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前立腺がんの語り

小線源療法を受け完治したと思っていたが、がんは必ずしも完治するものではないとTVで聞いた。そうかと思い認識を改めたが、子どもにはそれを伝えていない

娘たちにはもう、前立腺がんやということをはっきり、言うてますけどね。

―― ご家族との関係がそれでこう変化があったっていうのはありますか、何か。がんっていうことを伝えたことで、娘さんの、との、そのなんていうか関係だったりとか、奥様との関係とか。

いや、それはないです。ただ最初、最初のうちは、病人扱いにしとったけどな。

―― 病人扱い。

(笑)だけどこのごろはもう、普通の人間やて、何、言い方がおかしいけど、そういうふうな考え方持ってるんと違いますかな。
うーん、まあ、前立腺(がん)をやってしまって、なおかつ病院に行ってるんやから、ほんで、ましてやこの間テレビで見て、がんいうもんは治らんと、そういうふうに言うてるわいうて、あのー、まあ(自分と妻と)2人しかおらんのやからな。まあ娘たちにはあの、まだ言うて、言うてませんけどな。その娘たちは結局、その、小線源の治療をしたから、完治するもんと思うてるんですね。だけど(がんが治らないと)知ってるのは家内と私だけなんで、もう、がんいうのは(完全には)治らんと。ただ、やってる(治療を受けている)のは、私1人じゃなくて、みんな、がんいうものは、その、大きくはなって…ちいさ…小さくはなってても、その完治することはないと。そのことだけなんですわ。

前立腺がんの語り

妻は最初、病状を教えてはくれなかったが、色々な治療法を提案してくれ、自分もそれに素直に取り組んだ。妻に助けられたと思う

1年間放ってあったから、PSAも、おまえのがんは、PSAは、腫瘍マーカーが正常値4が、4以下が正常なんだけど、僕の場合は472ありまして。それで、骨の病気というALPが病院に入院するときは3,300、だから約10倍ですか、ALPが。そういう状態でいたんで、後から女房に聞いたときは、「薬が効かなければ余命1年だったんだよ」というのは、良くなってきてから分かりました。ええ。それまではもう良くなるということはありとあらゆることをやりました。
僕自身は何も分からずに。気功もすべて、女房がたまたま受けてたりして。で、そういうものを「あなた、受けてみない?」っていうんで、「じゃ、良くなるものだったら何でもやってみよう」ということでしたね。やっぱり、あのときに、もうおれはがんだから駄目だと思ったら、やっぱり、やっぱり駄目だったと思いますよ。投げやりにもならなかったし。もう、あのときはね、もうね、おれは駄目だとか 何とも思わなかったですね。やるだけやってみようと思って。がんになったときにね、やっぱり腐っちゃいけないなと思ってね。ああ、もう、やれるだけやってね、うん、すれば、納得いくだろうし。うん。

―― その、まあ、腐っちゃ駄目だと、その、やれるだけやってみて、というふうにおっしゃってましたが、そういうふうにこう気持ちを持っていけたっていうのは、あの、何が支えとしてあったからかとか、どういうことがきっかけでそうだったのかというのはありますか。

いやあ、そういうことはあまりね、言われてもね、そのときにね、やっぱり、「あっ、これは大変なんだな」っていうことしかね。だから、6ヶ月で、ねえ、余命6ヶ月なら6ヶ月で教えてくれって言ったのも、教えてくれなかった。でも、それで「あなた、じゃ、こういうところをやって、こういうことを受けてみる?」っていったら、「うん、じゃ、それも受けてみたい」というふうに、何しろ素直でしたね。うん。素直でした。そんなの受けたくないとか何とも言わなかった。すべてやれるものは素直に全部やりましたね。
だから、そういう面では、やっぱりね、奥さんにやっぱり助けられたというかね、一人じゃすべてここまでね、そういう治療を受けるとか、ああとかそういう判断はすべてできないし、どうなってたか分からないよね。やっぱりそれにはやっぱり、大部分、ここまで良くなったことの、いろいろな今までのそういう情報とかそういうところへね、連れてってもらったこと自身が、今にこうね、奇跡が起きてきたのかなっていう。

