投稿者「dipex-j」のアーカイブ

前立腺がんの語り

診断をうけた時には、脳腫瘍を患う子どもの看病もあり、ひどく痩せてしまった。子どもは冗談を言いながら、自分を励まし気遣っていたようだった(音声のみ)

あの、(闘病中の)子どもがいたんでねえ、痩せました。とにかく、痩せました。もう、手なんかしわしわですよ。このへんがしわしわ。人の前出て、腕まくるのがみっともなかったです。痩せちゃって。

―― 看病で。

看病と自分の病気で。ええ、その「がんのおそれがあります」っていうのを聞いただけでね。ああ、弱ったな、子ども残しておれががんにかかっちゃてどうしょう、どうしたらって。やっぱり、あの、ストレスはたまりますね。それで、実際、子どもも、あの、今度、逆に子どもが父親を励ますように。で、あの、毎日、あの、朝起きて、あの、おしっことったりご飯食べさせたりしていて。それで、体を動かしたりすると、「痛てえよ」ってよく言うんですよ。急に動かしたりなんかすると。「どこが痛てえんだ」っつうと、「お父さん、前立腺が痛てえんだよ」なんてよく冗談言いましたけんどね。子どもが冗談言いました。だから、逆に子どもが気ぃ遣いましたね。だから、あの、やっぱりね、あの、そういう、それを、子どもが寝ていて、私がある程度のストレスがたまっているというのは分かっていたんですね。子どもが分かっていたんです。だから、あ、これはなるべくそういうのは言わないほうがいいなと思って。

前立腺がんの語り

自分が入退院を繰り返し、将来的な収入がないため、息子は進学をあきらめて就職を、娘は奨学金で専門学校へ進んだ

それで、入院して、そのときは、えー、まだ、前立腺がんとは告げられませんで、要するに、あの、腫瘍があると、えー、要するに、検査しなさいということで、検査しまして、大学病院にその検体を持って行って、悪性とあとで分かったんですが。最初は、家族には、「良性であって、進行、あの、手術をする必要はありません」ということを、あの、聞きました。それは、家族からも聞いたし、先生からも最初聞きました。
で、検査終わったあと、家族には、余命5年6年と言われました。そのときに、先生の話では、まあ、悪性の進行性であって、それで、骨に転移して、転移するだろうというようなことで、今になっては、あの、思われます。えー、ちょうど、そのときが、歳として47歳。今、現在、63歳で、えーと、16年も経っています。
で、今まで、16年の間に、最初、入院したときには、○(地元)の総合病院で、家族全員…集まってきました。(涙声)……それで、一応、わたしも何ごとかと思って、ま、聞いた、あとで聞いたんですが、もう、あと余命5~6年ということで、兄弟全部集まったみたいです。それで、病院で、最初は化学療法、ホルモン療法いろんなことしました。それで、ホルモン療法は長く続いたせいで、若干、あの、おっぱいが大きくなりまして、ちょうど、そうですね、娘が中学のときのおっぱいぐらいの大きさだったでしょうか。あの、わたしのおっぱいを見て、娘の言うことには、「わたしのブラジャーを、貸そう…貸そうか」ということがありました。(涙声)
そのあとに、一応、わたしも追求した結果、あ、悪性の進行…、悪性であって、進行性であるということで、えー、そのとき分かりました。ま、そんときは、もう、自分で、一応、あ、仕方ないと、まあ、なったからには、もうどうしようもできんから、っていうことで、一応、先生の言いなりに、ずっと治療続けました。
えー、そうしているうち、放射線治療、いろんな化学療法、ホルモン療法、それから放射線治療、そのあとに、えー、その時期に入院を14~15回しています、入院、退院を。ちょうど、まだ、子どもが中学校になった、長男がなったときですかね。で、わたしは、余命まあこれは5年6年ちゅうことで、収入がないということで、進学をあきらめて……(涙声)…長男のほうは就職のほうということになりました。で、長女は、一応、家庭の苦しさをわかったもんで、……奨学資金で、高等専門学校に行きました(涙声)。

