投稿者「dipex-j」のアーカイブ

前立腺がんの語り

がんになる前は何も将来について考えなかった。末期がんと言われて、自分の人生を振り返り、この世にいた証明を残したいと絵を描き始めた

―― 人生計画というか、あの、今、そのときに思い描いていた、その将来図と今の将来図と結構変わったなっていう感じってありますか、変化はやっぱりありましたか。

そうですね、まず、なる前はね、正直言うと何も考えられなかったですね。あほみたいに、毎日の生活の繰り返しで。仕事をして、元気にその日1日終わって、またあくる日も仕事して、ときどき、遊びに行くとか、楽しみを、そのゴルフだとかいろんなので楽しんでくる。そのときは、全く、その将来のことなんて、全く考えなかったですね。うん、まあ、だけど、前立腺がんになってみて、あの、自分の人生振り返ってみると、何をしてきたかなと。自分が、その生きてきて、その過去に、自分の存在感そのものが、全くなくなったときに、あ、いたかなというぐらいの感覚しかないのに、これは自分がこの世にいたことの証明というのかね、そういうのが、何か残したいなあと、うんあの、子どもたちにも、まあもちろん家内にも、そういうことを思って、それではと思って始めたのが、まあ、絵を描くことだったんですけど。へたな絵にしても何にしても、まあ、そのものが残れば、あ、そういえば、こういう人がいたなとか、おじいさんがいたなとかっていうことが残るでしょう。だから、そのことが、ああー自分の人生に、その価値観というのか、を、その見つける一つの何かを残したいというのが一つ頭にあって、それが、大きく変わりましたね。

―― その、お気持ちの変化ですね。というものは、ご自身にとっては、どうなんでしよう。前向きな変化なのか。そういうふうにとらえてよろしいのかどうか。

そうですね。前向きでしょうね。ええ。あの…人間ね、わたしがずうっと考えて、えーと、病院でも、その、もう数ヶ月ですよって言われてから、死っていうことに対して、死は何だろうということを考えながら、いろいろ、本も読んだりしましたけど。結局、結論はでませんので、まあ、自分がこの世に存在した、証を一つ残せればいいなと思う意味で、私の友人で絵を描く方がありましてね。その方が、作品展やられたり、いろんなところで活躍してみえますんで、ああ、あの人はいいなあ、ああいう作品が残るからと思ってうらやましく思った時期もありましたけど、自分がそういう状況になるとは、全く考えてなかったんで、ああ、じゃ、わたしも描いてみようかというのが、一つあったし。

前立腺がんの語り

リビングウィルについて話し合うようにいわれた。家族が悩まぬようにしたいとは思うが、家族と自分の意思をまとめるのは非常に難しいと思った

リビングウィルの終末期治療に関して、例えば、あの、人工心臓はつけないとか、心肺蘇生はしないとかいろいろありますけど、しないしないしないしないと全部うてば、お医者さんは楽かもしれませんけど、そのときの状況において、「これはして欲しい」と思うこともあるかも分からないということを子どもが言うんですよね、はい。だから、そんなことは、そのときに なってわたしたちが判断しますから。あの…って言うけど、わたしは、できるだけ、もう、楽に楽というかそう短い時間の間に人生を終わっても、それは後悔しないんですよもう、うん。だから、いたずらに延命治療でもう流動物で生きながらえたりそんなことをするよりも、もう、最終的に、もう、これは助からないというふうに、お医者さんの判断があれば、ま、そこで、治療を一通りやめてほしいなとは自分自身は思いますね。で、そこで、その、あの項目にチェックをいれておけば、わたしはいいけども、家族はまた違う考え方があるんですよ、ええ。だから、その肉親の情からいくと、そう簡単に「これはやめてください」というわけにはいかないから、全部希望しますっていって書いてしまえば、全部お医者さんのほうはや、やらざるを得ないでしょう。だから、そんなら意味ないじゃないかと。そのリビングウィルのね、うん。だから、その辺が非常に難しいなと思いながら、これから家族会議でいろいろディスカッションしながら、決めたいなと思っていますけどね、はい。
まあ、わたしはね、正直言うと、もう、すでに普通でしたら、もう、生存していない、うん、状況に一度なりましたんで、それから考えると、今まで元気に、えー、まあ、一応、治療は続けながらですけど、あの、元気で家族とも、ん、あの、いろいろ談合できるし、いろいろ、話もしたり旅行にも行ったりできましたんで。もう、あとは、一番考えるのは、もう、いたずらに、その介護されて長生き年齢的に長生きするということよりも、どっかですぱっとこう自分の人生がそんなに長い治療期間を経ないで終わるというのが理想だなとは思っていますけど。これは、あくまでも結果論で、また、じわじわじわじわと長生きするかも分かりませんし(笑)、子どもたちに面倒かけるかも分かりませんけど。それは、そのときの状況で、まあ、しょうがないかなと、まあ、甘えられるところは甘えるようにしたい、するよりかしょうからないかなあと思いながら、ただ、私は、自分自身で、元気でできるだけ元気でいられて、少しの入院で人生が終わるというのが理想なんですけどねえ。うーん、ただ、先生は、「必ず再発はしますよ」って言われるんですよ、うん。だから、そのときに、今のリビングウィルじゃないけど、また、子どもたちが、悩むかなあと。わたしが意識があれば、大丈夫だけどね、はい。なくな、亡くなったときにまた子どもが悩むといかんから、そう悩まないようにきちっと回答しておくといいかなと思って、うん、それは考えていますけど。まあ、あとは、わたしの人生、今、非常に終わりに近づいているにしては、非常に楽しい、いい人生なんで、最後が楽しい人生だといいなと思っていますけど、ええ。

