投稿者「dipex-j」のアーカイブ

乳がんの語り

病理検査で断端陽性という結果が出て、「申し訳ないけれど再手術」と言われたときには「何も悪いことしてないのに、何で?」という気持ちになった

それで、2回目の、断端陽性ですか。あのー、一番端っこに、がんが取り切れなかったっていうことで、先生からご説明あったときは、正直言って、「何で?」って思いました。「私、何も人に悪いことしてないよ。それなのに、何でこんな仕打ちを神様」、あの、私、宗教やってないですけどね。「そんな…ことをされなけりゃいけないの。この世で何でそんな助けてくれないの。何で私がこんなつらい目に遭わなきゃいけないの」という、本当に何か、世の中から見離された感じでした。頭から、何かドーンと。やっと手術で退院できると思った矢先に血液が噴き出して、それはまあ、いたしかたないことと思っても、もう一度手術というのは本当にね、言われないショックでしたね。もう一度ゼロに戻ってしまう、ことですから。
先生から「お話があります」といったときには、まあ、それなりの、「ご主人、早急に呼んでくれ」ってときには、何か相当のことだなと思いました。それで、看護婦さんが、「一緒にお話聞いてあげるから。一緒に立ち会ってあげるから」って言ったときに、「ん?これはもう何か相当だな」って思ったんですね。それで、主人と一緒に行ったら、私は、正直言うと、そのときに「抗がん剤を使いたいから」っていうお話かと思ったんです。まあ、リスクが、アレルギーというリスクがありながら、まあ病気の、浸潤性小葉がんという、あの、病柄(びょうがら)から、それはやむを得ないから使わせてほしいってことかなと思ったんですけれど、「もう一度、申し訳ないけど再手術」と言われたときには、もう本当に、もう言葉出ませんでした。

乳がんの語り

医師に「細胞診」と言われても、「疑わしい」と言われても何が何だかわからなかった

「細胞診」と言われても、一応、先生にそういう話を聞いても、細胞診が何だかわからない。「これは、がんのグレードとは違います」と言ったって、何の? それが何だかわからない。聞いても何が何だかわからない。そういう状態でした。今でだからそういうことが言えるんです。その中で、必死に(乳がんの本を)読みました。「細胞診って何だろう?」って。で、「顔つき」とか、その「疑わしい」とか言われても、病理の先生がって言ったって、その「病理って何?」みたいな。「何をする人?」みたいな、そういう状態でした。

乳がんの語り

発症当時大学生だった娘たちは、女性としてこれから乳がんになる可能性もあるので、自分がここで元気にならなければ不安を与えると思い、がんばって治療に臨んだ

二女が22、長女が24か、まあそのくらいで、まあ大学生でしたので、もう子どもも大きい。自分も50歳になってた。だから、ここまでもう自分にとって、今、例えばこれからおっぱいが要る人とかではないし、これから子どもを産む人でもないし、子どもも育っているし、自分はまあ親としての役目も終わっているから、ある意味では、(乳がんで乳房切除することも)「怖くないわ」っていう気もあって。でも、ある意味では、あの、娘2人っていうのは遺伝的なものがありますね、乳がんっていうのは。娘にとってお母さんが乳がんになったっていうことは、自分にも乳がんになる危険性がすごくあるわけじゃないですか。だから、それがすごく不安だろうと思いましたので、これであの子たちを不安にさせたり、あの子たちが今まだ20代前半でそんなになっちゃったら、やっぱりかわいそうだし、大変だろうと思うから、私が元気でいて、大丈夫な、もう元気な姿で行くことが子どもたちにとっても、一番だなっていう気持ちがすごくあったんで。それこそ、どなたかのご本で、『乳がん死ゼロの日』って、乳がんでは死にたくないと。乳がんで、私は死なないっていう気持ちがすごく強くて、で、1月9日の手術に挑みましたね。

乳がんの語り

子宮筋腫と乳がんで子宮と胸を取ったとき「女だって言うものが何もないじゃない」と言われたことがあったが、子どもも産んだし、「ないから何なの?」と思った

――(筋腫で)子宮そのものを取るっていうことには、あんまり抵抗はなかったんですか?