前立腺がんの語り

診断を受けて落ち込む自分に妻は発破をかけたが、「がんばれ」と言われるときつかった。自分の落ち込みがうつってしまい、妻も参ってしまった

うん。母ちゃんね、変わりようがない。逆に、あのー、うーん、十分、腹いっぱいしりをたたいてもらいましたよね。うん。それはいいんだけども、病気に関してのしりたたきで。男っちゅうのは情けないもんで、「ありゃ、もうおれは死ぬんや。がん=(イコール)死や」っちゅうようなね、ところが、やっぱ、「そんなことはない。お父さん、もうこんな例もある。こんな例もある。頑張ってくださいよ。じゃないと、飯が食えんでしょうが」っちゅうようなもんで、私に、あのー、俗にいう発破かけてね、してもらったのはいいんですが、残念ながら、こっちのほうがくるくるぱーになった状況があったんでね。
そのー、そのー、まあ、あこがれてうつになったわけじゃねえけど、こうしたときに「頑張んなはれ」っちゅうような話が来ると、もうきついんですわ、これは。で、おまけに、そのー、死んだらどうなる。死後の世界はどうなる。こっちは、あのー、現場屋というか、技術屋なんで、こうなったらこうなる、こうなったらこうなる、次から次にずっと物事を追っかける習性があるんでね。
でも、お母ちゃんの前で。あのー、うちの、あのー、本家、在所が、おやじの家がまだあるんですけど、今、無人になってしまっとるけど。まあ、どうでもいい(笑)。もうそこでやっぱり庭掃除たまには行かないかんと思って、いろんなな話、こうお母ちゃんとしたとき、もうお母ちゃんの前で初めて泣きましたよね。男泣きして。「でも、おれは死にとうない」って。「もうお父さん、死ぬわけないでしょうが」っちって。で、何かだんだんそうするうちに、今度は、わしのがうつったんでしょうな。お母ちゃんのほうがちっとこう脳天ファイアラ(アホ)になって、しばらく、あのー……、ばってん、女子(おなご)やけん、更年期障害かもしれんけど、ぷしゅーとなっておりましたね。うん。
それ、やっぱはたで見ると、お母ちゃんにしてみたら、「何でこのおっさんはもう……。度胸のない、情けない男やな」っちってから、うん、だいぶ、うん。まあ、あのー、しりは……。け飛されんやったけども、本当はけ飛ばしたかったんでしょうね。うん。つくづく思います。

前立腺がんの語り

末期がんの診断をきっかけに、家族との時間を大事にしようと思った。幸い前立腺がんは時間があるため濃密な時間を過ごすことができている

あの、これ、よく(ある)ゲシュタルトの図ですね、「ルビンの壺」なんですけど。

―― 顔と壺に見えるやつですね。

うん、うん、うん。で、えーと、まあ、えー、まあ例えば顔の部分がね、がんになってとても今大変だと、命がないと、命がないということだと思うんですけど、だけど、もう片方ね、えーと、中から見たら、これ壺なんですけどね、いいこともあったわけです。で、僕は、えーと、今は、とても幸せなんですよね。うん。なので、えーと、がんになって気付いたことがいっぱいあるし、えー、まあ、あの、がんが分かってから2年半、ものすごく幸せでした。なので、まあ悪いことばっかりじゃないよということを、前回はね、たまたまウイスキーの話で、高級ウイスキーがあって半分ウイスキーが残っていますと。それをもう、あのー、ああ、もう後には半分飲んじゃって、後半分しかないかと思うかね、まだ半分あって飲めるかって思うかでね、全然違うっていうふうに、ご説明、そういう説明だったんですけど。
まあ見方でね、つまり、えーと、悪いことばっかりじゃなくて、いいこともあると。ちょっともう、ちょっと目を開いて見てくださいと。えーと、いいことを、どんないいことがあったかね、数を上げてみることが大事だと思いますね。まあ例えば家族との絆はものすごく強くなりました。うん、あのー、だから、すごく濃密な時間でしたね、この2年半っていうのはね。あのー、まあ結婚するときに若い方は一緒に、家族と一緒にというか、まあ私であれば家内と一緒にね、過ごすことが楽しくて、もう24時間一緒にいられたらいいねっていうことで結婚するわけですよね、普通は結婚するときにね。つまり時間を共有するっていうことだと思うんですけど。まあ私たちの年代はサラリーマンとして、そのまあ高度成長の後期にね、とにかく必死になって働くって。で、会社入ったときには、えー、まあ重役の方たちはね、黒塗りの車で出勤して、いつかは自分もそうなるかみたいな、なりたいなみたいな感じでしたよね(笑)。
で、えーと、家庭のことは当時は女性に任せるんですよね、そういう文化的な背景があったと思いますけど、今やそうじゃないですよね。うん。で、その中で、自分は自分なりに自分の役割を、まあ一生懸命働くこと、家は家内が守ってくれることっていうことで過ごしてきたわけですけど。でも、心の片隅ではいつもその、家内はどう受け止めてくれたか分かんないけども、自分はその心の中ではね、申し訳ないなという気持ちもあったんです。まあその割には、随分好きなことをやっていたんじゃないって、今でも言われちゃうんですけど。あの、すみません(笑)、本当に好き勝手なことをやっていましたけどね。でもね、心の隅にいつもそのことが残っていて、いろんな勉強をその後していく中でね。こんな、あるとき、あの、研修の中でね、ワークをこうやった経験があるわけですね、もしもあなたが、あと、1年しか命がなかったとしたら何を大切にしていきますかって、何をやりたいですかって、何を一番大切にしますかって考えるわけですね。
まさか、同じ問いがですね、がんにかかったときに、いきなりそういうものを問いがね、問いそのままのシチュエーションになるとは思わなかったですけども。でも、がんでいきなり私の場合は告知されました。告知されたんですけども、そのときに何をしようかということは、もうすぐ決まりましたね。だから、ある意味そのえーと、混乱はなかったっていったらあれなんですけども、それは、そういうある意味では、自分が過ごしてきた経験の中でそれが1つ幸いだったというか、まあリソースだったんですね、自分を支えるためのね。えーと、で、そのときに思ったのは、家族が大事なので、これからは家族を、まあ残った時間、前立腺の場合は幸いといったら、同じ病気にかかって悩んでいる方、今の今ね、あのー、なかなかそれを受け止められないと思うんですけども、比較的予後がいい。
それから、進行がそれほど早くはないというね。いろいろもっと厳しいがんに遭われる方に比べたらね、良かったなっていうか、ありがたかったなって。時間があったことがね。で、その時間を過ごす中で、まさにその家族との時間を大切にするっていうことに集中できましたのでね。だから、過去数十年家内と家族と一緒でしたけども、そのときの時間よりもその2年半はね、もう数十倍近く濃密な時間を過ごすことができましたね。そういう意味ですごく幸せでしたよね。

