インタビュー時:57歳(2021年4月)
関係:母
医療的ケアのある子:長男17歳
首都圏在住。夫、長男の3人家族。

長男は1歳2ヶ月頃まで元気だったが、感染症を繰り返すごとに状態が悪くなり、1歳6ヶ月でミトコンドリア脳筋症(Leigh脳症、ピルビン酸脱水素酵素欠損症)と診断された。
言葉での意思疎通は難しく、人工呼吸器、気管切開、吸引、胃ろうからの経管栄養がある。
自身は障害のある子どもを支援するNPO法人で活動している。
長男の特別支援学校に付き添いながら、卒業後に社会に出る準備を大切に過ごしている。

プロフィール詳細

2004年に第一子の息子を出産し、子育てをしていた。
1歳半頃にインフルエンザウイルスに感染し、首がぐらぐらする、けいれん発作などの症状で入院し、ミトコンドリア脳筋症(Leigh脳症、ピルビン酸脱水素酵素欠損症)と診断された。
進行性でありそれまでできていた歩行や食事などができなくなったが、ゆっくりながらも発達し、3歳で歩けるようになった。

日中も薬の服用が必要で、歩くことに支援が必要なために、幼稚園を探すのは大変だったが、「できないことは周りの大人が手助けすればいい」と受け入れてくれた幼稚園に楽しく通っていた。
幼稚園での初めての運動会で体調が悪くなったことをきっかけに、ふらつくことが増え、食事が飲み込めなくなり入院した。
その後、下痢をきっかけに急に呼吸状態が悪くなった。
「ママ助けて。おうちに帰りたい」と泣く息子が抱きついてきたが、医師から「採血するので外に出ていてください」と言われ病室を出た。
その後、処置を受ける息子を丸1日病室の前で待っていて、ようやく呼ばれた時には、たくさんの点滴と、人工呼吸器がついていた。
それからは言葉でのやり取りや意思疎通が難しくなり、寝たきりの状態である。

自分も夫もあきらめられず色々な治療をしてもらいながら、気管切開と吸引、経管栄養のケアをおぼえて1年半後に自宅に帰った。
他のお母さんに教えてもらった注意点がたくさんあり、とても助かった。
入院中の経緯で医療者の言う通りにしていたら子どもを守れないと思い、その後の入院は自分ができる限り付き添うことにした。

年長クラスの7月に退院し、近所に療育施設が無かったので自宅で過ごしていた。
翌年から入学できる特別支援の小学校を探したが、3月下旬になっても決まらなかった。
困って自治体の知事と教育委員会に手紙を書くと、県立の特別支援学校に通えることが決定した。

その後、息子は小学1年生で体調を崩して人工呼吸器が必要となった。
中学3年生でけいれん発作時に気管の上部と下部の筋肉が締まることで空気の逃げ場がなくなり、食道内の圧が高まったために食道破裂が起きた。以来胃ろうが必要になった。
学校では自分がずっと付き添っていたので、親が付き添わなくてもいい仕組みづくりの交渉を頑張ったが、高1になっても学校での付き添いには変化がない。
今後、息子の高校卒業後に私がいなくても生活できるように、社会の中で過ごす機会を大切にしている。

自分の仕事は会社で3年間働いた後にアメリカの大学院で学び、1年半日本語教師をしていた。
帰国後は日本語教師を続けながら図鑑などの翻訳の仕事などをしていた。
息子の入院先の病院で消灯後もパソコンを使って作業をした時期もあったが、調べ物が多く納期があるなど負担が大きく、今は仕事を受けていない。

自分の両親は少し前までは手助けをしてくれていたが、今は高齢になり、ほとんど手伝いはない。
夫は息子にどう関わったらいいかが、分からないのだと思う。
平日は仕事をしており、息子のケアに携わる機会が少なく、徐々にケアから遠のいている。
入院中の医師からの言葉にショックを受けて泣いていた時、隣のベッドで一緒に泣いてくれたお母さんとは、今でも仲良くしている。
手作りの胃ろう食に関心を持っていたお母さんとも仲がいい。
年に1回くらいの映画鑑賞や、通信講座などで学んだアロマテラピーやマッサージなどが息抜きになっている。
最近は、医療的ケアがある子どもを支援するNPOでの活動に取り組んでいる。

私は: です。

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