前立腺がんの語り

診断後すぐに入院になった。家族は自分の前では明るくふるまっていたが、長くは生きられないと聞いて相当につらかったと、後になってから聞いた

―― あの、奥さまには、あの、どのタイミングでそのご自身がその前立腺がんだっていうことが分かったんですか。

わたしは、あの、主治医の先生に、聞かされたそのあとに、主治医の先生から、家族を呼んで何かそういう報告があったみたいですね。状況の、あの、説明がね、はい。で、その時点では、やっぱり、わたしよりも家族のほうが、あの、何ていうのか、その病気に対する心配はしていたみたいですね。はい。

―― ああ、それは、あの、どんなところから、そういうふうに感じられましたか。

あの、あとで聞きましたけど、やはり、病院の病室の部屋でいるその姿と、おうちへ帰ってからの家族子どもたちとの話の中で、あの、やはり、そういう暗い話というか、悲壮な話を、まあ、私がとにかく長く生きられないという、そのことを覚悟して、非常につらい思いをしたみたいですね。子どもも家内も、はい。で、それは、あくまでも、そのときはわたしは分かりませんでしたけど。あとで聞くと、とにかく、その明るくふるまえないと。つらい顔で、その仕事も従事しないといけないということで、精神的にかなりつらかったかなということは、あとで聞きましたけどね。わたしよりも、家族のほうがそういう思いが大きかったかなと思いながら、あー、でも、元気になら、なれたからよかったかなと、今は感謝していますけどね。

―― あとっていうのは、いつぐらいにそういうお話ができるようになったんですか。

えーとですね、1年ぐらいたったときに、ぽっと子どもが話してくれましたね。ええ。「あのときのお母さんは大変だったよ」って言って。

―― それまでは、じゃ、あまり、そういうご家族の話は。

うーん、だから、明るくふるまっていますから、まあ、それほどでもなかったかなと思っていたけど。それ聞いたときは、ああそうかと、うん、心配してくれたんだな、つうことは思いましたね。はい。

前立腺がんの語り

病院のパンフレットを妻が見つけ、尋ねられたので多分がんだろうとだけ伝えた。転移しているかもなんて、とてもじゃないが話せなかった

―― その、奥様に、あの、がんかもしれないというようなことは、その、えっと、先生のところに一緒に行かれたときに奥様はそれを最初に知られたわけですか、それともその前にご自身が。

えー、前に知りましたですね。私が、その、PSA147いうのを聞いて帰って、それで自分でその147をざっと調べたら、これはもう、その、白か黒かといえば黒に間違いないな、もうこれははっきりしてましたんでね。黒というか、まあ、もう普通に考えれば末期じゃないかというような気もしたぐらいですから、えー、まあ、その時点で自分では分かってました。で、それでですね、その日に、147だと聞いて帰ってきた日に、私の場合は、次、針生検受けてくださいと。で、それの入院の日取りの予約までとって帰ってきてたんです。病院のパンフレットや何かも全部もらってきてたんですよね。それをひょっとテーブルの横っちょに置いたままにしとったんですよ。それをうちの家内が先に見つけましたね。この入院、何?というような話で、まあ、それだけ聞かれたら、あの、言わんわけにいかんようになって、これこれだと、まあ、多分がんだろういうのは言いましたね。ただ、まあ、そのときには、私自身は、ネットでずっと見ながら、これ、多分がんだろうというよりは、もっと、もっとひどいんじゃないかという気は自分では十分あったんですけど、家内には、がんかもしれんから検査になったというような言い方しかしなかったですね。転移しているからもしれんとか、そこまではとてもじゃないが、そんなことは言えない。じっと我慢してたいうことですかね。

―― 奥さまはどういうふうに受け止められましたか。

うーん、どうだったですかな。いやー、まあ、私は普段からあんまり、その、こまめに嫁さんにサービスしてるほうじゃないから(笑)、そんなこと少々言うたぐらいじゃ笑い飛ばされて終わりか、ねえ、そんなぐらいだろうと思うてたんですけど、まあ、意外にちょっと半泣きになったというか、ああ、やっぱりこういう話では泣くんや思って、妙に感心しましたですね。

前立腺がんの語り

家族に診断をうけたことを話したが「そりゃ仕方ない」という感じだった。自分はショックで、泣き顔を家族に見せないよう外で泣いた

いや、まあ、(自宅に)帰って「こげこげじゃ」って言ったら「ふうーん」っていうような感じでした。「ふーん、大した、そげに、どうっていうことない」っていうような感じで、はあ。楽に思っちょります(笑)。

