですね。そんで、まあ寿命で死ぬんじゃないかなということで。そんなに慌てることないなあと。うん、ラテントとかいう、その早期のがん、発見しなくてもいいようながんじゃないことは分かったけれども。だけども、そう慌てることないなあということで、まだ絵を、自分の絵が出来上がってないんで、それは大変だということで、まず自分の絵を描き上げて、絵の展覧会を5月の13日から19日、それ終わってからでないと入院できない。
前立腺がんというのはですね。1期というか、A期の場合は発見しなくてもいいがんというのがあるんですね。それはA期。で、それからあと、進行が非常に遅い。で、がん仲間で前立腺がんをやった人がおるんだけども、前立腺がんで死ぬよりも肺炎で死ぬ人もおったし、なかなか前立腺がんで死んだっていうのは、私の親せきが一人おるぐらいで、それも、もうD期とか、もう末期だったんですけどね。うん。それで、まあそんなに慌てることはないなというのが、私の考え。
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正直言いまして、数値がですね、もう一気に高なりましたから、直接先生に言ったわけですよ。「わたしは、前立腺がんです」と(笑)。だから、がんと言われても、やはりまあ…日本の人口で言いますと3分2ががん関係の病気とあるように、今後なると思うんですよ。ですからやはり、そのがんと言われたときは、じゃ、早く治そうと。そういうことを、まあ頭ん中にね描いていたわけなんです。はい。
それで先生はですね、やっぱり「そんなことまず言わないで、ステップを踏んで検査しましょう」ということだったんですね。そしたらたまたま、そういうがんだったんですよ。だからビクとも、わたしは、検査というかね、PSAの数値を見て、そういうことを思っていましたんで、やっぱりわたしは、決してそういう恐怖感はありませんでしたね。ただ一点だけね、がんになった以上は、まあ初期ですから、もうね1日も早く手術して治りたいということを、願っていましたね。
あんまり格別の感慨はなかったですね、うん。まあ、どういうわけだか、性格的なものがあるんでしょうが、そういうのもあるし。それから昔、軍隊にもね、いたことがあるんで。1年間でしたけどね、行って来て。初年兵で…一番苦労の濃いところを体験してきたので。まあ自分の人生で84年生きてきて、あの軍隊の1年より辛い思いをしたことはないですね。随分終戦前後もひどかったけど。だからそういうのもなんかね、尺度になっていて、あまりがんになったからってね、驚きもしなかった。そんでね、症候的にも前立腺がんっていうのはあまり驚かなくてもいい。だいたい老人が(なる)、病気も緩慢に進むような、というようなね、一般的なあれがありますよね。だもんだから、そういう知識もあって、あまり驚かなかったです。まあ「いい友だちが来たんだから、適当に付き合っていこうや」っていうような気持ちで。
まあ年齢的にもね、将来に対するうんぬんという…。将来の中にもちろん命も入ると思うんでしょうけど、寿命の。ですから、私なんかの年齢でそうなったとき、私の場合はそういう意味での将来っていうのは、あと命がね…何年。それ以外に将来っていうのは考えられなかったですよね。それは子どものあれとか孫の将来とか、これは別ですけどね。私自身の病気を宣告されて、将来はって言ったらば、私の将来ってのは、私があと何年これで手術できなくて何年生きられるのか。その残された何年かを私はいかにね、弱りきった病人じゃなくていかに過ごせるか。これが私にとって一番大きなテーマっていうか課題でしたね。それの選択肢が何度も言いましたけど、病人にならないで、手術できないで、こうなるんなら、あれもやるこれもやるんじゃなくてね、自分が納得して自分が後悔もしないで、主治医にも感謝しながらね、治療して生活、あと残りのあれをいくって、これはもうホルモン療法だけで。ここで今放射線かけちゃったら、もしかしたらね、排尿困難かなんかも併発して。そして、そういうことと闘いながら生きるのも生き方かもしれないけど。私は、全く健康じゃないけどね、まあとにかく、なんていうのかな、自分の尊厳をね、尊厳を保って生きていくには私はもう、これっきりないだろうと、そういうつもりでしたね。だから命そのものは諦めたんです、手術できないと言われたときにね。あとは残りの1年のうち、何日健康で過ごせたか、過ごせるか。そのうちの大半を病人で過ごすんだったら私はもう、そうなっちゃった自分の存在、尊厳さ、それは考えたくない、認めたくない。命を、放射線かけないでやったら、私は寿命を縮めるかもしれないけど、その寿命の中でね、私がいかに私らしく生きられるかっていうことを私流に考えた選択が「放射線は勘弁してください」っていう。