前立腺がんの語り

子どもには財産は残せないが、今、自分が幸せだということを伝えたい。恰好よくはないが、悩みながらも明るく生きる自分の姿が、唯一残せるものだと思う

あの、子どもの成長を最後まで見てあげられない。人生、山あり、谷ありで、すごく心配ですね。まあ、今どきの、今、こんな変化が激しい世の中で、どんなことがあるかなって、彼らのね、将来。何かあるときに相談に乗ってあげたいけども、乗ってあげられないなという思いはあるわけですけども。今の今、父親がいろんなことがあったりして、悩んでいる中でね。一緒にその悩みとか、父親がどう過ごしているかということを見てもらうことで、まあ自分に残せるものは、実はその何ももう今、えーと、実は散々苦労したという中で、財産、自分はその、失うようなことがあったのでね。まあ、あの、人の世話ばっかりしたものですから、連帯保証債務とかってなって大変な思いをしました。財産を失ったことも実は、恥ずかしながらあるんですけど。何も財産を残せないんですけども、自分が、あの、残せるようなものはね。
だけど、だから、今、何ができるか。だからね。あのー、どんなときでも、今、幸せだって申し上げましたが、そのことをじゃあ、子どもに伝えようと思ったわけですね。子どもの人生もこれから山あり、谷ありだと思います。人生でね。思いも、がんになることなんて、思いもよらないことでしたけども、まあ子どもにそんなことがあってほしくはないですけども、あります人生では。あのー、思いもよらないことが起きてきますね。予想通りいかない。でも、どんなときでも人間って成長できるし、まあその苦しんでいるときが一番実は成長しているときなのでね、そういうことも説明しています、今。父親はこうやって、自分はこうなんだけど、今、自分は、えっと勉強して、心理学の勉強をしていて、患者のことが今、自分は心理がやっと分かるようになったよって。ええ。おれ、成長しているだろう?っていうことだとか。
まあ気持ちを切り替えてできることは何か。今できることは何かって、こう生きていますから。そういうふうにして生きていくっていうことを、えっと、それもかっこよくは生きてない。ね、決してかっこよく、あの、生きているわけじゃないですよ。だけど、そういうふうにして悩みながら、いろんな、えと、治療法も悩みながら、こう、えっと、どうしようか、どうしようかってやっている姿も含めて、とにかく気持ちを切り替えて、切り替え、切り替えってやっている。そこを見てくれたら、それが唯一、自分が残せることかなっていうようにも思うわけですよね。

前立腺がんの語り

自分の病気が子どもたちに、親にも寿命があることを認識させ、精神的な自立を促すきっかけになったと思う

―― ご家族の反応としては、どんな反応でしたか。

そうですね、はっきり覚えてませんけども、まあ、ある意味よかったんじゃないかなと思うのはね、親ってほら、子どもから見るといつまでたっても、親はいるもんだと思いがちじゃないですか。だけど、やっぱり寿命っていうもんがあるんだと。それは当たり前のことですけども。ある程度自分の身になってね、あ、うちの親父もそういう年なんだってことをね、認識するっていうのは悪くないと思ったんですね。だからこれからは自分自身の力で生きていかなきゃならないってことをね、悟らせる意味でも、親が病気になるってことは、そりゃあ、不幸ではあるけれども、子どもたちのためにとっては、精神的に自立させるためには、よかったんじゃないかと思ってます。

前立腺がんの語り

5年生存率を考えたとき、今小学生の子どもが卒業する頃には、自分はもういないのかなと思うと、ものすごく悲しい思いを持った(音声のみ)