―― それはあの、ご家族の反応が…。

いや、反応は大したそげに。大したそげ反応が、「前立腺がんが。そりゃ、がんの仕方ねえわ」ぐらいの感じの言い方でしたけんね、どうしょうもないです。本人が、まあ自分が苦しんだぐらいのことで、一晩、ちょっと泣きましたけどね。…そういうことで、まあ、大した、家族でどうっていうこと、そげにね、もう地団駄踏んでみたとこが、それで、どうしょうもないですから。もう、割り切っちょりますさ。はあ。

―― でも、最初にそのがんと言われたときには、やっぱり、そういう意味では、すごくショックで。

うんまあ、ショックはショックでしたよ。まあ、顔で笑って心で泣いていましたわ。泣き顔はね、家族に見せたくないけん。外へ、外へ出て泣いていましたわ。1時間でも2時間でも泣いていましたよ(笑)。家入るのが怖くてね(笑)。今、こうして笑っていますけどね(笑)

前立腺がんの語り

家内が亡くなっていたので、家族全員が病院に来てくれた。自分では医師の説明を聞いていたつもりだったが、やはり動揺していたよう。居てくれて心強かった

説明のときには、あの、家族全部、従兄弟も兄弟もみんな来てくれました。

―― そうですか。

それであの、そしたらもう、放射線(治療)のほうが一番体をいたわっとるんじゃなかと。っていうことで、みんなのあれでそういうふうになりました。

―― そうですか、じゃあ本当に家族、ご家族みんなのサポートがあって、そのような…。

自分自身はやっぱよう説明を聞いたつもりですけど、ああ、そこはそうじゃなかった、こうやったやろとか、妹から言われました。やっぱ本人はぽーっとしとったよねって言われました。それで、あ、妹たちが説明を聞いていて、そして放射線のほうになった。
聞いたつもりで自分はおったんですけど、やっぱり聞いてなかったんだなあと、あー、これもあったかなあというこれ、がありましたね。ですから聞いたときに、やっぱし頭が真っ白になったという感じで、して「はい、はい」って返事はしてたんですけど、あのー、納得してなかったんですね。あれは、妹がこんなとも先生が言うとらしたかね、こうて言うとらしかねって、妹から注意されて、ん、あったよあったよぐらいで、自分自身はもうはいはいだけで。

―― じゃあそういう意味で一緒に来てくれたのはよかったですね。

はい。それは全部一緒に来てくれたので、ほんと力強かったです。家内がいませんので、親戚のが全部…。

前立腺がんの語り

NPOの仕事を一旦は辞めたが、周りの支えがあったのと、キャリアコンサルタントとして成長し続けたいという思いから再開した

今、NPOのことを、いったん病気になったときにですね、自分が声を掛けてNPOを始めたんですけども、責任を取れないんでね、それを全部ね、お任せしました。あの、外れて、後の支障のないようにね、役員も全部下ろさせていただいて、次の方にお願いをして支障がないようにやったんですけどね。今、もう一回、自分が残された時間が、後どれほどあるか分からないけども、ちょっとそのNPOのことでね、お手伝いしたいことがあって、家庭のことだけではなくて、今、やれることで言うとね、ちょっとそのことで、今、私がお手伝いできることがあるので。またそのことを今、新たにもう一度、みんなから、「いや、最後まで責任を持たなくていいから、もう一回戻ってください」っていうお声が掛かったので、まあそれも自分の役割かなと思って、まあもう一回お引き受けして始めたんですね。
で、そのとき思ったのは、自分は成長するという意味で言うとね、キャリアカウンセリングっていう、まあカウンセリングのある分野ですけどね、人の成長にかかわることをね、そのまあ伴走役っていうかね、一緒に走っていくっていうことをしますというね、まあ役割なんですけど、最後までそういうふうにいたいなと。がん患者だって、まだ成長するわけですよね、うん。あの、そういうふうにこう大人への、あの、例えば父親になる体験もできましたしね、親としての。だから、分かんないけど、まあいつ来るか、まあそれは、人間は命限りあるわけだから、仮に私がえーと…何ていうんでしたっけ。自然…自然治癒じゃなくて、ガンがなぜか消えてしまうというね、ことを狙っていますよ、今でも。あきらめてません。そういうふうになるかね、あるいはもしかして、分からないけども、うーん、残念なことになるかも分からない。でも、そのときまでは成長するっていうか、やりたいことをやっていきたいっていうね。その、自分は、キャリアコンサルタントとして役に立ちたいと思ったのでね。えーと、最後の最後までいつ来るか分からないけども、10年後か、20年後か、2年後か、1年後か分かりませんけど、キャリアコンサルタントとして成長し続けたい。

