ひとがたアイコン

インタビュー時年齢:53歳 (2021年1月)
感染時期:2020年3月
感染した家族:父(当時82歳)・母(79歳)・妹(50歳)・甥(8歳)
背景:首都圏在住の男性、飲食店経営。妻と娘と3人暮らし。

最初に発症したのは、自宅から車で2-30分ほど離れたところで、認知症の母と暮らしていた父だった。その後母と、同じマンションの別室に住んでいた妹(インタビュー11)、甥の感染が判明。当初父以外は自宅待機だったが、最終的には全員が入院した。父は重症化してICUで人工呼吸器を装着したが回復せずに亡くなり、他の家族は全員回復した。自分は濃厚接触者とされたので経営する飲食店を1カ月の休業としたが、復帰後に従業員の態度がよそよそしくなったのはショックだった。

プロフィール詳細

2020年3月に、自宅から車で2-30分ほどのところに住む父母と同じ建物の別の階に住んでいた妹とその子どもの一人が感染し、母と妹親子は回復したが、父は重症化してICUに入り、そのまま帰らぬ人となった。

3月半ばごろ、認知症の母を介護していた父が、少し熱っぽいということで病院を受診したところ、コロナということでそのまま入院隔離になってしまった。父は持病もなく健康だったが、母の介護で体力的に参っていたのかもしれない。一緒に受診した妹もコロナが疑われたが、家に残された母と子どもの面倒を見るためにいったん家に戻った。妹は保健所の指示で自宅待機していたが、夜中にパニック発作を起こし、呼吸困難に陥った。電話をもらって妹の家に駆けつけたときは、既に救急隊が到着していた。すぐにも中に入りたかったが、救急隊員も保健所の許可がないと入れない状態で、自分は入れてもらえなかった。妹と二人の子どもは(一人は陰性だったが*)父と同じ病院に入院することになり、熱はあったものの元気でピンピンしていた母は認知症に対応できる別の病院に入院した。
*東京都では子どもが陰性と判定されても、親が入院する医療機関に一緒に入院できるよう対応しています。万が一、子どもが体調を崩しても迅速に対応でき、感染を広げるリスクも避けられるからとのことです。

入院中の父とは電話でやりとりをしていたが、3月の終わりごろ病院から連絡があり、人工呼吸器をつけるので話ができなくなると言われた。「怖いんだ」という父に「おやじなら大丈夫だよ。絶対戻って来れるから頑張ってくれ」と話したのが最後となり、その10日後に亡くなった。お別れは身内1人だけということだったので、自分が代表して遺体安置所に会いに行ったが、袋に密閉されていて、顔だけがちょっと見えるような状態だった。本人に触れることはもちろん、お花を入れるのもだめと言われたが、知り合いの葬儀屋さんに頼んで、花と写真と自分が着ていたジャンパーを棺桶の中に入れてもらった。そこから葬儀場に向かったが、コロナ患者の火葬は16時以降と決まっていて、家族であっても駐車場のところまでしか入ることはできなかった。駆けつけた親戚と一緒に駐車場で待っていて、葬儀屋さんからお骨を受けとる形になった。

皆が退院した後に妹の家に集まったとき、母だけには父のことを知らせていなかったので、父が旅立ったということを話すと、少し寂しそうな顔をしていた。自分は仕事があるので、認知症の母には施設に入ってもらうことにしたが、受け入れてくれるところがなかなか見つからなかった。しばらくの間は妹と自分の家を往復しながら過ごしていたが、夏前にようやく大手がやっている施設に入居することができた。嘘をつくのは嫌だったので、感染していた事実はきちんと伝えたが、会社側は初めてのことだからと、2回も役員会議を開いて受け入れを決めたと聞いている。

自分自身は父親が発症する1週間くらい前に、仕事のことで父と会っていたので、保健所から父の発症後1週間自宅待機して毎日検温するように言われた。まだ緊急事態宣言はでていなかったが、従業員も心配だろうと考え、自分が経営する飲食店2店舗を1か月間休業した。しかし、その後職場に復帰すると、従業員が怖がって近くで話をしようとしないなど、差別的な態度に嫌な思いをした。父と一緒に訪れた銀行の支店長からも自宅に何度も電話があり、根掘り葉掘り聞かれたのも不愉快だった。

一方、自宅待機中に保健所の担当者からは頻繁に電話があり、PCR検査を受けたり、医師に診てもらったりしていなくても、検温して体調を見ながら家の中で普通に生活していただいて大丈夫ですよ、といわれたのはとても嬉しかった。

私は: です。

(アンケート結果の扱いについては個人情報の取り扱いについてをご覧ください。)

認定 NPO 法人「健康と病いの語りディペックス・ジャパン」では、一緒に活動をしてくださる方
寄付という形で活動をご支援くださる方を常時大募集しています。

ご支援
ご協力ください

モジュール一覧