で、一番つらかったときっていうのは、例えば子供が、小学生ですけど、卒業するときにはいないかなとか思うと、ものすごくやっぱり悲しい思いをしたし。例えば、あのー、地上デジタル放送が2011年に始まると。ああ、そのころにはもういないんだろうなとか。えー、2年前に思ってました。5年は厳しいんだろうなとも思ってたところですね。まあ、今のところ、まあ、すぐに駄目にはならないんですけど、そう長いこともないんかなというか。

前立腺がんの語り

娘が知的障害を持っているので、親亡きあとの娘のことが一番気がかりだ。障害者が地域で自立していける基盤づくりの活動に力を注いでいる

―― あとは、その、将来に対して、これから先のことに関して、こうやっぱ今、心配に思われてることってどんなことがありますか。

うーんとね、あの、娘がね、あの、知的障害がある。で、まあ、軽度の知的障害がありましてね。で、この子のことがやっぱり一番気がかりですよね。で、まあ、入院したときもそうだったし。それから、まあ、もしね、自分が2年かそこらしか余命がないなんてことになったら、それはもう大変だなというふうにね、 こう思いましたですね。
今でもやっぱり一番気がかりなのは、やっぱり親亡き後の、それも現実の問題として、もう本当にどれぐらい後、余命があるのかなというふうにも思うんですけども。もうこれはPSAの数値いかんで(笑)考えなきゃいけないことなんですけれどもね。一番気がかりなのは、やっぱり何とか、あのー……。
昔、ひところ前は、法律が、障害者に対する法律が変わりましてね。で、「措置制度」っていう、国がそういった知的や身体的に障害があって、自力で生きていけない人間に対する、その、生活は措置によって維持していくっていう、まあ、そういう法律があったのが、あの、「支援費制度」っていう制度へ変わり、さらに現在の「自立支援法」っていうふうな法律にこう変わっていって、で、障害者は地域で自立をしていくという、そういった問題に、この、展望が非常にこう持ちにくくなってきたという状態が今あるもんですからね。だから、何とか、やっぱり自立していけるようなそういう基盤づくりを、自分の住んでる地域へね、何とか実現していかなきゃいけないっていう、まあ、そういう問題がありましてね。ですから、今、一番使命感を持ってやってる、取り組んでることはそのことなんですけどね。

前立腺がんの語り

自分の手術入院の直前、認知症の母が倒れて入院し、付き添い介護が必要となった。ストレスから発疹が出ても安静にしているわけにもいかず、大変だった

はい、はい。それで、そのね、あの、ちょうどそのもう手術をしなきゃならない、いうときに、実は母が、あの、介護で、そのデイサービスとか行っていますよね。そのときに、ちょっと血を吐いたりして、救急車で運ばれて行って、それで、救急車で病院に入って、病院の方で、「自分とこは」、あの僕もびっくりしたんですけども、あの、「介護できないから家族で、夜もずっとみとってくれ」という話だったんですよ。それで、わたしも救急車で一緒にいきまして、そのままそこで付いて寝ると。で、もう年寄りですからねえ。痴呆もちょっとはいっていますし。介護するなり、ま、わからんからもう、点滴のチューブ引っこ抜いたり目が離せないんですよ。それで、ウトウトっとしたときに、抜いてしまったりとかあってね、大変だったんですよ。それで、まあ、わたしも、あの、手術をせないけんという直前いいますかね、状況ですので、あの、ま、本人は、あまりその自覚はなかったんですが、ちょっと、発疹が出たんですよ、わたしに。そうして、皮膚科に行ったら、あの、これは、あの、カタカナでは何か、ひかえていますけどね、カタカナで何とかの、ようするに内出血をして、皮膚ももうこうおそらく体の中はみんなそういう状況だろうと。だから、安静にしとかんといかんと言われたんですよ。いや、安静にしとけ言われても、安静にしとられる状況じゃないと。今病院で、あの、ねえ、介護せないかんし、言って。それでね、あの、ちょうど、自己血を採るときにぶつかっていました、それが。そのことも、向こうで言いましたから。向こうの病院も調べてくれて、いやまあ、あの、採っても大丈夫だろうということで、対応していただいたんですがね。それでもう、ま、大事にならずに、まあ済んだんですが。ま、そういう状況でしたからね、まあ、本人はあんまり自覚はないけども、自分のこと、病人のことで、あれストレスがやっぱり、あったんでしょうね。そういうことがありました。