前立腺がんの語り

尊厳をもって生きるため、病気のことを考えないようにするために、職場には迷惑をかけていると思うが、仕事は続けていたい

その、人間の尊厳にかかわる部分っていうのは、苦しみもがきながらもですね、それであっても、安らかに、あの…納得したね、対応の仕方、生き方なんていう大げさな言い方じゃなくて、この病いに対する対応の仕方でいいんですよ、それができて、そしてそれも、家族と共有できて。ま、職場まで巻き込んで迷惑かけているわけで。そこまで、職場も自分の治療法とか何とかまでは、職場まで巻き込むことはできないんだけれど。ごくごく親しい友人には、その事情が話せたり。そういうことっていうのは、すごくね、大事な部分で、わたしはその点、だから、恵まれているかなと。特に兄弟だったり家族だったりに、というところを、どの程度までね、あの、サポートしてもらっているかが、すぐ、やっぱり、分かるわけで。だから、あとやっぱり、職場には、相当迷惑を今もかけているんだろうけれども。そうであっても、やはり、病気のことが常に頭から離れないっていうのが一番、わたしに…わたし自身にとっては、あんまりよくないもんですから。なるべく病気のこと考えないようにするためには、なるべく仕事を続けていたいし。自分の好きなこと。

前立腺がんの語り

働き盛りだったら言わないが、仕事を息子が引き継いでいて、自分はほぼ引退していたときにがんになったので、全部オープンにしている

――このがんになられたことについて、会社の関係とかお仕事の関係の方とかには、どの程度、オープンにしてらっしゃるんですか。

もう全部オープンにしてます。まあ、幸いなことに、その、がんになったときがだいぶ年取ってますから、ほとんどリタイヤしてるわけね、会社を。これが40とか50の働き盛りでね、従業員をたくさん抱えてたときだったら大変だったですよね。結局、銀行関係とかね、そういうのは、あの、黙っとかないと、ね、融資の継続とかそんな問題起こったんでしょうけど。まあ、今もう借金も何もないですから。で、私も半分もうリタイヤして、息子がやってますから、別に私ががんであろうと何も関係ないわけです。

前立腺がんの語り

企業の外部講師をしていた。スケジュールの変更は絶対あってはならない仕事だが、入院日と重なった仕事先だけには事情を伝えて何とかした

スケジュールの変更というのは、僕らの社会では絶対あっては ならないのです。親の葬式に出なくてもスケジュールは守らなきゃいけないのです。それが業界のルールなんですね。仕事を断ったとか、誰かに交代してくれと言ったときは、その後の仕事はやらないよという意思表示なんですよ。で、ただ、そこに2つだけ入っちゃったんですよね、ちょうどその入院期間中に。というのは、3月末から4月頭って新入社員研修の一番忙しい時期なんです。で、どうしてもかかっちゃうと。で、そこを外すともっとえらいことになっちゃうか ら、どうしてもそこで入院せざるを得ないと。で、やむを得ないもんですから、うん、で、そこだけは誰か、ね、新入社員研修って、幸いなことに交代がきくんで、誰か講師探して代わってもらってくれと。で、ただ、いや、実はがんで手術をするんだ。おれはもう少し生きたいからと。それはもう向こうは何とも言えないわけで、反論しようがないわけですよね。親の葬式ぐらいだったらば、出てこいとなっちゃうんです。「先生、元気でしょ」ということなんですから。約束は果たしてくださいと、契約ですから。それはわれわれの世界の厳しいところなんですよね。家族が入院していても死に目に会えなかったという事例はたくさんあるんです。われわれの仕事の中では。あの、まあ、そういう最後ぎりぎりのところですよね、うん。で、その2人だけはね、というのは、その間に入った営業会社と向こうの社長にだけは言わざるを得なかったと。