ええ。それももう2人、子どもを産んでますし。まあこのねえ、産んで終わって、もうなくなっても別にいいわって思って。そしたら、でも、手術をした後に上の子が来て、「ああ、お母さん、私が入っていたのがなくなっちゃったのね」って、子どものほうが言いました(笑)。そんなこと考えたことないのに、「ああ、お母さんのとこにいたのがなくなっちゃったんだ」って、「へえ、そんなことを思うのかな」と思いましたけどね。
それで、まあ子宮を取って、胸取ってといったら、ある人がね。もう傷つかないんですよ。ある人が、「あなた、それじゃあ、女だっていうものが何もないじゃない」って言われて(笑)。「ああ、それもそうね」って(笑)。まあそういう言われて、傷つく人もいるかもしれないけど、「確かに子宮がないわ、胸がないわじゃ、女の部分は何かしら」って思うけど。まあ幸い何か性格が幸い?「うん、そうそう」っていうくらいで何も思わなかったけど。でも、人によってはねえ、子宮がなくなったり、そのなくなって、だんなさんとか、周りが女じゃないみたいな態度で、それが原因で別れるとかっていう人もある場合もあるでしょう。まあそれは、自分もそういう性格じゃなかったし、まあ主人も、そういう性格じゃないから、すごく幸いしたと思いますね。うん。「ないから何なの?」っていう感じでね。

乳がんの語り

以前からとても信頼していた皮膚科の医師に、患者の尿の成分を転写して作るという「情報水」を勧められたので1年半ほど飲んだが、効いたかどうかはわからない

たまたま私が、やっぱりちょっと、皮膚科の先生で――精神的にちょっと参っているときに、全然畑違いなんだけど、やっぱりその先生が――この先生がいいなと思ったのは、畑違いのことを相談に行ったときに、「あー、あなた、眠れないでしょう。よく眠れるようにお薬飲んで寝なさい」って言ってくださった先生がいたんです。
で、その先生をまあ好きでね。何か別に全然関係ないんだけど行っている先生がいて、たまたま顔にちょっとこう湿疹ができて、お薬をもらいに行ったときに――あの術後ですね――行ったときに、「先生、実はあしたから、あの、抗がん剤の療法が始まるんです」って、「実は手術したんですよ」って言ったら、「ああ、知らなかった」って。で、その先生がたまたま自分(患者)の尿からの何?…何ですかね、何かの成分を何か転写して、水に入れて垂らして飲むと何とかいうふうになる(笑)…「情報水」っていうんですかね。何かそんなのをね、「ああ、これ、僕、研究したのあるから」って。で、それは月に5,000円だって、もう安いし。もう何しろ、私はその先生をものすごく信頼してましたから、「はあ」とか言って。
それで、それが1年くらい、1年半ぐらいでしたか、自分で、こう何だかスポイトに入れて、ポチャンとお水に入れて、そのお水を飲むっていうのは飲んでましたね。で、それがいいんだか悪いんだか分かんないけど、うん。あとは、あとはお薬、そういうほかのサプリメントは一切飲んでないですね。はい。それが1年半ぐらい。ええ、まあ、それを飲んで、まあ何しろ免疫力を高めなきゃ…免疫力を高めなきゃというか、気功とこれで免疫力だわと思って、それの力にはなってもらっていますね、はい。

乳がんの語り

胸がないからといって「女じゃなくなった」とは思わなかったし、再建したら検査もしにくいだろうと思った

それで、まああの、中には胸がないわけだから、まあお風呂入るときに見るとゾッと、もう体を見たらちょっとびっくりする体ですけど。それによって自分が、これが女じゃなくなったわとか、そういうことが、まあ家族も、主人はもちろんだけど、誰もそういうことを言わないし、自分も思わなかったことがまたすごい幸せで。中には、そのことでショックで、もううつになっちゃっている方も、友人でもいたんですけども、まあ彼女の場合は再生(再建)手術? あの、作る…? あの、だんなさんは、「何もそんなことしないでいい」って言ったけど、自分がそのそれじゃ、何か気持ちが弾んで生きていけないっていうんで再生をなさった方もあります。まあ、それはそれで、あの、いいと思います。彼女はそれで幸せになった。ただ、私はこう何か付けちゃうと、「もう一回何かあったときに、こう検査しにくいかな」と思って、「もうこの素でいいわ」っていう。だから、それは全然思わなかったことも幸せの1つですね。

乳がんの語り

初めは腕が上がらず、むくみも出ていたが、腕が壁伝いに1センチずつ上がるようになって、半年くらいでよくなっていった

――腕が上がりにくい時期があったというふうにおっしゃられましたが、それはどのぐらいで、今はいかがでしょうか?