それこそ、実はその心理学の勉強で一般の方たちをサポートするようなワークショップ、まあこれは実はその企業の中ではね、研修担当ということで組織の活性化とか、いかに個人が前向きになれるかという研修なんかをやっていたので、そういう中ではですね、前向きになるための、ワークみたいなものがあるわけですね。その資料を使って、前向きな気持ちにするための、誘導的に持っていくための、ワークシートみたいなのがあって。で、そんなのが例えばね、もし…人生にとって大切なものは何かみたいなことも。あともし1年。1年しか命がなかったら、あなたは何をしますか、とかね。それが半年だったら、半年しかないとしたら、あなたは何をしますか。それからもし、さらに1カ月だったら、その中でも何をしますか。1週間だったら、何をしてお別れをしたいですか。1日だったら、1日しかなかったらどうします? っていうワークをやるんですね。シミュレーション。シミュレーションは散々してたんです、幸か不幸か。なので、告知を受けたときに何が大切かっていうことは、自分はもう解決済みっていうか、答えは出ていたのでね、あきらめてしまっているわけではありません、今でもね。あきらめてしまっているわけではないけども、何が大切かっていうことも分かっていましたし、気持ちをどう切り替えたらいいのかっていうことは分かって、今います。どんな悪いときでも、悪いことでもね、その裏にいいことが必ずあります。
いよいよ結果が分かるっていうときにね、「告知をしてもよい。告知しない…悪い」っていうところにこう丸を付けることになってるんです。私はちょっと迷ったのでね、がんを告知されてはちょっとあれかな。告知しないほうがいいかなとこう迷ってたので、丸を付けませんでした。そしたら、先生が「ここが書いてないんで、言いづらいんですよね」って言うんですよ。「ここが丸付いてないんで、言いづらいんですよ」って、元気だったら何でも言えるわけなのに、「言いづらいんですよ」ってのは、「あ、これは悪いんだな」と思ったんでね、「どうぞ、何でも言ってください」って言ったら、前立腺がん。うーん、全身に転移をしているので、進行性末期がん。で、手術もできないと。放射線も駄目。抗がん剤も駄目。「もう好きなもの食べて、好きなことやってください」って。「余命半年」って言われたんですね。
で、余命半年っていうことなので、この半年をどういうふうに過ごすかなと思ったんですよ。で、私は、余命半年っていうときに、もう「お棺の中に、半年経ったら、あの狭いお棺の中に入れられるんだな」っていうのがはっきりしたわけなのでね、死んだときにこう、家族で体をこう拭いたりするのに、あまり汚くては…。当時、私の足がね、水虫みたいなのがこうあったんでね。この水虫、医者行かなくちゃなと思っていたのが余命半年って言われたので、「あ、これはまず水虫を治さなくちゃいけないな(笑)。お棺に入るときに、足が汚くちゃ嫌だな」と思ったので、早速、家内の車で皮膚科へ行って、水虫を治しました。
「ああ、がんか。がんならイコール死ぬことや」って。「ああ、死にたくないや。なら…死ぬまでに何か片付けとかないかん。身辺整理、あれせにゃいかん、これせにゃいかん」。そっちのほうばっかりですね。要するにパニックですね。
朝、宿舎から出ていく前に顔洗って、歯磨いてやっとくと、すぐ近くに電車が、通勤電車が通っとるんですけども、あっこは丘陵地帯なんで、トンネル多いんですね。で、トンネルに、電車が行き交うのにゴーってな音があって。もうその音聞いただけで、こっちでいう、おぞけづいて。「もう、もう、もう駄目や」と。もう、もう地獄のほうに引きずり込まれるんじゃなかろうかっちゅう、そんな感じで。大体、元気印で行け行けどんどんで今までやってきたんですけどもね、職場で。大学出て約40年…38年ですか…で、やってきたんですが。「あー、こんなにおれは弱い人間やったんかな」というふうなことと、もう一つのこっちのほうの自分で「頑張れ、頑張れ」っちゅうような。それの繰り返し。「あー、何とかやらないかん。でも駄目や」っちゅうような。まあ早い話が現実逃避というか、尻に帆かけて逃げたかったということですね。で、逃げても、がん=(イコール)死というのが、もう今も頭の片隅にはありますけども、どうしても先ほどの、周りで見たおやじ(父親)のこととか、職場の上司のことと、だぶってきますので「もうおれは死ぬんや」と。…でも、死にたくない。人間はもう必ず100%、間違いなく死ぬというのは、それはもう当たり前のことですし、頭のどっかじゃあ分かっとるんですが、それが現実、目の前に、「もうあんた、確実に死にまっせ」というふうに突きつけられた。でも、死にたくない。何とか助かりたいという。まあ、その繰り返しでしたね。
