インタビュー時(2021年6月)の年齢:54歳
関係:母
医療的ケアのある子:次女17歳
首都圏在住。夫、長女(大学2年生)、次女(17歳、医療的ケア児)、実母と暮らしている。

次女は気管切開があるが自立呼吸。ほぼ全盲で外出時は白杖を使っている。現在は盲学校高等部卒業後の進路を検討中、18歳を目前に医療・福祉の移行期を迎えている。家族の雰囲気を察して「大丈夫」と盛り上げてくれるムードメーカー。長女がガイドとなり、次女は東京オリンピックの聖火ランナーを務める。次女のがん再発を機に常勤職を退職したが、生命力の強い娘の様子から「娘を諦めない、でも私も諦めない」と考え、フリーランスの仕事を再開した。

プロフィール詳細

妊娠28週の早産で出産。先天性の疾患で生後まもなく臍ヘルニアの手術や肝臓のがんの治療などが必要だった。未熟児網膜症によりほぼ全盲、低血糖になりやすく経管栄養の連続注入を行っていたが、注入物の逆流があり、十二指腸までのEDチューブを入れていた。気管切開をして人工呼吸器を使っていたが、退院前に人工呼吸器なしで過ごすことができるようになり、初めての退院は1歳3ヶ月の時だった。最初の医療的ケアは、気管切開の痰吸引と1日18時間のEDチューブからの連続注入だったが、EDチューブは胃チューブと違って、抜けると病院でレントゲンを撮りながら入れ直してもらわなければならず、テープをしっかり貼っても何度も抜けてしまい大変だった。2-3歳のときにEDチューブから胃チューブに変わり、就学前に舌を小さくする手術を受けて、口から食事がとれるようになると胃チューブも抜けた。

当時は、在宅で医療的ケア児を看ようということが言われ始めた頃で、在宅療養の支援が少なく、行政に相談しても情報が得られなかったり、誤った情報だったりした。「(支援は受けず)自分の子は自分で育てることが基本」と言われたこともあった。東京都の重症心身障害児を専門とする看護師には、なんでも話せた。きょうだい(長女)のことも気にかけてくれる、この出会いには感謝している。とは言え、当時は支援を探すことも、使える支援を自分たちの生活ニーズに合わせていくための調整も、何もかも手探りでやってきた。

在宅療養のための支援導入には、仕事の給与以上のお金がかかったが、好きな仕事を正社員として続けたいと考えていた。また、娘のためにも、正社員として社会的に保障されていることが重要だとも考えていた。夜間の吸引や経管栄養注入のトラブルで睡眠が十分取れない時は、仕事中ぼーっとし、自信が持てなくなることがあった。娘のがんが再発した時、在宅療養を支える支援者が見つからず、近くで医療的ケアのある子どもを預かる保育園もなく、病児保育を利用するには娘の免疫状態が十分ではなく、八方ふさがりだった。もしかしたら娘の命が長くないかもしれないと思い、娘に集中するためフルタイムの仕事を辞めた。周りは「お母さんがやっと子どもに向きあってくれた」と安堵した様子だったが、今でも唯一後悔していることだ。退職後2ヶ月ほどして、娘はとても元気で、強い生命力を感じ、「娘を諦めない。でも私も諦めない。私は私の人生があるから、私も諦めちゃいけない」と思い、フリーランスの仕事を再開した。今、仕事の軸があるから子どもに対しても全力で頑張れると思っている。

小学校入学以来大きな体調の不調がなかった娘が、この2年乳房の腫瘍や腎臓の病気の治療が必要で入院を繰り返すことになった。これまで体調が安定していたこともあり、医療とのつながりが薄れていたことに加え、17歳になり小児から成人医療に移行する時期で、適切な医療機関を見つけることが難しい。高等部卒業も控え、進路を検討している。医療、社会生活ともに分岐点にきている。医療的ケアや、目が見えないからということで、選択肢が限られてしまい、娘に合ったところに行くのではなく、娘が行けるところに行くしかないと感じる。受け入れられないと言うだけではなく、何か可能となる提案を出してくれたらと思う。

家族は普通の家族。次女は素直で、ツンデレで、家族の雰囲気を察して「頑張れ」「大丈夫」「いいこ」と言ってくれるなど家族を盛り上げてくれる。モリモリ食べ、生命力がある。外出は白杖を使っている。夫はマイペース、長女のことは次女の2倍3倍くらいいっぱい手をかけてかわいがってあげようと思い、フルタイムの仕事をやめてからは長女の学校行事には全部出てきた。次女と一緒に、長女の部活動の大会を応援するのは恒例行事で楽しんできた。

私は: です。

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