前立腺がんの語り

診断を妻に伝えたら、ひどくショックを受けていた。冷戦中だったので、がんになったのは自分が原因かもと考えたようだ。以後、会話が若干増えた

―― で、帰ってこられて、奥さまに、奥さまにこう話されたわけですよね。そのときの、その最初の反応っていうのは?

彼女はショックでしたよ。の、ようでしたね。すごいショックでしたよ。あのときねえ、あのう、ずうっと会話もないって、さっき話ししましたけど、冷戦中でしたからね、女房とね。それこそ、そんなのもあって、全然話もしなかったし。で、病院に行ったの分かってたから、帰ってきて、「どうでしたか」って言うか ら、「実は、こうこうこうでって、入院で、がんだよ」って言ったらもうショックだったでしょうね。うん。で、よよと、まあ、私の目の前では泣かないにしても、人には「私が原因だったかもしれない」みたいな話はしてたらしいですよ。だってそういう、ほら、冷戦中で会話もない。うーん、食事なんかもね、まあ一応用意はするけど、ただ、どんと置いてあるだけ、帰っても。で、それを一人でわびしく食べているわけだ、夜にしてもね、まあ朝にしてもさ。まあそんな状況でしたから、そういう、私は全然そう思ってなかったけど、彼女にしてみれば、それが原因でストレスで、なんて思ったのかもしれないね。うん、そんなことが ありましたですよ。でもまあ、私以上に彼女はショックだったかもしれない。

―― そのことで改めて、やはり2人の会話が増えてきたっていうのは……。

まあ若干ですけどね。増えてきましたよ。まあ時々、またあのときの同じ状況にはなるんですけど。まあその原因はまあ分かっているんだけど、あえてここでは申し上げないですけどね(笑)

前立腺がんの語り

妻とはいろいろ口げんかもしたが、そんなときに小学生だった娘が「好きで病気になったのではない」と言ってくれたのが嬉しかった。この夏、その娘に子供が生まれた

―― あの、奥さんは、何か、あの、普段の生活の中で、お声をかけたりしますか? あの、がんを、頑張っていることについて。

うーん、そうですね、やっぱし、まあ、夫婦ですから、もういろんな口げんかします。

―― 何か励ましの言葉みたいなのもあるんですか?

女房からはあんまりありません。(笑)

―― あとは、お子さんたちは、何かそのお父さんに対して、病気のことで言ったりとか、なさったりとかされますか?

はい、たまに、わたしと、まあ、女房と口げんかしたときに、…よく、あの、娘が言うことには、…こういう病気になったのは、好きになったんではないと……(涙声)…うーん、まあ、娘が言うてくれるのが一番うれしいです。……(涙声)

―― そのとき、小学生だった娘さんが、今は?