あ、今もね、昔と同じ…完全ではないですけれども、もうかなり、あの、普通に上がります。腕が上がんないのは、本当に最初はもうこのくらいですね。それから、だんだんだんだん、あの、壁伝いに、あ、1センチ上がったわ、1センチ上がったわっていう感じで(実際に左手を動かしてみながら)、やっていますけども、今は、ほとんど大丈夫です。はい。ただ、あの、腕が上がらない時期っていうのは、こうリンパを取ったりしているから、こう、むくむんですね、すごくこう手を下げていると。で、歩いていても、こうむくむとやっぱり横になりたいとか、だから、こういうところでもこう、ひじ掛けにするとか、何しろ手を上げていないとつらいという時期がすごくありましたね。まあ多分半年くらいだと思いますね。はい。
その後、私の場合は50肩と一緒になっちゃったのか知らないんですけども、まあ犬の散歩もありましたからね、引っ張られるから。あの、すごい肩、右肩がすごい、あの、痛くなっちゃって。あの、それはでも1年くらいかかりましたけれども、まあそれも自然に治ってきました。はい。だから、大抵の方が、あの、みんなその腕が、あの、むくむとか痛いとかっていうことは経験されていると思いますけれども。それも、あの、やっぱり徐々に治ってくるし、あの、自分なりの体操とか、まあお医者さんの体操とかしてれば、だんだん治ってくるので、本当に同じ状況に使えるようになるっていうのはウソじゃないなとすごく実感していますね。はい。

乳がんの語り

術後しばらくは縫った後の傷がジュクジュクしたり、胸に鉄板を巻きつけたような感触が残ったりした

――今は手術後の痛みというのは、もう何にもそういうのはない?

あ、もう今はないですね。最初は、痛いとか、まあ、最初は、あのちょっとガーッとやって、ジュクジュク、縫った後がジュクジュクしちゃったりとか。後はずっと、皆さん、そうだと思うけど、鉄板をこう、体にいつも張り付けているみたいに、何か鉄の板にいつも巻かれてるのみたいな、そういう感じはいつもしてたんですけど。まあ最近は、ちょっとこの辺に、「あら、まだブラジャーしてたかな?」って思うんだけど、「あら、してないわ」っていうくらいの感じはあるんですけど、特別な違和感はないですね。
ただ、本当にこう、きれいに。この、何だろう、よくこんなにきれいに取れるもんだなと思うくらいに、骨の上に皮が張り付いているような感じなので。背中のほうがだんだん中年になって、肉が出てくるのに、普通はブラジャーすると、その肉を前にこう押せるのに、ここで絶対に、その遮断されるんですね、不思議と。この皮、この皮はこの肉を絶対にもう入れないっていう感じなんですね。だから、えー、どうしても、これは入れてくれないんだって。ああ、脂肪がもう絶対付かない感じですね。うん。

乳がんの語り

病院で下着メーカーの乳がん患者のための相談室を紹介されて訪ねていったところ、値段も手ごろで自分に合ったものを作ってもらえて、ありがたかった

あるとき、ある下着さんのメーカーで、そういう人専門のそういう、あの、下着をね、作るっていうところが、やってくださったところがあって。申し込むと、行って、いつも個室で。別に値段が高いわけじゃないんだけど、体に合ったものを出してくれたり、中のパットとかも体に合ったものをすごく親切に、あれは多分、あの、採算とか、そういうのは別にしてやってくださっているんだと思うんですね。そこはすごく、「ああ、ありがたい。いい会社ね」って思って。まず、行ったのがそこですね、ブラジャー作るとこですね。行ったですね。
ブラジャーのことは、あの、病院ですね、退院する前に病院から、「こういうところにありますよ」って、教えていただいて。そこにお電話して、そこに訪ねてって、行きました。で、あと2~3、別のところもあるらしいんですけど、私はそこの1つのところで、ずっといまだに。でも、最近は、少し慣れてきたもので、あの、一般のブラジャーのパット、袋のあるブラジャーで、一般の軽いものを入れたりもしてますけども。最初はずっとそこでお世話になりました。

乳がんの語り

両側の乳房切除手術だったので7時間くらいかかったようだが、翌日には歩いて集中治療室から自分の病室まで戻った。術後感染による合併症で1ヶ月入院した

あの、私の場合は、こう、いろんな本を読むと、その、麻酔が覚めたらすごい痛みで苦しんだ人とかって、あの、本に書いてあるんですよね。痛み。麻酔が終わったらとても痛いとかって。まあ、筋腫の手術の後のほうが痛かったですけどね。ああ、もう覚悟していたんですね。「これが終わったら、もううんと苦しんで痛いんだわ」って思っていたら、何か全然こう、痛みが、あの、うまい麻酔、何かやってくださったのか知らないけど、あんまり痛みも感じないで、一晩。
で、もう、翌日のお昼ぐらいにして、(手術が)7時間ぐらいかかったらしいんですけども、で、翌日にはもうお昼には「もう自分で歩いてベッドの病室に戻ってください」って言うから、「えっ、どうやって歩くの?」っていうくらいなんですけど、もう、よたよたしながら病室に戻されまして。それで、まあ1ヶ月くらいは入院しました。途中でちょっと、こう入れている管からちょっとあの、ばい菌が入ったらしくて、熱が出たりって、まあちょっとトラブルはありましたけど、でもその先生のおかげで、まあ無事に退院しました。