前立腺がんの語り

同居中の実の両親が、たまたま不在で一緒に医師の説明を聞けず、後から聞くことになり、「あの時は随分疎外感を味わった」と言われてしまった

で、実は、私は、私の両親がまだおるんですけど、一緒に住んでおりますけどね。それがね、こんなエピソードがありますね。ちょっと誤解、ありがちな誤解なんかもわからないけど。あのー、えっと、たまたま病院に行ってた家族、妻、子ども3人、4 人が告知を受けた、説明を受けたんですね。で、両親はそのときいなかったんだと思いますよ。その場にね。まあ、あの、いたのに呼ばなかったということじゃ なくて、「ご家族の方」と言われたときにいなかったんだと思うんですね。
で、自宅に家内が病院から帰って、子どもたちも帰った後、えっと、父と母に話をしたらしいんですね。で、それは後で分かったんですけどね。えっとー、父と母はそのときね、疎外感を随分味わったみたいなんですね。親からすると、自分の息子ですよね。自分の命に替えてもっていうくらい。えー、自分たちが先に死ぬと思っていたのに、えー、まあ、ね、医師の診断で言えば、子どもが先に逝っちゃうって分かったときの落胆ぶりは、あの、まあ想像すれば分かりますね。
だから、その中で、えっと、家族の方に話が、家族の方と呼ばれて告知を受けて話を聞いてきたのが、えーと、まあ自分の家内とね、だけだったので、すごくね、さみしかったらしいんですよ。その、同じ家族なのに、自分たちは家族じゃないのかみたいな、決して家内が忘れていったんじゃなくて、たまたまいなかったから、ね。で、後からその説明をしにいったときに、自分は家族じゃないのか、みたいにね、ちょっと思っちゃったってことを、後で、あと、別の機会にね、えーと、「実はあのときに泣いたんだ」というふうに。親が泣いたということは聞きました。
だから、そんなことはあるかも分かんないですね、だから、まあえーと、大変ですね、がん患者になると、そうはいろいろ気を遣っていられないかも分からないけど(笑)、まあもしも余裕があったら、お話をされるんだったら、もう家族全員集めて話をされたらいいのかも分かんないですね。その場に呼ばれないと、自分は家族じゃないのかって思う家族もいるみたいなので。まあ、あの、うちでのエピソードですけど(笑)、そんなことはありました。

前立腺がんの語り

父をがんで亡くした母は、がんと聞いただけでしょげてしまうと思うので、がんであることを話していない

今もまだね、うち、ほとんどもう皆、あの、言ってますけど、私の身内で知らないのが1人・・・私のね、母親だけはいまだに知らないですね。まあ、もう今、脳梗塞患ったりして今も病院に入っておるんですけれどもね、当時は、その、まだ病院にずっと、寝てたわけじゃないですけれども、私の場合は親父をやはり、あの、これは咽頭がんですけれどもね、えー、それで亡くしてますし。もう随分昔の話なんでやっぱりなかなか簡単には治らなかったころの話ですから、えー、私の母親もまだ、自分の親父を亡くしたころのイメージのままですから、がんと聞いただけで、ああぁと言うてしょげるのがもう目に見えてますんで、これはちょっと今さら、あの、話してどうなるもんでもないから、まあ、それ以外の全部、きょうだいもみんな知っとるんですけれども、母親だけはいまだ知らんじまいですね。で、幸か不幸か、不幸かいうか、私は入院はしてたけど、週1回ぐらいちょっと帰れてましたのでね、当時かて、あの、母親と同居しとったわけじゃないんですけど、しばしば様子見に寄ってましたから、治療しながらでもちょこちょこ涼しい顔してのぞきに行ってましたもんで、そんな夢にもがんで治療してるなんて絶対知りませんでしたね。

前立腺がんの語り

病状と年齢のこともあって、夫婦関係(性生活)は棚上げになっているが、時間を共有することを目的に結婚したのだし、別にどうっていうことはない

―― こう奥さまとのそのパートナー関係でも、特にそんなに大きい変化はなかった?

あ、家内との間は特にないですね。うん。まあ、そういった意味で、まあ年齢も60になってましたし、もう末期ですしね。まあ、あのー、まあ、えーと、まあ何というんでしょうかね、ちょっと言いにくいけども、まああの夫婦の間のこととかね、そのー、ありますよね。その、だから、まあ棚上げになっちゃっていますけどね。ええ。まあ申し訳ないなと思うけども。えー、ちょっとそれは勘弁していただいていますけど。別にどうってことありません。あの、そんなことばっかりで生きてきたわけじゃないのでね。時間をさっき言った共有するっていうことがね、24時間一緒にいられたらいいねって、結婚したんですよね。だから、うん、大丈夫です。はい。大丈夫だと思いますけど(笑)