インタビュー時:43歳(2021年4月)
関係:母
医療的ケアのある子:次男17歳
首都圏在住。子どもは長男と次男の2人。

次男は妊娠34週に仮死状態で生まれた。
看護師として小児病棟での勤務経験もあったため、顔つきからなにか他の子とは違うと感じた。
次男は生後半年で気管切開と人工呼吸器を装着し、現在も胃ろうなどの医療的ケアがある。
重度の知的障害もあるが、将来は家族と離れ、他の人の助けを得て過ごすことが自立と考えている。
自身は次男が7歳のとき、正規雇用の看護職として復職している。

プロフィール詳細

妊娠中に胎児に腎臓の腫れが見つかり、大きな病院での出産を決めた矢先、切迫早産のため妊娠34週で出産した。
出産直前まで看護師として小児病棟で勤務していた経験もあり、子どもが低体重で出まれたことに不安はなかったが、顔など他の子との違いが気になっていた。
ただ、担当医が何も言わないうちは違和感を口に出してはいけないと思い、自分の心に留めていた。

生後1ヶ月で行われた染色体検査の結果には異常がなく、それなら何が原因だろうと悶々とした気持ちで過ごした。
ただ、腎臓の手術を始め、13回の手術と入院が続き、1年の半分は病院で過ごす生活に、早く治して家に帰りたいという気持ちでいっぱいだった。

医療的ケアは、生後半年で気管切開、その後人工呼吸器を装着した。命を助けるにはすぐに決断するしかなかった。
人工呼吸器を装着すると本人が楽になったのか笑うことが増え、もっと早くにしてあげればよかったとも思った。

職業柄、自宅で医療的ケアを行うことに不安はなかったが、在宅での限られた環境や、脱衣所の寒さ、風呂場に酸素の配管がないなど病院との違いに改めて気づくこともあった。
現在も、胃ろうによる経管栄養、膀胱に管を入れ尿を排出する膀胱皮膚ろうなどもある。

次男は長男に比べ明らかに知的にも身体面でも発達が遅れていたが、病名は分からないまま幼児期を過ごした。
どちらかに原因があるかは聞かないと夫婦で話し合い、遺伝子検査を行った。
結果、7歳頃に遺伝子の突然変異による遺伝子疾患と分かった。具体的な疾患名が分かって自分の気持ちに一区切りがついた。

2つ上の長男は、次男が生まれてすぐに祖父母宅に預けられることが多く、母として十分に手をかけてあげられなかったことに未だに申し訳ない気持ちがある。

長男は次男のことを生まれたときからとても可愛がっている。
呼吸器の管がついたバギーで出歩くと周囲の目が気になったが、長男は「(弟が)可愛いからみんな見てるんだね」とニコニコ話してくれる。
次男には使えないと判断して旅行先のお土産を買わなかった際に「なんで(弟には)買わないの」といわれハッとしたり、ありのままの弟として接する姿に教えられることが多かった。

看護師の仕事は1年の育休をとったのち復帰する予定だった。
しかし、市役所の入園相談で「こういう子はおうちでお母さんの愛情の下育つのが一番の幸せ」と入園を断られ、仕方なく退職した。

入院の付き添いの日々で母親として過ごすのも楽しかったが、復職への気持ちが高まり、非正規で短時間の仕事を少しずつ受けるようになった。
次男は特別支援学校に通い、小学校入学当初は医療的ケアを理由に付き添いが必要だったが、学校と交渉を重ね、付き添いが不要になった7歳頃に正規雇用の看護職として復職した。

これまで様々な人や制度のサポートを受けてきたが、その中でも思い出深いのが那覇マラソンに出場するため友人家族らと行った2年前の沖縄旅行だ。
マラソンに出場している間、次男のケアをお願いできるよう一時預かりの制度を旅行先で使えないか、市役所に問い合わせたところ担当者に調整してもらうことができた。
また事情を知っている旅行会社経由で、ホテル滞在中のボランティアの申し出も受け、周囲の人のやさしさに気づくことができた。

マラソンを始めるきっかけも、次男の入院付き添い中にチャリティランナーに誘われたことで、子どものおかげで自分自身の世界が広がったと感じている。

次男は17歳で、高校卒業後の生活が視野に入っている。
知的障害が重く作業所などで働くことは難しいが、家族以外の誰といても楽しく過ごせることが次男にとっての自立ではないかと思う。
小さい子が元気に騒いでいるなど、賑やかな雰囲気が次男は好きなようだ。
いずれ家族と離れグループホームで仲間と過ごすなど、いろんな人の力を借りながら、次男が楽しく生きていけることを願っている。

私は: です。

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