そうですね、あの、わたしも、孫が生まれるまでは、頑張らないかんと思って、まあ、一応、頑張って8月に初孫が生まれました。

―― それは、よかったですね。

ありがとうございます。

前立腺がんの語り

がんについて息子が理論的に説明してくれ、「どう立ち向かっていくかが大事だ」と自分を落ち着かせてくれた

あと、意外だったのはですね、うちの息子。息子から逆にがんというものが、こういうものだっていうことを逆に言われてですね、あの、それは多分、大学の専門分野がそういう専門分野だったから、そういう理論的なことを言って、わたしを落ち着かせる。わたしもどちらかというと、理系の人間ですから、あの、理論的なことと思って、あ、そういうことなのかということで、意外と、そこで納得して。次の対する対応を、に、もっと積極的に対応するようなことをしなきゃ駄目なんだということを、あの当時大学…何年生だったんだろう、2年生ぐらいだったのかな。あの、応用生命のほう専攻していたんですけどね。だから、それは、ウィルスでも何でもなくて、自分の組織がそういうふうになる、なって変形、突然変異があって。そして、それがそういうふうに現われているんだ。それは、それに対する対応をしなきゃならないんだということで、何ていうか、教えられたというか、ま、それが唯一の救いでしたね、わたしにとっては、はい。

―― 息子さんの、その「自分の細胞が変形して突然変異になるんだよ」ていう説明を聞いて、そのどんなお気持ちになられたんですか。

だから、あの、どちらかというと、このがん告知を受けた人間というのは、どうしてなんだ、なぜわたしだけが、何万人何十万人何百人…万人もいるのに、なぜなんだ、なぜなんだ、なぜなんだが頭の中がうずまいているわけですよね。ですけども、息子の話からすると、誰でもなに、なりえる性格なもので、毎日毎日、今、まあ、いってみれば、6兆個(※60兆個の言い間違い)の人間のつかさどっている細胞がある中で、3000から5000ぐらいのがん細胞が出ているんだと。それを、人間のいろんな機能でもって、異物と異なる、普通と異なる組織だということで、攻撃をしてそして、あの、やっつけている。それの繰り返しが、あの、人間の体の中ではおこっている。その、やっつけるための免疫であるとか、いろんな、それを司る、ビタミンであるとか、酵素であるとか、あと、いろんなバクテリアであれ、あるとか、そういうものが複合的になって、えー、まあ、生きているんだと。
だからそれが、即、あの、死に至る過程の中で、死期を早めるということはあっても、人間が何が平等だと言ったら、あの、どんなお金持ちでも、どんな貧乏な人間でも、どんなに恵まれた待遇の者でも、そうじゃない人間でも、みんな平等に訪れるのは死であって、その死に対する恐怖が、生きている者として、当然いつか体験しなきゃならない。その体験しなきゃならないのが、きっかけはがんというきっかけで、親父の場合は、そのきっかけの中の一つにすぎないんだというふうな考え方で、今後これに対する、どういうふうに対応していったらいいかということを、医者と相談しながらしていかなきゃならないんだということを、こう…何ていうか、変にこう説得されるような言い方をされてですね。
今、思うとそうですね。多分、あの、理屈では、自分でもそんなこと言われなくても、分かっているんですよ。あの、理屈では。で、それを、他人から言われても、多分、ほんなことは分かっているぐらいですんだと思うんですけども。まさか、息子からね、そんなこと言われるとはつい思っていなかったのが、あの、うーん、まあ、言い方は、こういう言い方ではなくて、あの、もっとし、静かな、わたしがそれこそ、病、あの、病院のベットの上でいるときにそういうふうな、あの、言い方をしたもんだから、なおさら、こう、そういうね、雰囲気というかそういう環境の中で、そういう話をされたもんだから…だと思うんですけどね。今、思うと。はい。

前立腺がんの語り

妻に「人間ドックを受けて」と促され、がんが見つかった。妻に命を救われて感謝している。病気をきっかけに夫婦の距離が近づいたと思う

家内がよ、そのー、あなー、「人間ドックを受けよ」って。それが、僕、もう達者であったんでね、もう「そんなもん、受けやらんでもええ」って言うちあったんよ。ほうやけど、家内が「もう、そんなこと言わんと、もう受けてきてよ」っちって、怒られもて行ったんで、ほんまに家内にはもう死ぬまで頭が上がらんっていうか(笑)。命を救われたっていうか、もう達者、自分がいっこも、あのー、体、悪なかったような感じやったんでね、もう2年も3年も放っちあったら、まあ、あのー、手遅れていうことになったん違うかなと思って、もう死ぬまで家内には頭が上がらんと思てんのやけど(笑)。ほうやけに、まあ、助かった命を、まあ、もらったっていう、家内にもらったっていう気持ちでいっぱいやけどね、ええ