主治医の先生から「病状をはっきり知りたいですか」って聞かれましたんで。わたしは、そんなこと思っていませんでしたから「はい、知りたいです」って言ったんですよ。はい。そうしたらですね、「もう数ヶ月の命です」って言われたんですよ。「え、何ですか」って言ったら「もう、前立腺がんのがん細胞が、全身に転移していますんで」っていう理由で言われましたけども。そのときはね、とにかく、えー? と思いましたね。ショックが大きかったですね。本当に、ええ。でも一番、そのときに思ったのは、まず、家族の生活が心配だなということは思いましたけど。自分自身はまだ、現実を受けとめるだけの余裕はありませんでしたねえ、はい。あ、そうですかっていうような感じで。日に日に、やはり、いや、その重圧っていうんですか、がんに対する。
実際、私、酒も飲まないし、たばこも吸いませんけど、もうあと数ヶ月だと言われたときに、ばかな人生送ってきたなって思ったですよ。酒もたばこも飲まずに、アホみたいな人生やったな。真面目に人生過ごしてきてって思ったけど。だから、そのおかけで薬がね、効いたかも分からないですよ。元気になったらね、そしたらまた逆の考えで、これはもう真面目に生活してきたから、薬が効いて長生きさせてくれたなと。また勝手な考え方で(笑)。そうですよ、ほんとにね、人間って勝手な、いいもんで。うん、自分の都合のいいふうに考えますんで、ええ。まあ今は幸せですねえ。はい。
よくね、がんと言われたときに、どんなに思った?って言われます。まあ、よく頭が真っ白になったって、こう言いますけどね、私はね、まず一番にきたのは「なんで自分が、なんでおれががんか?」と。それがもう一番でしたね。そんなに他の人はないのにおれがどうして? というのが一番と、ものすごく気分が悪かった。なんか気分が悪いという思いがもうありましたね。もう頭真っ白じゃないです、気分が悪いのと、なんでおれがっていうふうな思いがずっと続いて。そして一番辛かったのは、あれですね。帰って、実は家内に話しました。その結果を聞きに行くときは、家内は一緒じゃなくてもいいよと、私だけで聞いてたんですけど。まあ先生が私が約束した通りにきちんと告知もしてくれて、あれ(説明)もしてくれましたから、誰か悪ければ奥さんだけ呼んでコソッと言うとか、そういうことがね、自分では嫌だったから。それで家内に話しまして。そのときは家内も冷静に聞いておりましたけど、夜寝てから家内が布団の中で、やっぱりしくしく泣いているんですね。これはもう堪(こた)えました。うん。苦労させるなあというふうな思いがあって、もうその夜は、今度はちょっと落ち込みましたですね。自分もまあ、高分化型*と言うんだからと先生が言ってくれている一縷(いちる)の望みもありましたけれど、まあまあ、そういう気持ちがあっても落ち込んでいきました。
*「診断のための検査」の「グリーソンスコアによるがんの悪性度の分類」を参照
告知されましたときは、もう本当に慌てましたけども、まあ、ここで慌てたら男じゃないというようなことで、まあ、年相応の対応は表面上できたと思うんですけれども、頭ん中は真っ白でした。あの、お医者さんの話も、恐らく半分程度しか理解できなかったと思います。まあ「初期的ながんだと思うんで、完治は可能ですよ」というお医者さんの声を背中にして、すごすごと部屋を出たというようなことでございますが、まあ、そのとき考えたのは「しっかりして、あと残り少ない役人生活を、何とか完全にやり遂げなければな」と思って、そんな考え方をしておりました。そういうときには何か、自分を奮い立たせるものが必要だという本能的なものがあるんでしょうけども。後で考えると、「何とこの、そういうときに仕事のことしか頭に浮かばないっていうのは、退屈なつまらないやつだな」と自分で思うようになりまして(笑)、じっくりその後の人生、治療も含めて考えたとき「やはりこれからは、残り少ない人生自分らしく、やりたいように生きてみたいな」というように、まあ(そんな)感じにだんだん自分の気持ちも変わってまいりました。