―― 奥さまに命を救われたところもあるし。ご自身で(リンパ浮腫の)マッサージ頑張られて、時々はそういう釣りとか、ご趣味のことで楽しみも見つけてらっしゃって。

それは、ほんまに感謝感謝の毎日を送ってんのやけど(笑)。

―― そういう奥さまに対する感謝の心っていうのが、ある意味、病気をきっかけにしてっていうのがあるんですかね?

うん、まあ、うん、まあ、そういうことがやっぱり、そのー、夫婦の何がやっぱり、余計、こう近付いたっていう。そら、家内はどう思ちあったか知らんでね(笑)。ほうやけども、僕自体は、あのー、やっぱりありがたいなあって。やっぱり、あなー、自分の近くにいてる人をやっぱり大事にせないかんなっちう気持ちは常に持ってんのやけどね。それが態度に出てあるか出てないか、相手には分からんかも分からんけど(笑)

前立腺がんの語り

手術後一番気になったのは、子どもたちががんのリスクが高くなったなということ。がんだとわかったときには、すぐに電話をして伝えた

それで、手術後、一番まああのー、私のことより気になったのが、子どもたちのことが、やっぱり一番気になりまして。まあ心配かけたなっていうのと申し訳ないなっていうのが。まあ家内もがんで亡くなって、私ががんになったっていうことは、非常にリスクが強くなったっていうか、子どもたちがですね、っていうのがちょっと申し訳ないなって思ったんですけどね。まあお医者さんにその話をすると、「もうそんなことあまりいわ、言わないほうがいいですよ、子どもさんが気にしすぎるといけませんから」って言われたんで、表には出さないんですけど、子どもたちにちょっと負担かけるかなあっていう、気がしました。だから子どもたちにはすぐにもう、私ががんってわかったときに、すぐ電話して、「お父さんがんだか らって、これこれだから」っていうことを伝えました。

前立腺がんの語り

大学生で家を離れている娘には心配をかけないよう、ずっとがんであることを言わなかった。帰省したときに絶対大丈夫だからと前おきしてから話した

―― 娘さんには、どうやってお伝えになったんですか。

あのね、ずうっと言わなかったんですよ。退院して、春休み、まだあのころ、ちょうど(大学)4年生になるときだったのかな。春休みに帰ってきて、そのときに駅まで迎えに行って、で、その迎えの車の中で、「実はな」という話をしたんですよ。「まあ大丈夫だから、あと、10年は死なないから」っていう話はしましたけどね。もう、もうびっくりしたでしょうね。「そうだったんだぁ」って、「痩せたもんね、急激にねえ」なんて話もしてたけどね、うん。
それから、この春、卒業して、うん、就職したんですよ。で、娘ともう一人の友達とね、卒業旅行だっていって、3人で、沖縄行ってきたんですよ。うん、そう、沖縄に友達っていうか、いますから。あのう、まあゴルフするときは、おまえたち、あの、レンタカーで、まあその近くに、こことこことここをナビ使って行ってこいって言って、それで現地の友達とね、うん、ゴルフプレーして、で、終わったら戻りなって。それだけ別行動、あとは全部一緒で行動してました。たった2泊ですけどね、2泊3日ですけどね。大阪に勤めちゃってね、こっちに来たって、また仕事もなかったんだろうし。残念ながらこっちに帰ってこれませんでした。
いや、あらかじめ、「絶対大丈夫なんだから」っていう話を前提にしておいて、うん、それで「実は」って話ししましたから。まあ本人、内心までは分からないけど、まあ多少そうでも、結構からっとしてましたよ。うん。「まあおまえがまず、来年卒業して就職ということがあって、だからといって、おまえの人生曲げることないから、どうしてもここへ帰ってこいなんていうのは考えなくていいから」っていう話までしましたからね。うん。でも、行く行くはお父さんとお母さんの面倒見なきゃならないなんて、殊勝なこと言ってますけどね。でも、分からないですけどね。それこそ、あっという間に彼氏を連れてきて「結婚します」なんて言うかもしれない。どこか行くかもしれない。まあ、日本だったらね、どこでも、まあしょうがないなと思っていますけどね。